内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』における“nasty”の語義について

2020-07-22 18:35:51 | 読游摘録

 以前にも取り上げたことがあるが(この記事)、ノーマン・マルコムの『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』(講談社現代新書 1974年、平凡社ライブラリー 1998年)は私の長年の愛読書で、今でもときどき手にとって適当に数頁読み返すことがある。その際には、原典の第二版 Ludwig Wittgenstein. A Momoir by Norman Malcolm with a Biographical Sketch by G. H. von Wrigth, Second edition with Wittgenstein’s letters to Malcolm, Clarendons Press・Oxford, 2001 を必ず参照する。 
 昨日話題にした『言葉の魂の哲学』の第二章はウィトゲンシュタインの言語論を考察対象としており、その他の章にもウィトゲンシュタインへの言及は頻繁に見られる。最終章第三章第2節「言葉を選び取る責任」の最終項にはマルコムの回想から二箇所引用されている。その後者は、1939年秋頃、散歩の途次、ウィトゲンシュタインがマルコムの発言に激怒した時のことを回想しているウィトゲンシュタインのマルコム宛の手紙の一節である。最初に読んだときからずっと忘れられない一節である。 
 まず、原文を引こう。そして、四十年あまり前に私が最初に読んだ板坂元訳、最後に、『言葉の魂の哲学』の古田訳を掲げよう(藤本隆志訳は未見)。

You & I were walking along the river toward the railway bridge & we had a heated discussion in which you made a remark about ‘national character’ that shocked me by it’s primitiveness. I then thought: what is the use of studying philosophy if all that it does for you is to enable you to talk with some plausibility about some abstruse question of logic, etc., & if it does not improve your thinking about the important questions of everyday life, if it does not make you more conscientious than any … journalist in the use of the DANGEROUS phrases such people use for their own ends. You see, I know that it’s difficult to think well about ‘certainty’, ‘probability’, ‘perception’, etc. But it is, if possible, still more difficult to think, or try to think, really honestly about your life & other peoples lives. And the trouble is that thinking about these things in not thrilling, but often downright nasty. And when it’s nasty then it’s most important. (op. cit., p. 35)

二人で川沿いに鉄橋の方に向かって歩いていたとき、君が言い出した“国民性”について激論したね。あのとき、僕は君の意見のあまりの幼稚さに驚嘆した。僕は、あのとき、こう思った。哲学を勉強することは何の役に立つのだろう。もし論理学の深遠な問題などについて、もっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないのなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら、そして、もし“国民性”というような危険きわまりない語句を自分勝手な意味にしか使えないジャーナリスト程度の良心くらいしか、哲学が君に与えるものがないとしたら、哲学を勉強するなんて無意味じゃないか。御存知のように、“確実性”とか“蓋然性”とか“認識”などについて、ちゃんと考えることは難しいことだと思う。けれども、君の生活について、また他人の生活について、真面目に考えること、考えようと努力することは、できないことではないとしても、哲学よりも、ずっとむずかしいことなんだ。その上、こまったことに、俗世間のことを考えるのは、学問的にははりあいのないことだし、どっちかというと、まったくつまらないことが多い。けれども、そのつまらない時が、実は、もっとも大切なことを考えているときなんだ。(平凡社ライブラリー版 41-42頁)

君と私が川沿いに鉄橋の方へ歩いていて、激しい議論になったことがあったね。そこで君は「国民性」について言い出して、私はその意見の幼稚さにショックを受けた。あのとき私はこう思っていた。哲学を学ぶことは何の役に立つのだろう。もしも哲学が、論理の難問についてもっともらしい理屈をこねられるようになるくらいしか君の役に立たないのだとしたら、また、もし哲学が日常生活の重要な問題について君の考える力を向上させないのだとしたら、そして、もしも哲学が、「国民性」というような危険極まりない常套句を自分の目的のために使うジャーナリスト程度の良心くらいしか君の与えないのだとしたら、哲学を学ぶことに何の意味があるだろう。君も知っての通り、「確実性」とか「蓋然性」とか「知覚」といったことについてよく考えることが難しいのは当然だ。でも、それよりもっと難しいのは、自分の生活や他人の生活について本当に誠実に考えること、あるいは考えようと努力することなんだ。そのうえ、困ったことに、これらについて考えるのはスリリングではないし、往々にして全く不愉快だ。けれど、その不愉快なときが、最も重要なことを考えているときなんだ。(『言葉の魂の哲学』中の古田訳)

 平凡社ライブラリーの板坂元訳(旧版の講談社新書とまったく同一)では、「哲学を勉強するなんて無意味じゃないか」という、原文にはない強意が加えられているのがわかる。「俗世間」に対応する語も原文にはない。古田訳のほうが概して原文に忠実だが、“if possible” が訳し落とされている。両訳を比べても私にはよくわからないのが、nasty のニュアンスである。板坂訳では「つまらない」、古田訳では「不愉快」と訳されているが、どちらも nasty の多義性をカヴァーできているとは思えない。かといって、「厄介な」とか「手に負えない」の方がいいとも思えない。ちなみに、仏訳(traduit par Guy Durand)は « pénible et déplaisant » と二語重ねている。この語によってウィトゲンシュタインはどんなことを言わんとしていたのだろう。