水曜日には二コマ担当授業がある。前期から引き続いての「日本思想史」(学部三年生対象)と後期のみで今年度から導入された学部ニ年生対象の「Thème」(自国語から外国語への翻訳作文、日本学科の学生にとっては仏文和訳)である。
前者は、フランスでの二十七年間の教育経験のなかで、もっとも熱が入り、もっとも楽しんでいる講義である。後期に取り上げる最初のテーマは、『風姿花伝』における「花」、である。このテーマを選んだのは、新年早々見た悪夢(1月6日の記事を参照されたし)への意趣返し、あるいは悪魔祓という意味合いもあると勝手に思っている。だから、ものすごく入念に準備した。
今日はイントロダクションで、来週は、自分の論文 « Le geste dans le théâtre nô : approche phénoménologique — Réflexion phénoménologique sur la forme vivante, mise en scène dans le théâtre nô —»(in La Fleur cachée du Nô, textes réunis et présentés par Catherine Mayaux, Honoré Champion, Paris, 2015) に基づいて話す。
「仏文和訳」のほうは、まだ日本語を学びはじめて一年半ほどの学生が大多数であるニ年生対象であるから、構文的・語彙的にそう高難度な文章を課題とすることはできない。かといって、平易ではあるがありきたりの文章ではこっちがつまらないし、そう思ってやっているとその気分が学生達にも感染してしまう。そこで、私自身で仏文和訳のためのアンソロジーをぼちぼち作っていくことにした。
初回の今日は、翻訳の的確性を判断する三つのレベルについてまず説明した。それは、構文、文脈、社会・文化という三つのレベルである。この三つのレベルは、相互浸透的で、完全に別々に扱うことはできないが、まずは構文レベルから始める。つまり、文脈その他の要素を一旦考慮外に置き、元のフランス語文の意を適切な日本語の構文に移すことから始める。
始めてみてすぐにわかることは、文脈抜きでは、適切な語の選択からして決定できない場合がいくらでもあるということである。さらに、構文は完全で文脈からして誤解の余地はなくても、日本社会の慣習として、そういう言い方は普通しないという場合も少なくない。
つまり、翻訳は社会・文化的レベルまで理解が及ばないと完了しない。言い換えれば、翻訳は社会と文化を学ぶ一つの方法なのである。
授業で出した一例は « Il pleut ! » という短文である。「君たちはどう訳しますか」と聞くと、すぐに「雨が降っています!」という答えが返ってきた。「正解。他の訳し方はないですか」と聞くと、「雨が降っている!」と常体に言い換えた学生がいた。これももちろん正解。「でもね、文脈次第でもっといろいろな訳がありうるんだよ。例えば、「雨!」だけでもいいし、「雨だ」でもいいし、「雨よ」もありうるし、まだまだ他にも考えらられる。」
誰がどんな状況で誰に対して言ったのか、その人はどんな性格なのか、どんな心理状態なのか、などなど、さまざまな要素を考慮すればするほど、訳のヴァリエーションも広がる。
もう一例は、 « Il fait froid. » / « J’ai froid. » これは「寒い」一言でもOKだし、若者たちは「さむ!」って縮めていうことも多い。「こわ」「はや」「おそ」などなど、形容詞の変化語尾「い」を省略する言い方は今ではまったく日常言語化している。と説明したうえで、「私は嫌いだし、自分では絶対に使わないけどね。君たちも、教室の外で使うのは勝手だけど、私の前では使わないでくれ」と釘を指しておいた。
すると、最前列に座っていた女子学生が、「先生、あえて「さむ!」と訳すことで、それが使われた会話の雰囲気を伝えられるということはありますか」と聞いてきた。「とてもいい質問だね。そう、たった一語、的確な選択をすることで、その場の雰囲気について他の説明を加えなくても伝えられることもあるね。」
そして、感謝の表現例を説明したときには、「あざす」とか「あざーす」が何を意味するかは知っておいてもいいが、「私の前では絶対に使うな。使ったら単位はあげないからな」と脅しておいた。
授業の締めくくりは、デカルトとモンテーニュ。
« Je pense, donc je suis. » 学生達は一年のとき、人あるいは生き物の所在を示すときは「いる」、無生物は「ある」と教わる。ところが、ここで「いる」は使えない。なぜか。これはもう翻訳の問題ではなく、ここからは哲学の問題だ。
モンテーニュからは、 « Quand je danse, je danse : quand je dors, je dors. » 私の手元にある日本語訳は、すべて、漢字かひらがなかの違いを除けば、「私/わたし」を文頭に一回置いているだけ。ところが、原文では « je » が四回も繰り返されている。どうして日本語訳では繰り返さないのか。この問いに答えるには、助詞「は」の機能の理解が必要である。
来週は、パスカルとヴァレリーから課題文を選ぶつもりだ。
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