1922年6月からハイデルベルクに留学していた三木がからマールブルクに移ったのは、今からちょうど百年前の1923年の秋のことである。フライブルクから転任してきたばかりのハイデガーが1923/1924年冬学期に行ったマールブルク大学での最初の講義「現象学的探究への入門」を三木は熱心に聴講する。この講義のなかでハイデガーが示した真理の定義「存在の蔽われずにあること」が三木にとってひとつの決定的な哲学的発見であったのではないかと思う。
10月19日の記事で見た『パスカルにおける人間の研究』の箇所(35頁)にその反響を聴き取ることができる。それに、。後年、「読書遍歴」(1941年、1942年『読書と人生』に収録)のなかで、「『パンセ』について考えているうちに、ハイデッゲル教授から習った学問が活きてくるように感じた」(『三木清全集』第一巻、429頁)と言っていることとも照応する。
ハイデガーがこの講義のなかでパスカルについて語ったかどうか。デカルトについては多くの時間を割いているが、パスカルへの言及は見られない。
三木自身、「読書遍歴」のなかで、パリで「ふとパスカルを手にした。パスカルのものは以前レクラム版の独訳で『パンセ』を読んだ記憶が残っているくらいであった」と記しているのみで、以前からパスカルに強い関心があったとは思われない。
「ところが今度はこの書は私を捉えて離さなかった」という。「『パンセ』は私の枕頭の書となった。夜更けて静かにこの書を読んでいると、いいしれぬ孤独と寂寥の中にあって、ひとりでに涙が流れてくることも屢々あった。」(全集第一巻、429頁)
こうして最初に書かれた論文が「人間の分析」であるが、1925年5月に『思想』第四十三号に掲載されたときの題名は「パスカルにおける生の存在論的解釈」であり、こちらのほうが当時の三木の意図をよく表している。
この論文は、哲学とのひとつの真正な出会い方の記録でもある。