内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

詩化された〈自然〉によって疎外された自然

2020-10-11 06:03:00 | 読游摘録

 歌人でもある細胞生物学者永田和宏が編んだ『近代秀歌』(岩波新書 2013年)には、私にとってもとても「なつかしい」歌が多数収められていて、折に触れて、本書の目次、百首一覧、「本書で一〇〇首に取り上げた歌人」を見ては、気の向くままに選歌とその鑑賞を読んでいる。この書で近代短歌として取り上げられているのは、落合直文(1861-1903)から土屋文明(1890‐1990)までの明治・大正・昭和に詠まれた和歌である。
 本書の「はじめに」で、著者は、藤原俊成の『古来風体抄』に言及して、こう述べている。

藤原俊成は、その著『古来風体抄』のなかで、桜の花を見てそれを美しいと感じるのは、私たちが花を詠んだ名歌を数多く知っているからなのだと喝破した。普通は花が美しいから感動する、歌に詠むと考えるだろう。しかし俊成は、そうではなく、私たちが花を見て美しいと感嘆するのは、私たちの心の奥深くに刷りこまれた、花を詠った歌の数々によって、花を美しいと感じる感性がおのずから形成されているからなのだと言うのである。はるか昔に、パラダイムシフトとでも形容したくなるような、このような透徹した透視力をもった歌人がいたことに感動を覚えるのである。

 ここで言及されている『古来風体抄』の箇所は次の一節であろう。

かの古今集の序にいへるがごとく、人の心を種としてよろづの言の葉となりにければ、春の花をたづね、秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もなく、なにをかは本の心ともすべき。

 この箇所にかぎって言えば、過去に詠まれた歌の知識が花の美の認識に必要だと言っているのではない。歌を詠むことによってはじめて色や香を認識できるのだと言っている。詠歌が美の認識方法だということだ。もちろん、良き歌を詠むためには過去に詠まれた名歌の知識は必要だ。だが、それは花の色香の認識の必要条件ではあっても、十分条件ではない。
 より根本的な問題は、歌を介して認識された自然の美は、もはや所与の自然ではないということである。それは詩化された〈自然〉であり、自然と私たちとの間に形成された詩的空間である。自然を愛でる歌の膨大な蓄積は、「日本人の心情のもっとも深いところで、我々の情緒を知らず知らず規定してきた」(永田和宏『近代秀歌』)ということは、それらの歌に詠まれた〈自然〉が所与としての自然に取って代わったということであり、自然詠によって媒介された「二次的自然」(ハルオ・シラネ『四季の創造 日本文化と自然観の系譜』角川選書 2020年)によって自然が疎外されたということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本近代再考のための読書レポート

