内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(九)― 欠陥と悲惨という「真理」

2023-10-18 23:59:59 | 哲学

 『パスカルにおける人間の研究』の記述の順序とは逆になってしまうが、昨日の記事で取り上げた箇所の直前で、三木はパスカルにおける「真理」(vérité)の概念の解釈を行っている。そこに立ち戻りたい。
 三木によれば、パスカルにおける真理は、命題のそれを意味しない。真理とは、「存在」の存在の仕方、その特殊なる「存在の仕方」である。虚偽が存在の蔽われてある態であったのに反して、真理は存在の「蔽われずに」「顕わにされてある」(à découvert et sans voile, S681, L427, B194)態における存在の仕方である。「パスカルが欠陥と悲惨とを真理と呼んでいる」というときに三木が参照しているのは、自己愛について考察している断章(S743, L978, B100)である。三木の引用の仕方はかなり自由で、断章の文脈に沿ってはいない。断章の当該箇所を見ておきたい。

La nature de l’amour-propre et de ce moi humain est de n’aimer que soi et de ne considérer que soi. Mais que fera-t-il ? Il ne saurait empêcher que cet objet qu’il aime ne soit plein de défauts et de misère ; il veut être grand, et il se voit petit ; il veut être heureux, et il se voit misérable ; il veut être parfait, et il se voit plein d’imperfections ; il veut être l’objet de l’amour et de l’estime des hommes, et il voit que ses défauts ne méritent que leur aversion et leur mépris. Cet embarras où il se trouve produit en lui la plus injuste et la plus criminelle passion qu’il soit possible de s’imaginer ; car il conçoit une haine mortelle contre cette vérité qui le reprend, et qui le convainc de ses défauts. Il désirerait de l’anéantir, et, ne pouvant la détruire en elle-même il la détruit, autant qu’il peut, dans sa connaissance et dans celle des autres ; c’est-à-dire qu’il met tout son soin à couvrir ses défauts et aux autres et à soi-même, et qu’il ne peut souffrir qu’on les lui fasse voir ni qu’on les voie.

自己愛とこの人間の「自我」との本性は、自分だけを愛し、自分だけしか考えないことにある。だが、この自我は、どうしようというのか。彼には、自分が愛しているこの対象が欠陥と悲惨とに満ちているのを妨げるわけにはいかない。彼は偉大であろうとするが、自分が小さいのを見る。幸福であろうとするが、自分が惨めなのを見る。完全であろうとして、不完全で満ちているのを見る。人々の愛と尊敬の対象でありたいが、自分の欠陥は、人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。彼が当面するこの困惑は、想像しうるかぎり最も不正で最も罪深い情念を、彼のうちに生じさせる。なぜなら、彼は、自分を責め、自分の欠陥を確認させるこの真理なるものに対して、極度の憎しみをいだくからである。彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言いかえれば、自分の欠陥を、自分に対しても他人に対しても、覆い隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。(前田陽一訳)

En voici une preuve qui me fait horreur. La religion catholique n’oblige pas à découvrir ses péchés indifféremment à tout le monde. Elle souffre qu’on demeure caché à tous les autres hommes ; mais elle en excepte un seul, à qui elle commande de découvrir le fond de son cœur, et de se faire voir tel que l’on est. Il n’y a que ce seul homme au monde qu’elle nous ordonne de désabuser, et elle l’oblige à un secret inviolable, qui fait que cette connaissance est dans lui comme si elle n’y était pas.

ここに私をぞっとさせる証拠がある。カトリック教は、自分の罪をだれにでも無差別にさらけ出すことを強いはしない。この宗教は、他のすべての人々に隠したままでいることを許容するが、ただし、そこからただ一人だけを除外する。その一人に対しては、心の底をさらけ出し、自分をあるがままの姿で見せることを命令する。この宗教が、われわれについての誤認を正すべきことを、われわれに命ずるのは、ただ一人の人に対してだけである。しかもその人は、不可侵の秘密としての義務を負わされているので、彼が持っているこの知識は、彼の中にありながら、あたかもそこにないのと同じようにされているのである。(同訳)