内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

滞仏丸二十三年

2019-09-10 19:05:18 | 哲学

 今年もまた無事この日を迎えた。1996年9月10日に初めてフランスの地に降り立ってから丸二十三年。二十年を過ぎてからは、一年ごとに特別の感懐があるわけではない。この一年に何か大きな出来事が我が身に起こったわけでもないし、身近な人にもそういうことはなかった。
 今日がちょうど今年度最初の授業だった。学部三年生必修の日本文化・文明講座。語学の授業を除いて、日本語のみで行う唯一の授業。去年から始まった授業で、昨年は一時間だったが、好評につき(?)、今年から二時間になった。今日は、この7月18日の放火事件で犠牲になられた京都アニメーションの35人の犠牲者の方たちに心からの哀悼の意を捧げるという気持も込めて、『聲の形』を取り上げた。最初の四分の一ほどを観た。何度も一時停止しては、一二度観ただけでは見落としてしまいがちな細部に学生たちの注意を促し、それぞれの場面から読み取れることを考えさせた。
 この一年がそうであったように、今日からも、だいたいは坦々と日々を過ごしていくだろう。時には気持を鬱屈させ、少しは嬉しい出来事もあるだろうか。幸い健康には恵まれている。体力の衰えを感じることもない(これは自覚がないだけかもしれない)。体に無理をしなければならないほどの仕事もない。ちょっとうんざりすることや不満に思うことはあるけれど、それもごく当たり前のことだ。
 水泳も続けている。それどころか、今年は例年を上回るハイペースで、このまま頑張ってしまうと、この十年間の年間最多記録265回を塗り替えることになるかもしれない。でも、やはり年だから、頑張りすぎないようにしよう。
 このブログも、これまで通り続けていく。












「今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣にとりもどすこと」― 見田宗介『気流の鳴る音』から

2019-09-09 20:12:37 | 読游摘録

 竹内整一の著作は、授業でときどき参照する。手元に紙の本として持っているのは、『ありてなければ 「無常」の日本精神史』(角川ソフィア文庫、2015年)と『日本思想の言葉 神、人、命、魂』(角川選書、2016年)の二冊。電子書籍版では、『花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想』(角川選書、2014年)と『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書、2014年。紙の版は2009年)の二冊。
 これら四冊の本で必ず引用されているのが見田宗介の著作である。引用の前後の竹内自身の文章も含めて、ほぼそのまま使い回されていることも少なくない。そのような引用のされ方をしている一節があるのは、『気流の鳴る音』(初版、筑摩書房、1977年。ちくま学芸文庫版、2003年、それを改変した電子書籍版が2018年)である。以下のまったく同じ箇所が上掲四冊のいずれの本にも引用されている。

 われわれの行為や関係の意味というものを、その結果として手に入れる「成果」のみからみていくかぎり、人生と人類の全歴史との帰結は死であり、宇宙の永劫の暗闇のうちに白々と照りはえるいくつかの星の軌道を、せいぜい攪乱しうるにすぎない。いっさいの宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、このような認識の透徹そのもののかなたにしかない。
 すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣にとりもどすことにしかない。

 9月6日の記事で引用したレヴィ=ストロースの『裸の人』の結語に見られるのは、まさにここで言われている認識の透徹である。ニヒリズムを超克しうるそのような透徹からはほど遠い身としては、「今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣にとりもどすこと」もままならず、目の前の仕事に追われているうちに一日が終わってしまうことが多いが、そのような日常の中にあっても、いとおしさへの感覚をいくばくかでもとりもどそうと心がけることはできるだろう。












