内的自己対話-川の畔のささめごと

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三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(七)― 人間的存在の「動性」、あるいは「悪しき無限」

2023-10-16 23:59:59 | 哲学

 『パスカルにおける人間の研究』には「動性」という言葉が四十箇所あまり出てくる。それはまず人間の生の不安定性のことであり、人間の存在に固有な様態のことである。前から順に用例を拾ってみよう。

世界に向かう状態性がかようにして必然的に反動して自己に関係するところに人間的存在の最初の「動性」は現われると考えられる。(17頁)

動性こそ人間的存在の最も根本的なる規定である。(22頁)

人間的存在の動性は自体においては生の充実を齎さずしてかえって生の空虚を惹き起こすのである。(24‐25頁)

ひとは生のただ中にありながら生を求める。すなわちここに生の動性がさらに新しき自覚に移りゆくべき理由は存在する。(25頁)

生の動性の第一の契機は「不安定」(inconstance)である。(25頁)

しかしながら生の動性はただひたむきに前進するのみなる運動ではなくして、むしろその種々相(diversité)をもっておる。(26頁)

倦怠そのものはまた生の動性のひとつの基本的なる表現である。(27頁)

生の動性の第二の契機は否定的にあらわれる。この否定的なる動性をパスカルは一般に「慰戯」(divertissement)と名付けておる。(27頁)

生の動性は最初にはひとつの悪しき無限である。(32頁)

 「人間の研究」とは、人間の生の動性についての省察のことだと言ってもよいくらいだ。その動性が悪しき無限であるかぎり、人間は悲惨なままであり、その悲惨さから目を背けようとして慰戯に耽っても長続きはしない。遅かれ早かれ倦怠が訪れる。その倦怠から逃れようとしてまた慰戯に耽る。この悪しき無限の裡で死に至る。

La seule chose qui nous console de nos misères est le divertissement, et cependant c’est la plus grande de nos misères. Car c’est cela qui nous empêche principalement de songer à nous, et qui nous fait perdre insensiblement. Sans cela nous serions dans l’ennui, et cet ennui nous pousserait à chercher un moyen plus solide d’en sortir, mais le divertissement nous amuse et nous fait arriver insensiblement à la mort. (S33, L414, B171)

われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかしこれこそ、われわれの惨めさの最大なものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである。それがなかったら、われわれは倦怠に陥り、この倦怠から脱出するためにもっとしっかりした方法を求めるように促されたことであろう。ところが、気を紛らすことは、われわれを楽しませ、知らず知らずのうちに、われわれを死に至らせるのである。(前田陽一訳)