内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

時間のなかを歩みつつ、その時間を考察対象とし、けっして止まることができない

2024-02-26 11:47:21 | 読游摘録

 ジャック・ル=ゴフの序文には、当然のことながら、ブロックの本文からの引用も多数含まれており、それらをよく理解するにはブロックの本文を引用文の前後を合わせて読まなくてはならない。そのような読解作業を忠実に実行し、それをここに再現するとなると、記述が煩雑になり、錯綜しかねない。
 そこで、以下は示すのは、ル=ゴフの序文に対してもブロックの本文に対しても暴力的な振る舞いであるとは知りながら、私自身がル=ゴフの序文から理解し得たことの要約およびそこからの若干の展開である。
 マルク・ブロックにとって、歴史学は、唯一の普遍性と法則性しか認めないような「実証主義」に与するものであってはならないとしても、一つの「科学」でなければならなかった。それはどのような意味での科学なのか。
 『歴史のための弁明』のなかで特に注目されることの一つは、数学・自然科学・生命科学が頻繁に参照されていることである。しかし、それらの参照は、他の「厳密」諸科学から歴史学にも役立つような技法を借り受けるためではなかった。それは、それぞれの科学が一つの学問領域としてその固有の統一性をもっていることを示すためであった。
 ある画一的なモデルをすべての対象に適用することが科学性を保証するのではなく、それぞれの学問の正当性は、合理的な基準に従って選択された諸現象の間に相互に説明可能な関係性を確立することによって保証されるとブロックは考えた。歴史学が科学であり得るのは、単なる事実の羅列の代わりに、「合理的な分類と漸進的な理解可能性」を提示することによってである。
 ブロックは、歴史学に法則性を求めようとはしなかった。「誤った法則」は、絶えざる偶発事の介入によって無効化されてしまうからである。しかし、それは非合理を容認することではない。歴史学が学として有効であり得るのは、合理性と理解可能性とがそこに浸透しているかぎりにおいてである。歴史学の科学性は、自然の側、対象の側にあるのではなく、合理性と理解可能性を追究する歴史家の方法の側にある。
 歴史学はしたがって二重の状況下に置かれる。一方で、ある発展過程の現に到達している一点に置かれている。しかしながら、この発展過程はつねにいささかギクシャクしている。というのも、唯一の発展過程があるわけではなく、唯一の普遍的な思考の歴史の中のなかのある一点に歴史家は固定されているわけではないからである。
 他方、この漸進的な理解可能性の過程において、歴史学は他の諸学のなかで特異な位置を占めている。それは、つねに推移する時間そのものが本来的な考察対象となっており、かつその時間のなかで進展する科学であることにある。一つの科学であるために、歴史学は「動き、進歩しなければならず、他のいかなる学問以上に、止まることができない」。
 他の諸学も時代とともに変化し進歩もする。しかし、時とともに変化すること自体がそれらの学問の目的ではない。ところが、歴史学は、変化してやまない時間そのものを対象としており、かつその時間のなかでの活動であり、その時間のなかに書き込まれ続けていく。