漢字についての与太話である。
同じ対象を指し同じ訓みでも正字か略字かで印象が随分異なることがある。常用漢字あるいは教育漢字として今日通用している漢字を「略字」と呼ぶのももはやふさわしくないだろうし、「学」の代わりに「學」とするのは、引用する原文そのままの場合以外は、さすがに衒学趣味ということになるだろう。
昨日話題にした和辻哲郎の『ケーベル先生』には漱石の同名の名随筆からの引用がある。
「この夕べ、その鴉のことを思い出して、あの鴉はどうなりましたかと聞いたら、あれは死にました、凍えて死にました。寒い晩に庭の木の枝に留まったまんま翌日になると死んでいましたと答えられた」という箇所である。この引用中の「鴉」が、手元にある岩波文庫版『思い出すことなど 他七篇』(1986年)では「烏」に置き換えられている。
まったく個人的な感じ方にすぎないと思うが、ここはぜひ「鴉」であってほしい。「寒い晩に庭の木の枝に留まったまま」死んだのは「鴉」であって「烏」ではないとさえ言いたくなる。「そんなこと、どうでもいいでしょ、どちらもカラスなんだから」とお考えの方も少なくなかろうと拝察する。他方、「そうですよねぇ、ここは「鴉」じゃなくっちゃあねぇ」と共感してくださる方も少数ではあろうがいらっしゃるだろうと期待したい。
『三省堂国語辞典』(第八版、2022年)で「からす」を引いてみて少し驚いた。「鴉」も「烏」も常用漢字表にはない漢字なのだ。つまり、新聞雑誌などの文章では「からす」か「カラス」と表記するということである。「カラスの勝手でしょ」(懐かしい!)というわけにはいかないのである。しかし、「からす」も「カラス」も「烏」も「鴉」ではないのである(ってまだ言ってる……)。
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