内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

授業の準備と博論口頭審査の質問準備、そしてケーベル先生のことを想う

2024-12-01 18:16:36 | 雑感

 日曜日だというのに午前三時半前に起床。明日の「日本思想史」で使うパワーポイントに最終的な手直しと追加をした後、「日本文明入門」の準備に取り掛かる。この一年生向けの授業は今年はじめて担当するので、その理解にはいくらかの日本語の知識を前提とするこれまで蓄積されたデータをあまり活かせない。それだけ準備に時間が掛かる。一時間の授業だが、学生たちを飽きさせないためにはそれなりの工夫も必要だ。でも、午前中に仕上げられた。
 午後は、博論審査の講評と質問の仕上げに集中する。講評の方は、細かい手直しはなお必要だろうがほぼ仕上がった。質問は七つするつもりだが、そのうちの一つのための引用文献の確認に手間取り、仕上げは明日以降に持ち越しとなってしまった。ただ、あと一息というところまでたどり着いており、肩の荷は随分軽くなった。
 その質問は、ヘーゲルとドイツロマン主義との関係にかかわる。博論の筆者は、青年期から最晩年まで通底する和辻のロマン主義的傾向を強調する一方、和辻倫理学の構想においてヘーゲルの弁証法思考が決定的に重要な役割を果たしているとも主張する。ところが、ヘーゲルは、ロマン主義者たち(その中には、文学者や詩人だけでなく、フィヒテ、シュレーゲル、シュライエルマッハー、シェリングも含まれる)における弁証法的思考の欠如あるいは不十分さを激しく批判している。この哲学史的事実を前提すると、和辻におけるロマン主義的傾向とヘーゲルに学んだ弁証法的思考との間に、両立不可能性とまでは言わないにしても、何らかの点において不整合性を認めざるを得ないはずである。博論の中にはこの問題についての言及がまったくない。質問はこの点を突く。
 別の質問の準備のために『和辻哲郎全集』第六巻に収められた『ホメーロス批判』の序言を読んだついでに、巻頭に置かれた『ケーベル先生』を久しぶりに読み返した。四十頁足らずの小伝だが、ケーベル先生への敬愛の念が行間に溢れ、文人哲学者としての和辻の筆が冴えたエッセイの一つだと思う。
 数多くの学生たちから深く敬慕され、また彼らに大きな感化を与え、近代日本の哲学研究の水準の飛躍的向上に貢献したばかりでなく、漱石のような文学者からも終生変わらぬ敬愛の念を懐かれていたケーベルの墓は雑司が谷墓地にある。その墓参りをしたときのことについては2020年1月6日に記事にした。この夏の一時帰国中、早朝のジョギングの折に再度訪れた。四年前と比べて墓はさらに荒れていた。墓参りをする人などいないのであろう。ケーベル先生自身は、そんなことはまったく気にもかけず(と思う)、永遠に安らかに眠られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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