2020-10-10 15:44:29 | 講義の余白から

 学部三年生の「近代日本の歴史と社会」という講義は、三年前のカリキュラム改編にともなって導入された新しい科目で、開講以来私が続けて担当している。主題は「日本における〈近代〉概念の再考 ― 日本の近代化の特異性はなにか」である。この講義については、このブログでも度々話題にしてきた。
 学生たちは、一年次に古代から現代までの日本通史を学習する。古代から幕末まで扱う講義と明治維新から現代日本までを扱う講義の二つとも必修である。これはすべてフランス語のテキストを基礎に行われる。二年次には、古代から幕末までの歴史を、日本で使用されている高校の教科書あるいはそれよりいくらか易しい日本語テキストを教材として、より本格的に学ぶ。
 だから、一二年次にしっかり勉強してきた学生たちは、日本史について一通りの知識は持っている。私の講義の目的は、上掲の主題からわかるように、彼らのその教科書的な知識をかなりラディカルに問い直すことにある。
 三年目の今年は、過去二年の講義資料の蓄積があるので、それを使い回せばさほど準備に時間をかけなくても済むのだが、それでは教えるこちらが面白くないので、さらに日本語の参考文献を拡充させ、その抜粋を基礎テキストとして、〈近代〉という概念そのものをさまざまな角度から再検討している。
 今年新たに導入したのは、学生たちに学期ごとに三回書かせる読書レポートである。10月、11月、12月、各月末までの提出を義務づけている。長さは、日本語に訳せば、1000~1200字くらいだろうか。フランス語の場合、枚数を指定しだけでは、学生ごとに長短のばらつきが出てしまうので、書式は、フォント、フォントサイズ、行間、余白等事細かに決め、遵守を求めた。
 何を読むかは、基本的に本人たちの自由である。講義で取り上げた本の中から選んでもいいし、日本の近代を再考するという主題に何らかの関わりがあれば、どんな本でもよいとした。ただし、レポートを書き始める前に、私の事前承認を必要とする。
 「君たちがチャレンジャーなら、日本語の本を選んでもよい。その場合は一冊全部読めとは言わない。一章あるいは二章でよい」と半分冗談のつもりで言ったら、三人、日本語の本をこの機会に是非読みたいと言ってきたのでちょっと驚いた。
 一人は、私が授業で取り上げた村上紀夫の『歴史学で卒業論文を書くために』(創元社 2019年)にとても興味をもったらからというのが理由だった。本人に読みたい章を選ばせ、そのコピーをPDFで送った。
 一人は、日本の近代を再考するためにいい本を推薦してほしいと求めてきたので、坂野潤治の『日本近代史』(ちくま新書 2012年)、三谷太一郎の『日本の近代とは何であったのか―問題史的考察』(岩波新書 2017年)、山本義隆の『近代日本一五〇年―科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書 2018年)の三冊を紹介し、自分で選ばせた。その学生は坂野潤治の本を選んだ。第一章と第二章のコピーを同じくPDFで送った。
 もう一人の学生は、入れ墨の歴史に関心があるが、いい本を推薦してほしいと言ってきた。これには困った。電子書籍版で入手できる本の中に適当な本が見つからない。山本芳美の『イレズミと日本人』(平凡社新書 2016年)が手頃なのだが、紙版しかなく、私は所持していない。それが無理ならば、侍にも興味があるから、それでもいいという。こちらはありすぎるくらい推薦図書があるが、相良了の『武士道』(講談社学術文庫 2010年 電子書籍版 2014年)を無理を承知で挙げておいた。まだ返事がない。諦めて他の本を選ぶかも知れない。
 先々週あたりから、授業の後やメールで承認を求める学生が相次ぐようになったが、学生たちが選択した本が実に多様で面白い。彼らがどんなレポートを書くのか楽しみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十七)― エートスと性格の違い

2020-10-09 23:59:59 | 哲学

 エートスがいわゆる性格と異なる点は、それがある価値観を自ずと表現する行為として実践されなければならないところにある。単に、快活、穏やか、几帳面、神経質等々の性格はエートスではない。
 エートスとは、ある行為がある価値観を表現していることであって、価値観そのものをそれとして表明することではない。エートスは、一回的な行為として表現されるのではなく、一定の持続的あるいは反復的な活動を経て習慣化された行為として表現される。その習慣化された行為から抽出された価値がエートスなのではない。
 エートスが良い方向で形成されるかどうかは、さまざまな要因に左右される。本人が自覚的にその都度の場面で善悪の判断を下すようになる以前からエートスの形成は始まる。家庭環境、社会的条件、時代の状況などによっても形成の方向は変わってくる。教育がその方向の決定に大きく関わっていることは間違いない。
 教育とはいっても、何か一定の型や知識を身につけさせるということに尽きるわけではない。その基底にもやはり情緒がなくてはならないと思う。
 9月22日の記事で、情緒を「諸感情の基底にあるより根源的な人間の存在様態のようなもの」と定義した。それは「いつまでもそこにいたい」「いつまでもその側にいたい」「いつまでも一緒にいたい」という意味での「なつかさ」として実感される。
 これは言葉で説明して理解してもらうことではないし、知識として身につけることでもない。どうすれば情緒が養われ、自ずと発露するようになるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十六)― 人柄の徳と情緒

2020-10-08 23:59:59 | 哲学

 今日の記事は、明日以降に考えてみたいことの一つの手がかりを与えてくれる、『ニコマコス倫理学』第二巻「人柄の徳の総論」第一章の冒頭を引くだけである。アリストテレスの講義を親しみのこもった現代日本語に移すことに成功している光文社古典新訳文庫版(渡辺邦夫・立花幸司訳 2015年)から引く。本章は、訳者によって、「人柄の徳は、人が育つ過程における行為習慣の問題である」と見出しが付けられている。この「人柄の」(人柄に関わる)が êthikê の訳である。

徳は二種類あり、知的な徳と人柄の徳がある。そして知的な徳はその大部分が教示によって生まれ、教示によって伸びてゆく。それゆえにそれは、経験と時間を要する。他方、人柄の徳は[行為の]習慣から生まれるものである。[中略]このことから、人柄の徳のどれひとつとして、生まれつき自然にわれわれのうちに生じているというわけではないこともまた、明らかである。というのも、自然の力にとってあるものの何ひとつとして、現状と違うように習慣付けられることはありえないからである。[中略]それゆえ、もろもろの徳は、生まれつき自然にわれわれに内在しているのでもなければ、自然に反してわれわれに内在化するのでもない。われわれは徳を受け入れるように自然に生まれついているのではあるが、しかしわれわれが現実に完全な者となるのは、習慣を通じてのことなのである。