一杯のワインが与える奇跡的な感覚、あるいは朝の陽光がもたらす世界の無償の美しさについて ― ジョルジュ・バタイユ『至高性 呪われた部分』に至る読書記録

2019-09-08 16:08:35 | 読游摘録

 バタイユの『至高性』の中の、ある奇跡的な要素が含まれたものとしての「一杯のワイン」についての一節に行き当たるまでの読書のプロセスを、ちょっとまわりくどいが、備忘録的に記しておく。
 加藤典洋は、『人類が永遠に続くのではないとしたら』の中で、福島原発事故からの一年半の思索がその意義を再認識させた本として、見田宗介の『現代社会の理論 ― 情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波新書、1996年)を挙げ、その意義を詳説している。
 加藤も上掲書で引用しているように、『現代社会の理論』には、ジョルジュ・バタイユが、「〈消費〉のコンセプトの最も徹底した、非妥協的な追求者」として、イヴァン・イリイチのような「歓びに充ちた節制と解放する禁欲」を主張する思想家に真っ向から対立する思想家として登場する。
 バタイユは、〈消費〉の観念の徹底化として、「至高性 la souveraineté」というコンセプトに到達する。至高性とは、〈あらゆる効用と有用性の彼方にある自由の領域〉であり、「他の何ものの手段でもなく、それ自体として直接に充溢であり歓びであるような領域」である。
 見田自身は、「一杯のワイン」がそれを飲む労働者に与える「奇跡的な感覚」についてバタイユが語っている箇所を引いてはいない。その直後に出てくる、「ある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝き」だけをバタイユが挙げる「至高の生」の一例として引いている(手元にある Œuvres complètes, vol. VIII, Gallimard, 1976, p. 249 の原文は、 « l’éclat du soleil, qui, par une matinée de printemps, transfigure une rue misérable » となっており、見田と加藤が引用している湯浅博雄訳(人文書院、1990年)にある「不思議に」「燦然たる」に対応する語がない)。
 加藤は、同じ箇所に言及しながらもっと長く『至高性』から引用している。その引用の直前に加藤はこう書いている。

 バタイユによれば、労働者はその得た賃金でワインを一杯飲むが、それは「元気や体力を回復するため」でもあろうけれど、同時に、そうした「必要に迫られた不可避性」を「逃れようとする希望」をこめてのことでもある。そこには「ある種の味わいという要素」、「ある奇跡的な要素」が混入している。そこに現れるのが、至高性である。(加藤書、79頁)

 見田は、朝の太陽の輝きの方が最も奢侈でぜいたくな〈消費〉の極限例としてより典型的と考え、「一杯のワイン」の方は引かなかったのであろうか。確かに、たとえ一杯であれ、それは無償ではないし、それを飲むのは、労働者のささやかな欲望が起動因になっているのに対して、朝の太陽の輝きが世界にもたらす美の経験の歓びは、完全に無償なものとして誰にでも到来しうる。

[バタイユは]、他の何ものの手段でもなく、測られず換算されない生の直接的な歓びの一つの極限のかたちをみている。けれども、この生の「奇跡的な要素」、「われわれの心をうっとりとさせる要素」は、どんな大仕掛な快楽や幸福の装置も必要としないものであり、どんな自然や他者からの収奪も解体も必要とすることのないものである。(見田宗介『現代社会の理論』電子書籍版)

 今この記事を書きながら、書斎の窓越しに、雨に打たれて震える樹々の緑を見ている。その美しさを無償で享受できることの歓びを上記の読書経験が深めてくれている。今晩飲むワインも、いつもより美味しいことだろう。












「ただ一度のみ」、それが、人間が人間を生きる理由 ― リルケ『ドゥイノの悲歌』第九悲歌より

2019-09-07 19:49:00 | 読游摘録

 『世界と人類の終わり』のもう一つのエピグラフは、リルケ『ドゥイノの悲歌』第九悲歌の冒頭十七行の仏訳である。まずドイツ語原文、次にその仏訳、最後に片山敏彦訳を掲げよう。


Warum, wenn es angeht, also die Frist des Daseins
hinzubringen, als Lorbeer, ein wenig dunkler als alles
andere Grün, mit kleinen Wellen an jedem
Blattrand (wie eines Windes Lächeln) -: warum dann
Menschliches müssen - und, Schicksal vermeidend,
sich sehnen nach Schicksal?...

Oh, nicht, weil Glück ist,
dieser voreilige Vorteil eines nahen Verlusts.
Nicht aus Neugier, oder zur Übung des Herzens,
das auch im Lorbeer wäre.....

