三木清の『パスカルにおける人間の研究』の「第二 賭」のなかにニーチェのパスカル評価に言及している箇所がある。三木が引用している「あらゆる基督者のうちの第一人者」という表現は、同書巻末の校訂者注によると、『曙光』の断章一九二に見られる。同注によると、この断章のなかで、ニーチェは、フランス人は、最も困難なキリスト教的理念を、観念としてではなく、人間として具現しており、この意味で最もキリスト教的な国民であると言い、その代表者としてパスカルを挙げ、「情熱と叡智と誠実とを併せもった、あらゆる基督者のうちの第一人者」であると書いている。
ニーチェはパスカルを若い頃から愛読しており、その蔵書の中にはパスカルのいくつかの著作のドイツ語訳があり、そのなかには多数の書き込みが見られるという(Dictionnaire Nietzsche, Robert Laffont, coll. « Bouquins », 2017, p. 674)。ニーチェは、『曙光』ばかりでなく、『善悪の彼岸』『道徳の系譜学』『偶像の黄昏』『この人を見よ』や遺稿のなかでもパスカルに言及している。ただし、Pléiade 版ニーチェ著作集(全三巻)の第二巻に収められた『曙光』の上掲の断章に編者はかなり長い注を付しており、「ニーチェのパスカルに対する態度はきわめて両義的であるし、そうあり続けるだろう」と述べている(p. 1358)。
ニーチェにとって、パスカルは、キリスト教世界のなかの最も優れた精神の持ち主の一人であり、まさにそれゆえにこそ敵対者として正面から戦うに値した。
『善悪の彼岸』第三篇「宗教的なもの」の四五節には、「宗教的な人間の魂のうちで知と良心の問題がどのような歴史をたどったかを理解し、確認するためには、パスカルの知的な良心と同じように深く、傷つき、巨大な存在でなければならないだろう」と記されている(光文社古典新訳文庫、中山元訳、2013年)。
同書四六節「キリスト教の信仰と古代精神」には、ニーチェのパスカルに対する両義的な態度が見られる。「原始キリスト教が要求し、しばしば到達していたあのような信仰は、懐疑的な南方の自由精神の世界のうちに登場したものだが[…]、それはパスカルの信仰に、理性が恐るべき方法で自殺し続けているようにみえるパスカルの信仰に、似たところがある。―パスカルの理性は蛆虫のように強靭で長生きだったために、一撃でひとおもいに殺すことはできなかったのである。」(同訳)
『偶像の黄昏』には、「反時代的人間の渉猟」と題された章に、反芸術的なキリスト教に対する批判が見られ、その例としてパスカルの場合が挙げられている。「実際のところ、歴史の中には、こうした反-芸術家、生の飢渇者がふんだんに見出せる。彼らはどうあっても事物をわがものとして、それを喰らい尽くし、ますます貧相なものとしてしまう。例えば生粋のキリスト教徒の場合、パスカルの場合などがそれである。」(河出書房新社、村井則夫訳、2019年)
『この人を見よ』では、パスカルへの「愛」が語られる。「私はパスカルを読むのではなく、愛している。私にとってパスカルは、キリスト教の犠牲としてもっとも教訓に富んでいる。最初はからだを、それから心理をゆっくり殺されていったのだが、その身の毛もよだつ非人間的な残酷さの形式を、パスカルは論理として体現している。」(光文社古典新訳文庫、丘沢静也訳、2016年)