内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』の岩波文庫版について

2023-10-06 23:59:59 | 読游摘録

 先週土曜日編集者に送った論文の中に、迷った挙げ句結局は引用しなかったシモーヌ・ヴェイユの言葉がある。この言葉は、『重力と恩寵』のなかに出て来るのだが、最初に読んだのは『上田閑照集 第七巻 マイスター・エックハルト』(岩波書店、二〇〇一年)の「はじめに」のなかでだった(同書四頁)。

極度の不幸によって、完徳の域に達した魂の中に生じる、この神の不在はなんであろうか」(著作集第Ⅲ巻、春秋社、一九六八年、九一頁)。

 一九四七年に Plon 社版の原文は次の通り。

Qu’est-ce que cette absence de Dieu produite par l’extrême malheur dans l’âme parfaite ?

 上掲の日本語訳は、この文だけを文脈から切り離してみると、「極度の不幸によって」が「達した」にかかるのか「生じる」にかかるのか、前者の後に読点があっても、自明ではない。原文は構文的には明快である。「極度の不幸によって」「生じる」以外の解釈はありえない。上掲の訳の語順を入れ替えて、「完徳の域に達した魂の中に、極度の不幸によって生じる」とすれば、曖昧さは回避できる。『重力と恩寵』の日本語訳は、他にちくま学芸文庫版(一九九五年)と岩波文庫版(二〇一七年)がある。前者は手元になく未見であるが、後者は先日電子書籍版を購入した。それを見て、かなり驚いた。初版のプロン社版とはテキスト異同が少なからずある。
 その理由は訳者である冨原眞弓氏が「訳者あとがき」で詳しく説明している。

凡例に記したように、本校訂版では、表題、三九の主題の分類と順序、および各断章の区切りや順序は、基本的にティボン版(引用者注ー初版のこと)『重力と恩寵』に拠った。そのさい、すべての断章を「カイエ」の当該箇所と照合し、ティボン版との異同を逐一確認した。その結果、少なからぬ数の断章に段落・順序・区切・表記・構成等のさまざまな移動や変更が認められた。よって、ティボン版の敷いた形式・表題・三九の主題分類という軌道に乗って走りながらも、ヴェイユの「カイエ」をかたわらにおいて参照し、ときにわずかに、ときには大きく軌道からはみだして、そのつど軌道と微修正してきた。修正の基準は単純かつ自明。ヴェイユの思考が正確に反映されているかに尽きる。ところが実践はそれほど単純でも自明でもない。ヴェイユの意図に完全に忠実な「復元」は不可能である。ただ、ティボンの編集上の操作(省略・加筆その他)によって、意味や抑揚にあきらかな変化が生じたと思われる箇所は、当該の「カイエ」に準じて復活・削除・差換え等の復元をおこない。本文の分量は二割近く増えた。

 この後ティボンの編集方針の批判的検討がまだ続くのだが、そこは省略する。しかし、それを締め括る以下の指摘は重要だ。

ティボンは主としてフランスの、それもカトリックの読者を念頭に、これら非西欧的な言及を大幅に圧縮した。編者の意図がどうであったにせよ、ティボン版『重力と恩寵』が、日西欧的・非キリスト教的な要素を削減して西欧的・キリスト教的な色調を相対的に強め、異教的・哲学的な言及を抑制して正統的・宗教的な抑揚を相対的に高めた事実は否めない。

 ヴェイユの著作のなかでもっとも広く読まれているティボン版『重力と恩寵』の編集方針が冨原眞弓氏の上掲の指摘のとおりであるならば、ティボン版は、ヴェイユの「虚像」とまでは言わないにしても、かなりデフォルメされたヴェイユ像を伝播させたということになる。
 ガリマール社版『ヴェイユ全集』の第六巻に収められた「カイエ」はなんとそれだけで四分冊になっており、総頁数二七〇〇頁に迫る。この四分冊は私の手元にもあるが、膨大な断章やメモを通して読むだけでも大変な労力を必要とする。それらとティボン版の断章を一つ一つを照合していくだけでも何年もかかるだろう。その細心の注意を必要とする照合作業に多くの時間を費やしたこの訳業は大変貴重な学問的貢献であると思う。
 と言った上で、上掲のヴェイユの一文に戻るのだが、この文に関しては、「カイエ」の第二分冊の四六七頁に同一の文を見出すことができる。ところが、冨原氏の訳はこうなっている。

完徳の域に達した魂のなかに極限の不幸が穿つ神の不在とはなにか。

 原文中の動詞 produire を「穿つ」と訳すのは、それこそ穿ち過ぎというものではないだろうか。