内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「起源崇拝」に囚われることなく、「時間のなかにおける人間たち」に寄り添う歴史学

2024-02-27 18:51:41 | 読游摘録

 今日は二宮宏之氏の『マルク・ブロックを読む』から、昨日のジャック・ル=ゴフの序文と呼応する箇所を摘録する。両者ともにブロックの『歴史のための弁明』の勘所を的確に押さえているから、同書に関する説明には重なるところが多い。それでも両者の捉え方にはそれぞれの個性も表れているから、両方を紹介することはまったく無益ではないだろう。
 以下、『マルク・ブロックを読む』の一段落(207‐208頁)を、敬体を常体に変え、若干省略した以外は、そのまま紹介する。括弧内は私の補足である(いや、蛇足、か)。

ブロックは、歴史学の対象とするものが何よりもまず人間たち(人間一般ではなく、さまざまに異なった人間たち)であることを強調する。その上で、「時間のなかにおける人間たち」(« des hommes, dans le temps »)であると念を押す。歴史学は、「時間」を基本的カテゴリーとして対象を捉える。この歴史的時間は、持続するものであると同時に絶えず変化するものである。長期的持続の側からだけ見れば、起源において歴史の原型が決定されてしまうことになる。起源に遡り歴史の古層を掘り起こそうとする歴史学に根強い考え方(ブロックはそれを « l’idole des origines »「起源崇拝」と呼ぶ)は、ここに起因する。他方、変化の側からのみ見れば、歴史は断絶の積み重ねということになる。大きな社会的・文化的変容を経験した二〇世紀以来の現代世界は、過去とは断絶しているとも言える。とすれば、時間を遡ることは意味を失う。現在を理解するためには現在科学だけで十分ということになる。現代社会科学の歴史離れの背景にはこのような時間の捉え方がある。ブロックは、このいずれもが正しくないと言う。歴史学は、この一見矛盾しているかに見える二つの時間観念を交錯させつつ対象を捉えようとするところにその独自性があるということになろう。