 「われわれは徳を受け入れるように自然に生まれついている」ということと私たちが生まれながらに情緒の中に生きているということとの関係をこれから考えてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十五)― 風土と倫理を繋ぐものとしてのエトスとエートス

2020-10-07 23:59:59 | 哲学

 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』におけるエトスとエートスの区別に即してではなく、単にそこからヒントをもらったというに過ぎないが、風土と倫理を繋ぐ媒介項として、この両者の区別と関係を考えておくことは無駄ではないと思われる。
 エトスとエートスという言葉を使い続けると紛らわしいので、仮にそれぞれ習慣と性格に置きかえることにする。但し、両者が共通の起源を有しているということは忘れないようにして、という条件つきでのことである。
 習慣と一口に言っても、様々なレベルがある。大まかに分けるとしても、個人、家族、集団、地域、地方、階級、階層、社会、国家などを区別しなくてはならない。地域以上のレベルで複数の世代に渡って保持されている習慣は、むしろ慣習と呼んで区別したほうがいいだろう。
 ここでは私たちが生まれたときにはすでにその中にあるものという意味で、家族以上のレベルでの習慣を考えることにしよう。それが良いか悪いかを問う以前に、私たちは集合的習慣によって与えられたある慣性に支配された世界に生まれる。それに支配されない本性があるのかどうか。あるとしても、それが習慣とは無関係になんの制約もなしに発現するということは考えにくい。
 この集合的習慣がその集団に一定の性格を与える。そして、その集団的性格がその成員個々の性格も規定する。しかし、その規定の拘束力には様々な程度があるし、集団的性格が個々の成員の性格の多様性を妨げるとは限らない。
 この性格がただ単に一定の習慣的行動として発現するだけでは、エートスとは言えない。一回的な行動ももちろんエートスではない。集団のレベルであれ、その集団を代表するものとしての個人であれ、集団における自律的主体としての個人であれ、ある行動自体が価値観の表現となっている場合、あるいはその価値観に基づいたなんらかの選択の実行である場合、そしてそのことが当事者にそれとして自覚されておらず、かつその行動あるいは選択が一定期間安定的に反復されるときはじめて、それをエートスと呼ぶことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十四)― エトスとエートス

2020-10-06 23:59:59 | 哲学

 エートスは、昨日の記事で引用した『世界大百科事典』の「エートス」の項では、「行為性向」と訳されている。確かにこう訳せばエトス(習慣・慣習・慣用)とかなり明確に区別できる。しかし、エトスもエートスも古代ギリシア語の eiôtha (「私は(~する)習慣がある」)から派生した語であり、どちらもその本来的意味として「習慣性」を共有している。
 しかし、そこから両者は二つの異なった方向に意味を発展させていく。エトス(ethos)は上に挙げたように、習慣・慣習・慣用という意味に固定されてゆき、「この都市での習慣あるいは慣習」を意味する用法が、例えばトゥキディデスの『戦史』に見られる。そして、ethei は副詞的に「習慣・慣習によって」を意味し、phusei(「本性によって、生まれつき」)に対立する(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)。そこからアリストテレスは、人間の良さに関する諸学説を、それが本性によるとする学説、習慣によるとする学説、教育によるとする学説にわけ、それらを互いに対比的に捉えている。
 他方、エートスは、複数形で用いられるとき、動物あるいは人間の通常の居住域を意味した。単数形では、「習慣的な在り方、性向、性格」を意味し、その良し悪しが論じられるようになる。
 エートスは、アリストテレスの詩学の術語の一つとなる。登場人物の特徴を表す諸性格(êthê)は、筋(muthos)、語法(lexis)思想(dianoia)、視覚的装飾(opsis)、旋律(melopoia)ともに悲劇の六構成要素の一つに数えられる。
 弁論術においては、雄弁家の性格は、聴衆のパトスと説得術としてのロゴスとともに、雄弁家の技術的力量を示す指標である。これらは雄弁家自身によるものであり、偶有的な外的要因とは区別される。
 良き雄弁家は、自分の言説を聴衆に適合させるために、諸性格についての理論を身につけていなければならないだけでなく、自分の言説を展開する政治体制の性格に適合した性格を自分が持っていることを示す必要がある。さもなければ、聴衆の信頼を獲得することはできず、したがって、説得もできない。単に修辞に長け、論証にすぐれているだけではなく、その場の聴衆に相応しい言説が展開できる人とならなければ、良き雄弁家にはなれないということである。
 エートスの知があってはじめてレトリックは有効なものとなる。このエートスの知は、単に諸性格についての理論的な知(心理学)ではなく、その場に相応しい良き性格を備えているということもその中には含まれている。しかし、レトリックなきエートスの知は説得的な言説たり得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十三)― 風土-情緒-エートス-倫理

