内的自己対話-川の畔のささめごと

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「不確定なもの、未知のものをまえにしての「こころのおののき」こそが研究者の原動力である」― リュシアン・フェーヴル『歴史のための闘い』より

2024-02-28 20:58:47 | 読游摘録

 昨日の記事で紹介したブロックの歴史学の捉え方は彼固有のものではない。ブロックの盟友であるリュシアン・フェーヴルも従来の歴史学の姿勢に対して批判的であった。過度に短い定義は信用し難いというフェーヴルが試みた新しい歴史学の定義は以下の通りである。

L’histoire que je tiens pour l’étude, scientifiquement conduite, des diverses activités et des diverses créations des hommes d’autrefois, saisis à leur date, dans le cadre des sociétés extrêmement variées et cependant comparables les unes aux autres (c’est le postulat de la sociologie), dont ils ont rempli la surface de la terre et la succession des âges.
                                          Combats pour l’histoire, Armand Colin, 1953, p. 20.

私の考える歴史学とは、過去の人間たちが地球上に時代の変遷に応じてつくりあげてきた、多種多様であるけれども相互比較が可能なさまざまな社会(これは社会学の公準である)、この社会的枠組のうちに過去の人びとを位置づけるとともに、その生きた時代と密接に関連させながら、かれらの多様な活動・多様な創作物を対象として科学的におこなう探究である。
                         長谷川輝夫訳『歴史のための闘い』平凡社ライブラリー、1995年、41頁。

 このいささか複雑な定義によって、フェーヴルは、自分たちの新しい歴史学に対して予想される批判に対して、自分たちの立場を鮮明に表明しようとしている。
 二宮氏は、『マルク・ブロックを読む』のなかで、その立場の特徴を以下の三つの点にまとめている。
 第一に、歴史学が対象にするのは、過去の人間たちの活動や彼らが生みだしたものだが、ここでいう人間とは、万古不易の存在としての単数形の「人間」ではなく、多様な姿をとってあらわれる複数形の「人間たち」であり、しかもその人間たちを、生命を持った存在としてまるごと捉えなくてはいけない。近代歴史学の発展とともに、歴史は、政治史、経済史、思想史、美術史などに専門分化してきたが、根本はすべてが関連しあうまるごとの歴史として捉えなくてはならない。これはブロックの主張でもある。
 第二に、人間は社会的・時間的存在として捉えなくてはならない。しかし、デュルケム学派の社会学者がしばしば主張したような「まず社会ありき」ではなく、人間たちこそが社会をつくりだす。これは『アナール』と『社会学年報』の永遠の論争のテーマで、フェーヴルもブロックも社会と個人の関係についてはデュルケムに批判的だった。
 第三に、歴史学を端的に「科学」と呼ばずに、「科学的におこなう探究」と定義しているのは、以下の理由による。歴史研究は、科学的に、つまり合理的な手続きにもとづいているとはいえ、常に手探りをしつつ進んでいくもので、不確定なもの、未知のものをまえにしての「こころのおののき」こそが研究者の原動力である。