内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十)― 非キリスト教化された真理論

2023-10-19 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた一節で、三木がパスカルにおける真理の概念について第二の論点として指摘しているのは、真理は進んで「自己の在るがままの態を現わすこと」である。この表現は、昨日の記事の『パンセ』から断章の二つ目の引用箇所のなかの « se faire voir tel qu’on est » に対応している。しかし、断章の文脈では、これはカトリックにおける「告解」について使われている表現であり、真理一般が問題になっているのではない。ところが、三木は、昨日引用した断章のなかの « à découvert » と合せて、いわば非キリスト教化された(laïcisé)真理論を『パンセ』から引き出そうとしている。

正しき人間とは自体においてはもとより数学や神学の真なる命題を数多く認識している者をいうのではない。かえって彼は自己及び他人についてその在るがままの態を隠すところなく見、かつこれを語る人間である。彼は自己の無知、欠陥、悲惨を話すことを恐れないように、他人のこれらのもの彼らに告げることを憚らない。彼は人間の存在を正しく諦視し、その諦視したところを正直に伝えるものである。かようにして真理と虚偽とは存在、とくに人間の存在の「存在の仕方」の概念に外ならない。(36頁)

 この節の末尾に付された最初の注のなかで、 「パスカルのいう « à découvert » は、ギリシア語の « ἀληθής » を[…]直訳的に現わしている」としているところからも、三木のこのパスカル解釈がハイデガーの真理論及び存在論の気圏のなかで生まれたものであることは明らかである。