2020-10-05 23:59:59 | 哲学

 風土論と情緒論を架橋することで風土が実感される次元を特定することを試みてきた。その試みを通じて、懐かしさがその次元を満たしている基底的な情緒であるとの一応の結論に到達した。その懐かしさの具体相をより正確に捉えるために、その諸相としての気色・眺め・情景の差異を明確にすることを試みた。
 風土論と情緒論を架橋する作業の中で次に取り組むべき課題が見えてきた。それは、情緒を媒介項として風土と倫理の関係を考えることである。その際、情緒と同時にエートスというもう一つの媒介項を導入する。
 今日のところは、その最初の手がかりとして、『世界大百科事典』の厚東洋輔が執筆した「エートス」の項をそのまま引くだけに留める。

冷静さと情熱,理性と情念,合理と非合理,といった異質な要素の何らかの結合によって生み出された行為への一定の傾向性。エートスを,人間と社会の相互規定性をとらえる戦略概念として最初に用いたのはアリストテレスであり,社会認識の基軸として再びとらえたのがM.ウェーバーである。ウェーバーによれば,この行為性向は次の三つの性質をあわせもつ。(1)ギリシア語の〈習慣(エトス)〉に名称が由来していることからうかがえるように,エートスは,それにふさわしい行為を実践するなかで体得される〈習慣によって形作られた〉行為性向である。〈社会化〉によって人々に共有されるようになった行為パターンといってもよい。しかしある行為を機械的にいくら反覆してもエートスを作り出すことはできない(模倣・流行・しきたりへの盲従の場合)。(2)その行為性向は意識的に選択される必要がある。〈主体的選択に基づく〉行為性向がエートスである。(3)行為を選択する基準は何か。それは〈正しさ〉である。選択基準は,行為に外在する(行為の結果)か,内在する(行為に固有の価値)かのいずれかであるが,〈正しい〉行為とは,内在性の基準が選択され,目的達成の手段ではなしに行為それ自体が目的として行われるような行為のことである。行うことそれ自体が〈自己目的になった〉行為性向がエートスといえよう。外的な罰や報酬なしには存続しえない行為性向はエートスではない。エートスの窮極的支えは個人の内面にある。ウェーバーは価値合理 wertrational と目的合理 zweckrational という対比で,自己目的あるいは正しさの契機を強調し,社会学の伝統を形作った(近年の社会学では表出的行動 expressive behavior と用具的行動 instrumental behavior という対比がよく用いられる)。習慣の契機が強調されると,エートスは,〈学習された行為の統合形態〉という人類学における〈文化パターン cultural pattern〉の概念に生まれ変わる。選択性あるいは主観性の契機が強調されると,エートスは倫理学における倫理・道徳概念へと転生する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十二)― 気色・眺め・情景論への展開 ③

2020-10-04 12:47:30 | 哲学

 「情景」という言葉は含蓄深い言葉だと思う。
 情と景がそれぞれ、感興とけしき、心のはたらきと自然の風景とを指す場合もあるが、その場合、景情一致という場合の景と情とほとんど意味は違わない。しかし、二つの異なった対象を指し示す漢字二つがただ組み合わされたということではもちろんない。両者に密接な対関係があるからこそ生まれた言葉であろう。
 「森の情景」、「子供の情景」などの用法においては、明らかに情と景とは不可分である。情景において、情はまさに景であり、景はまさに情である。ある景を見ている私と私が見ているその景とが一つの情景を成している。見る私がそこにいなければ、情景もない。しかし、情景は私一人の心象風景ではない。情景が私をある情緒で包み込む。
 情景という一語は、それだけで、主観にも客観にも還元できない、そもそもそのような構図では捉えられない〈間〉に情の広がりがあることを示している。情景は、私たちに何かしみじみとした情感をもたらすものである。それをいつまでも見ていたい、そこにいつまでも居たいという懐かしさが情景を満たしていることもある。
 無心に遊ぶ子供の姿を見ていて自ずと情が湧くとき、その湧き出る情は私だけのものではない。その情は、私一人の心の底よりももっと深いところから湧き出し、情景を満たす。だから、情景において、人は人に出会うことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十二)― 気色・眺め・情景論への展開 ②