Aber weil Hiersein viel ist, und weil uns scheinbar
alles das Hiesige braucht, dieses Schwindende, das
seltsam uns angeht. Uns, die Schwindendsten. Ein Mal
jedes, nur ein Mal. Ein Mal und nichtmehr. Und wir auch
ein Mal. Nie wieder. Aber dieses
ein Mal gewesen zu sein, wenn auch nur ein Mal:
irdisch gewesen zu sein, scheint nicht widerrufbar.


Pourquoi, s’il nous est possible de passer notre peu d’existence
en laurier, un peu plus sombre que tous
les autres verts, avec de petites vagues au bord de
chaque feuille (semblables au sourire d’une brise) – : pourquoi
faut-il vivre en homme – et, aspirant au destin,
éviter le destin ?…
Oh ! ce n’est point que le bonheur existe vraiment,
cet avant-goût hâtif d’une perte prochaine.
Ce n’est point par curiosité ni pour exercer un cœur,
qui serait aussi dans le laurier…
Mais c’est que vivre est beaucoup, et que nous semblons nécessaires
à toutes les choses d’ici, ces éphémères, qui
étrangement, nous sollicitent. Nous, plus éphémères que tout.
Une fois chacune, une fois seulement. Une fois, pas davantage. Et nous aussi
une fois. Jamais plus. Mais avoir été ce que nous sommes
une fois, ne serait-ce qu’une fois :
avoir été terrestre ne semble pas révocable.


われらの僅かな存在を過ごすためなら
葉のはしばしに(風のほほ笑みのような)さざなみを立てながら
ほかのどの樹より少し暗い姿して立つ
月桂樹として生きてもいいのに、なぜ
特に人間の存在を生きねばならないのだろう?
 -そしてなぜ運命を避けながら
運命を求めて生きねばならないのか?…
 おお、幸運が在ることが、その理由ではない。
幸運とはやがて間近く来る喪失の前の部分を早まって利得として
 取ることだ!
好奇心からのことではないし また感情を試して使うためでもない。
感情は月桂樹のうちにも在るかもしれない…
だが人間が人間の存在を生きる理由は この地上の今を生きること
 それ自身が大したことだからだ。そして
われわれ人間の存在が 現世のすべてのものにとって必要らしい
 からだ。
これらの現実のほろびやすい物たちが 最もほろびやすい存在で
 あるわれら人間に
ふしぎに深く関わるのだ。おのおののものはただ一度だけそのもの
 として在る。
ただ一度だけだ。ふたたびはない。しかし一度だけ存在したということ
 地上に実存したこと これはかけがえのない意味のことらしい。


 それぞれにただ一度だけそのものとして在るものは、やはりただ一度だけ存在する最もほろびやすい人間を必要としている。それが、人間が人間を生きる理由なのではないのかとリルケは詠う。













存在と非存在との間の選択不可能性 ― レヴィ=ストロースにおける神なき時代の西欧的無常観

2019-09-06 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた『世界と人類の終わり』という本には、エピグラフとして、レヴィ=ストロース『神話論理』第四部『裸の人』の結語の最後の段落の三分の二くらいとリルケの『ドゥイノの悲歌』第九悲歌の一部とが引かれている。
今日の記事では、レヴィ=ストロースの結語を読んでみよう。

Réalité de l'être, que l'homme éprouve au plus profond de lui-même comme seule capable de donner raison et sens à ses gestes quotidiens, à sa vie morale et sentimentale, à ses choix politiques, à son engagement dans le monde social et naturel, à ses entreprises pratiques et à ses conquêtes scientifiques ; mais en même temps, réalité du non-être dont l'intuition accompagne indissolublement l'autre puisqu'il incombe à l'homme de vivre et lutter, penser et croire, garder surtout courage, sans que jamais le quitte la certitude adverse qu'il n'était pas présent autrefois sur la terre et qu'il ne le sera pas toujours, et qu'avec sa disparition inéluctable de la surface d'une planète elle aussi vouée à la mort, ses labeurs, ses peines, ses joies, ses espoirs et ses œuvres deviendront comme s'ils n'avaient pas existé, nulle conscience n'étant plus là pour préserver fût-ce le souvenir de ces mouvements éphémères sauf, par quelques traits vite effacés d'un monde au visage désormais impassible, le constat abrogé qu'ils eurent lieu c'est-à-dire rien.

