内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

紫式部の生涯(七)

2024-02-01 09:58:02 | 読游摘録

 今日から新編日本古典文学全集版(1994年)の中野幸一氏による解説の摘録を始める。ただすでに他の解説で言及されていた史実そのものについては繰り返さない。それに対する解説者の見解が示されているところに限って録する。
 式部が幼少の頃からきわめて聡明であり、男子でないことを父為時がしきりに残念がったという日記中の逸話はよく知られている。その点について、中野氏は次のような見解を示している。
 「それ以上に看過できないことは、学者の父がいつも式部を男と対等もしくはそれ以上に評価して、それを口に出していたということである。それは式部の知的な面での自信を過剰なまでに醸成したと思われるが、その性格は後年の宮仕え生活における対男性意識や、知的女房に対する強い批判精神にも連なるものであろう。」
 当時の女性が漢学を修めたところで実社会では無用であったことから、式部にその口惜しさがあったことを強調する研究者もあるが、中野氏は、一流の文人であった父親からの評価に裏付けれられた知的な面での式部の不抜の自信を強調している。
 父の赴任にともない下向した越前での生活についても中野氏は次のように積極面を前面に打ち出す。
 「越前国府での一年あまりの生活は、成人した式部にとって、またとない貴重な体験であったと思われる。ことにこの北国行きは、地味な環境に育った内気な式部にとっては、おそらく初めての大旅行であっただけに、そのすぐれた才質と鋭い感受性はある種の驚きをもってみずみずしく躍動し、未知の国の人情・風物を十二分に吸収して、大いに見聞を広めたことであろう。その体験が直接間接に後の物語創作に活かされたであろうことも想像に難くない。」
 ここまで積極性を強調する確たる資料的根拠はないに等しいが、私も、素人ながら、こんな風に想像してみるほうが楽しい。
 『源氏物語』執筆開始時期については次のような見解が述べられている。
 「夫に死別してから中宮彰子の許へ出仕するまでの数年間は、一般に『源氏物語』の執筆時期と考えられているが、『源氏物語』のような長編物語の執筆には強力な援助者と読者の支持を必要とするものであることを考え合わせると、この間を『源氏物語』の執筆期間とすることはまず無理であろう。ごく自然に考えれば、夫に急逝されて幼児を抱えた寡婦が、当座は物語の執筆などというすさびごとに心を入れる余裕はないと見るほうが実情に近いと思われる。少なくとも亡夫の一周忌を過ぎるまでは、こみ上げる悲しさに耐えつつ、愛娘の養育のみを心の慰めに日々を送るのが精一杯であったろう。もし物語創作の筆をとるとすれば、寡婦生活の寂しさにある程度馴れてからのことと思われる。」
 しかし、『源氏物語』執筆開始時期が中宮彰子への出仕以前であることは確実である以上、誰がいつから何をきっかけとして式部に物語創作のための援助を始めたのかという問いは残る。その援助者が道長であったとすれば、その道長からの娘中宮彰子の許への出仕の慫慂は断りにくかったであろう。
 「生来の内気と過去の経験から宮仕えには消極的であったと思われるが、相手が今をときめく道長ではあるし、父の官途や一族の将来を思い、また自らの境遇を顧みて、出仕を承諾したのであろう。女性として文藻豊かな中宮サロンに対する秘かな憧憬もあったかもしれない。」