2020-10-03 23:59:59 | 哲学

 「けしき」(気色)とは、視覚的に何かを表わしている現れであり、あるものの情的表現現象である。情的な立ち現れである。それに対して、「ながめ」は、長い時間じっとひと所に目をやっている意の「ながむ」という動詞の連用形名詞であるから、眺める者の情意性が眺めのうちに最初から浸透している。「けしき」では、情意が気色そのものから発しているのに対して、「ながめ」においては、眺めるものの情意が眺めとして広がっている。つまり、両者の情意のベクトルは互いに真逆なのである。
 動詞「ながむ」は、長時間凝視していることから、鑑賞的に見る、しみじみ見るなどの意にも用いられたが、そのように眺められた対象は、眺めている者の情意の志向的対象として現れているものである。眺めは、眺める者の情意を表現している、いや、その情意そのものである。
 『古典基礎語辞典』は「ながむ」の語釈として次の四つ挙げている。
 ① もの思いにふけって、ぼんやりとひと所を見やっている。② 直接見る対象に心を注がず、もの思いに沈む。憂愁のうちに過ごす。③ 遠い距離に視線を放つ。見渡す。しみじみと見る。④ 何もせずにただ見ている。有効な手を打たずに放置する。
 眺めは眺める者のこれらの心的状態をそれぞれに表わしている。眺めと長雨とを掛けるのは平安朝文学の常套手段であるが、『和泉式部日記』の次の一節では、長雨は眺める女の心模様そのものである。

 雨うち降りて、いとつれづれなる日ごろ、女は、雲間なきながめに、世の中をいかになりぬるならんとつきせずながめて、「すきごとする人々はあまたあれど、ただ今はともかくも思はぬを、世の人はさまざまに言ふめれど、身のあればこそ」と思ひて過ぐす。

 ここでは、風景と心情とが響き合っているというよりも、晴れ間なく降り続く長雨が女の心なのであり、眺めることにおいて景情が融合している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十一)― 気色・眺め・情景論への展開 ①

2020-10-02 23:59:59 | 哲学

 「けしき」という言葉は今日も日常的に使われる言葉であるが、いつのころからか、アイドルたちが舞台の中央に立って観客席に向かって「ここから見えるけしき」というように使うようにもなり、そのような用法に眉を顰められる方々もいらっしゃるようだ。それは、おそらく、観客たちを風景のように見なす驕り高ぶった上から目線の態度の発露だと思われてのことではないかと推測する。ところが、この語の元の意味まで遡ると、彼女たちの用法は案外まっとうだと言えなくもない。
 この語は、すでに中古のはじめから頻用され、和語として認識され、それゆえ和歌にも用いられたが、もともとは「気色」と書く漢語であった。これを敢えて和語に置き換えれば、見てとらえることができる「ものの(ほのかなる、あるいは、はかなき)あらわれ」ということで、自然の景物ばかりでなく、人の様子・しぐさについても用いられた。
 『古典基礎語辞典』の「けしき」の項の説明を読んでみよう。

 漢語「気色」を呉音で読んだ語、中古のはじめから、和文中でよく使われ、和語としてとらえる意識が強かった。視覚でとらえた具体的な様子を指す語。自然界については、それと見てとれる自然の動き、人間については、多くその時その場の感情が外に出て見えた具体的な様子をいう。
 中世以降、「気色」の漢音読みであるキショクが和語化され、人間の気持ちに限定されてくると、ケシキは自然についてのみ使われるようになって、「景色」という当て字でも書かれるようになる。

 「けしき」は視覚的に何かを表わしている現れあり、単なる対象として観察されたものの外観ではない。「けしき」には、それが自然の景物であれ、人の様子であれ、情が表わされている。しかし、「けしき」は、長続きするものでもなく、あからさまに露出されたものでもない。どちらかと言えば、現れたかと思えば消えていくものである。そこから「わずかばかり」という副詞的な用法も生まれた。

秋風は気色吹くだに悲しきにかき曇る日は言ふ方ぞなき

 この歌は、『和泉式部日記』中の一首だが、ここでの「気色」は、「秋風はわずかに吹くだけでも」の意で用いられている。
 「けしき」は、自然の自体的な形状のことではなく、情の彩りであり、情緒なのである。