昨日の記事で紹介した『紫式部ひとり語り』には、まるで式部が著者に憑依したかのように真実味に溢れた独白体の文章がいたるところに見られる。それは著者が式部の作品を長年に亘って深い愛情とともに読み込んできたからこそであろう。その独白の真実性が、著者によって丹念に共感を持って博捜された同時代の文学作品・日記・史料等によって裏づけられている。作家の想像力の産物としての独白形式とは異なった、それとして独自のジャンルを確立したとさえ言ってもよい稀有な作品になっていると思う。
この作品には、『紫式部集』から取られた和歌が式部の人生のそれぞれの時期の感懐を集約しているかのように散りばめられているが、著者によるその現代語訳が式部の心のメッセージの読み解きになってもいる。最終節「初雪」から引く。友人からの雪見舞いの手紙を受け取って、式部は歌を詠む。
私は外を見た。ああ、確かに雪が降っている。初雪だ。真っ白な雪がひとひら、またひとひらと、古く荒れた庭に舞い落ちている。
そうだ、私にもこの初雪のような時があった。無垢で何も知らず、恐れもせずにこの人生という庭に降り立った時が。しみじみとした思いが心に満ちて、私は詠んだ。
ふればかく 憂さのみまさる 世を知らで 荒れたる庭に 積もる白雪
〔世の中とは、生きながらえれば憂いばかりが募るもの。そうとも知らず初雪が、この私の荒れた庭に降っては積もってゆく。〕
(『紫式部集』113番)
私は人生を振り返る。出会いと別れの人生。憂いばかりの人生だった。だが長く生きてみてやっと分かった。それが「世」というものであり、「身」というものなのだ。これが私の人生だったし、これからもそうなのだ。
いづくとも 身をやる方の 知られねば 憂しと見つつも 永らふるかな
〔いったいどこに、憂さの晴れる世界があるというのでしょう。そんな世界などありはしません。いったいどこに、この身を遣ればいいのでしょう。そんな所も知りません。この世は憂い。そう思いながら、私は随分長く生きて来ましたし、これからも生きてゆきます。心配してくれてありがとう。大丈夫、ちゃんと生きているから。〕
(『紫式部集』114番巻末歌)
そう、この身が消えるまで、それでも私は生き続ける。
この巻末歌については、2014年12月1日の記事に私見を記している。