L’Homme nu, Plon, 1971, p. 621.

 人間には、二つのリアリティー、存在のリアリティーと非存在のリアリティーとがあり、そのどちらか一方だけを選ぶことはできない。 « To be, or not to be : that is the question » ではないのだ。選択の余地はない。
 存在のリアリティーは、人間が心の奥底で感じるものであり、それだけが自分の日常の行為、道徳・感情生活、政治的選択、社会や自然の世界への関与、実際的な企図、学問的な探究などに理由と意味を与える。ところが、それと同時に、非存在のリアリティーがあり、その直観は、存在のリアリティーと分かちがたく結びついている。それが証拠に、生き、戦い、考え、信じ、何よりも勇気を持つのが人間というものだが、それとは対立する確信も人間には必ずついてまわっているではないか。
 その確信とは、自分はかつてこの地上には存在しなかったし、ずっと存在することはないという確信である。それ自体がいつかはなくなる地球上から自分もどうしても消え去るしかないのだから、自分の労苦・痛み・喜び・望み・成し遂げたことすべて、いずれはまるで存在しなかったかのようになってしまう。これら儚い蠢きの記憶を保存する意識もそこにはもうないのだから。もはや無感情な世界にあっという間に消えてしまうわずかばかりの痕跡を残せたとしても、それらはかつて在ったのだと確証できたとして、それが何になろう。つまりは、無、なのだ。












『世界と人類の終わり』― 終末論的言説の系譜、聖書からフクシマまで、そして現代のエコロジー的言説へ

2019-09-05 23:59:59 | 読游摘録

 月曜日の発表の準備中に、Le souci de la nature. Apprendre, inventer, gouverner, sous la direction de Cynthia Fleury et Anne-Caroline Prévot, CNRS Éditions, 2017 という論文集を読んでいて、その中の Hicham-Stéphane Afeissa という人の論文 « La planète, la terre et le monde au temps catastrophique » が参考になった。そこで、その人の著作 La fin du monde et de l’humanité. Essai de généalogie du discours écologique, PUF, coll. « L’écologie en questions », 2014 を読んでみようと、電子書籍版を購入した。まだ読み始めたばかりだが、とても興味深い内容だ。
 古代から現代に至るまで、人類は、「世界の終わり」を繰り返し言説化し、表象化してきた。本書は、それらの系譜を聖書の終末論からヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、そしてフクシマをめぐる言説まで辿り直し、そこに見られる共通項とそれぞれの固有性を明らかにした上で、それらの言説と現代のエコロジー的言説(生態学、環境保護だけには限定できない)とを比較し、後者の独自性とその盲点を明らかにしようとしている。












地球・大地・世界、あるいは地球の住まい方 ― ミッシェル・リュソー『世界の到来』

2019-09-04 15:15:11 | 読游摘録

 月曜日の発表では、「大地への回帰」というテーマをめぐって提起する問題をできるだけ明確に定式化するために、Michel Lussault, L’avènement du monde. Essai sur l’habitation humaine de la Terre, Seuil, coll. « La couleur des idées », 2013 が提案する近接概念の三分法を枠組みとして使った。
 リュソーは、「地球 la planète」「大地 la Terre」「私たちの世界 notre Monde」の三つの概念を明確に区別して使用することを提案する。
 La planète は、そこに棲まう諸生物の世界とそれを取り巻く無生物世界とを統べている生物・物理学的な法則に従ってすべての変化が起こる惑星としてそれを捉えるときに使用される概念である。その生物には人間も含まれるが、あくまで生物学的な対象としてである。
 La Terre は、人間の「住まい」としての大地である。単にその一部が人間によって占められているというだけでなく、人間による多様な文化、想像の産物、イデオロギー、地球を様々な仕方で捉える能力もそこには含まれている。一言で言えば、人間の生活空間として変容された地球のことである。
 Notre Monde とは、外部から一つの全体として捉えられた地球のことである。大地との違いは、大地が人間によって住まわれていない野生の自然もまだ残っている広大なものであったのに対して、私たちの世界は、外から、つまり宇宙空間から、一つの統一体としてみられた地球である。私たちの世界は、もはや自然と文明とを区別することはできず、人間の諸活動によって構成された一全体として 、地球全体を覆う一つの社会空間として、自己自身を認識している。そればかりか、私たちの世界は、地球の外へと拡張され、地球を外から観察することができるようになっている。
 このような時代に生きている私たちが大地への回帰の可能性ということを問題にするとすれば、上掲の三つの概念を用いて、「地球上の私たちの世界において生きながら、いかにして大地へと回帰することができるか」という問いを立てることができるだろう。












