内的自己対話-川の畔のささめごと

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三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十三)―「人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛している」

2023-10-30 13:03:06 | 哲学

 かつてはパスカルがその著者に擬されたこともあった『愛の情念に関する説』(Discours sur les passions de l’amour)は、パスカルの書ではないとする点で今日の諸家の意見は一致している。ところが、三木は『パスカルにおける人間の研究』の第三章をこの「偽書」の考察に当てている。三木によれば、「本文の内面的批評がそれをパスカルの著作と見なすべき根拠を与え得るという意見は現今パスカル研究において権威ある学者の間にひろく行われておる」ということだが、三木がこの章を執筆していた当時であっても事実はそんな簡単なことではなかった。当時から、パスカルの手になる著述か他の著作家によるものかという議論は両陣営に分かれて行われていた。
 三木の意図は、『愛の情念に関する説』を、「生の内在的解釈」と見なした上で、それを『パンセ』における「生の解釈、すなわち人間の存在を超越的なるものとの関係において解釈する」企図と対比し、両者のあいだの「著しい対照」を際立たせることにあった。
 両者の決定的な違いは、三木によれば、宗教的不安の有無である。『愛の情念に関する説』にはそれが欠けており、『パンセ』においてはそれが超越的なもの、つまり神への人間の関係を顕わにする契機として重要な位置を占める。
 前者がパスカルの書ではない以上、両者を比較してパスカルにおける思想的変化を見出そうとする試みには意味がない。パスカルにおいて次元を異にした二つの考察として両者を扱うことにも意味がない。
 三木も指摘しているように、両者の論述には若干の類似点があるにはあるが、前者での考察は杜撰であり、両者の比較はそのことを際立たせるに過ぎない。三木は同章の後半で両者の比較を行っているが、結果として、『パンセ』における愛をめぐる冷徹な批判的考察を前にすると、『愛の情念に関する説』の所説は色褪せて見えるばかりである。
 三木自身、『パンセ』の至るところで人間の愛の果敢なさが説かれていることを、引用を重ねて示す。

Il n’aime plus cette personne qu’il aimait il y a dix ans. Je crois bien : elle n’est plus la même, ni lui non plus. Il était jeune et elle aussi : elle est tout autre. Il l’aimerait peut-être encore telle qu’elle était alors. (S552, L673, B123)

彼は、十年前に愛していたあの女性をもう愛していない。それはそうだろうと私は思う。彼女はもはや同じではないので、彼だって同じではない。あのとき彼は若かったし、彼女だって若かった。彼女はすっかり変わってしまった。あのときのままの彼女だったら、彼もまだ愛したかもしれない。(前田陽一訳)

Mais celui qui aime quelqu’un à cause de sa beauté, l’aime-t-il ? Non, car la petite vérole, qui tuera la beauté sans tuer la personne, fera qu’il ne l’aimera plus. […] On n’aime donc jamais personne, mais seulement des qualités. (S567, L688, B323)

ところが、だれかをその美しさゆえに愛している者は、その人を愛しているのだろうか。いな。なぜなら、その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである。[…]だから人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛しているのである。

Qui voudrait connaître à plein la vanité de l’homme n’a qu’à considérer les causes et les effets de l’amour. (S32, L413, B162)

人間のむなしさを十分に知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。

 同章の最後まで読むと、三木が目論んだのは、二書の比較そのものではなく、『パンセ』における愛の弁証法を取り出すことにあったことがわかる。