内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

いなくなった途端に忘れられる存在に意味はあるか

2020-07-10 21:23:03 | 雑感

 以下、すべて愚痴です。
 今日なにか特別な出来事があったわけではありません。「いつもと変わりありませんよ~。元気にしてま~す」というふりだって、できなくはありません。底なしの深淵がぱっくり口を開いているそのすぐ脇で気丈に振る舞うことが数十年来の日常なのですから。
 ただ、今日、ふと、この三年間のこと、そしてこれからのことをいろいろ考えちゃって、そうすると、なんかもう、すべてがほんとうにバカバカしくなってしまったのです。
 みんなに迷惑かけたくないので(かけちゃっても、結果、たいしたことないのかも知れないけれど)、あと一年は辛抱します。それで学科長は金輪際辞めます。正直、できることなら、大学も辞めたい。この三年、いろいろありました。損得勘定はしません。意味ないですから。
 要約すれば、ただひたすら、自分をすり減らしただけ。得たもの? そんなものあるわけないでしょ。どなたのせいでもございません。すべて私儀の不徳の致すところでございます。
 もし「今のご感想は?」って、突然マイクを突きつけられたら、どう答えましょうか。答えは決まっています。一言、「日々、いろいろ勉強させていただいております」と、殊勝な素振りで微かに微笑みながら頭を垂れることでしょう。
 と同時に、心の中では、「なにもかも、ばぁ~かみたい」って叫んでいると思います。
 いなくなった途端に、もともと存在していなかったかのように忘れられる。それでも生きていた意味があると証明できなければ、私の人生は、端的に、無、です。