空を眺めるとき ― ブリュノ・ラトゥール『ガイアに向かって』

2019-09-03 23:59:59 | 読游摘録

 月曜日の発表ために参照した本の中の一冊に Bruno Latour, Face à Gaïa, Huit conférences sur le nouveau régime climatique, Les Empêcheurs de tourner en rond/La Découverte, 2015 がある。八つの講演を集めた講演集で、その第七講演 « Les états (de nature) entre guerre et paix » の中で、現在私たちが置かれている環境世界についてこんな一節がある。

Je ne sais pas si vous vous en souvenez mais, naguère encore, quand nous regardions le ciel, le matin, nous pouvions y contempler le spectacle d’un paysage indifférent à nos soucis ou, tout simplement, le temps variable, menant sa course, sans qu’il nous regarde aucunement. La nature était extérieure. Quel repos c’était ! Mais aujourd’hui, au lieu de nous enchanter des nuages, ces nuages, à notre tour, c’est notre action, pour une part chaque jour moins infime, qu’ils transportent. Qu’il pleuve ou qu’il fasse beau, dorénavant, on ne peut plus ne pas se dire que c’est en partie notre faute ! Au lieu de jouir du spectacle des traînées de jets dans le ciel bleu, nous frémissons de penser que ces avions modifient le ciel qu’ils traversent, qu’ils l’entraînent dans leur sillage comme nous entraînons l’atmosphère derrière nous chaque fois que nous chauffons notre appartement, que nous mangeons de la viande, ou que nous nous préparons à voyager à l’autre bout du monde. Non, décidément, à moins de contempler les corps célestes dans le monde supralunaire, il n’y a plus rien d’extérieur sur quoi calmement méditer.

 かつて私たちが朝空を見上げて眺めるとき、空に繰り広げられる景色は私たちの思い煩いとは無縁であった。天候の変化も、天候そのものの法則にしたがって起こっていただけだ。その意味で、自然は私たちの〈外〉にあった。だからこそ、空を眺めることが憩いでもあった。
 ところが、今日、雲の動きにただ見惚れているわけにはいかなくなってしまった。なぜなら、その動きは私たち人間の活動ともう無縁ではないからだ。雨が降るにしても、晴れるにしても、それは、あるところまで、私たち人間が犯した過ちのせいなのだと言わなくてはならなくなった。
 青空に長く尾を引く雲を見て喜ぶかわりに、飛行機雲を見て、飛行機が通過する大気の状態を変えてしまうことを思って私たちは戦慄する。私たちが家を暖房で温めるたびごとに、肉を食べるたびごとに、世界の反対側への旅行を準備するたびごとに、大気の変化を引き起こしてしまう。
 月よりも彼方の宇宙の天体を見て瞑想するのでもなければ、心静かに眺められるような〈外〉はもはや存在しないのだ。











新大学年度初日

2019-09-02 23:59:59 | 雑感

 今日が2019-2020年大学度の初日でした。午前中は、東京恵比寿の日仏会館とストラスブール大学の一会議室をテレビ会議で繋いでのセミナーでした。午後は、新入生オリエンテーションでの学科紹介、それに引き続いて学科会議と、午後5時過ぎまで、昼食を取る時間もありませんでした。6時過ぎに自宅に帰り着いたときは、さすがにかなりくたびれていました。
 テレビ会議は、7時20分から始まっていたのですが、そのセッションは東京側の発表を聴くだけだし、長い一日なるとわかっている日の始まりとしていくらなんでも早すぎると思い、自分が参加する次のセッションに間に合うように家を出ました。
 ところが、到着してみると、テレビ会議の接続に技術的な問題が発生していて、東京側の発表の映像だけで、何も聞こえない状態でした。大学の職員を呼んでこの問題を解消するのに十五分ほどかかり、聞こえるようにはなりましたが、今度は映像が来なくなりました。そんなこんなであたふたとし、私が参加するセッションが始まったのは、予定より30分近く遅れてでした。
 しかも、最初の発表者の途中で接続が切れ、復旧させるのにまた職員を呼び、私の発表の途中でも一回切れてしまい、同じことの繰り返し。発表後のやりとりもストラスブール側の参加者間ではあり、それはそれで面白かったのですが、結局、東京側とは質疑応答はなく、それどころか、最初の発表の後、東京側の参加者の一人から、セミナーのやり方そのものへの批判が飛び出し、それに主催者がお詫びするといった一幕もあり、とても快適とは言えない条件下での発表でした。
 発表そのものは、後半一部省略した以外は、ほぼイメージした通りにできました。発表内容に関しては、その主な主題であったシモンドンの技術の哲学は、地球環境危機という現代のコンテキストの中では、どうしてもその技術観の楽天性ばかりが目立ってしまい、シモンドンの個体化の哲学を知らない人たちには、時代遅れに見えてしまうだろうと予想していましたが、やはり予想通りの反応がストラスブール側でありました。
 しかし、「帰農 Retour à la terre」というセミナーのテーマを「大地への回帰 Retour à la Terre」と読み替えて、その回帰のために技術が果たす役割をシモンドンの技術の哲学に依拠して強調することで、セミナー本来のテーマをより広い視野で見直す一つの契機を提供することはできたのではないかと思います。













明日の発表「自然の創意」のためのイメージ・トレーニング

2019-09-01 01:15:40 | 雑感

 明日の発表の準備はほぼ終わりました。より正確に言うと、例によってパワーポイントは念入りに仕上げましたが、発表原稿は、結論部分以外、一行も書いていません。というか、最初から原稿は書かないつもりでいました。いや、もうちょっと正直に言うと、過去に三度日本語で話した内容とかなり重なるから、書かなくてもなんとかなるかな、という根拠薄弱な自信が書く気を奪ってしまったのであります。明日は、だから、プランとメモとパワーポイントを頼りにフランス語で話します。
 なんと不真面目でいい加減なことよ、と呆れられるかもしれません。それに対して、かのドクターX外科医・大門未知子みたいに、「あたし、失敗しないので」って、カッコよく言えればいいのですが、言えません。失敗するかも知れませんから。
 しかしですね、「矢でも鉄砲でも持って来い!」って開き直っているわけでもないのです。これでも発表の前には必ずイメージ・トレーニングを繰り返しているのです。それもかなり入念に。このイメージ・トレーニングは、机に向かわなくてもできます。歩きながらでも、自転車に乗りながらでも、買い物しながらでもできます。なんとプールで泳ぎながらでもできるんですよ。それどころか、寝ている間もできている……ような気がします。
 このイメージ・トレーニングがうまく行った場合(あるんですよ、過去に何度か)、どういう感じになるかというと、最初の一言でディスクールの生成のリズムにうまく乗ることができ、あとはディスクール自体が自ずと展開していくのです。言い換えると、話していけば、それがそのまま思考の展開になっているのです。話している本人は、その間、持続的な軽い興奮状態にあり、大変気持のいいものなのです。
 問題は、聴き手の反応です。こちらの高揚感が聴き手にうまく「感染する」とき、それは話していてわかります。こうなれば、こっちのものです。言い淀み・言い間違いも一種のアクセントとなり、流れに乗って結論まで突っ走ることができます。逆に、いくらこっちが調子よく話し始めても、聴き手がしらっとしていては、こちらの興奮状態も冷めてしまい、そうなると途端に言葉が出にくくなってきます。つまり、出たとこ勝負です。
 もちろん、発表は、勝ち負けではありませんし、ハッタリでもありませんし、座興でもありません。ただ、それが生きた言葉となるためには、稽古を積んだ上での即興性と自発性と創発性がその都度のパフォーマンスにおいて要求されるという点では、音楽や舞踊に通じるものがあると私は考えております。