多勢の口、言葉はここでも真相をおおいかくすものでしかない。
このように、言葉が真相をおおいかくすものと理解されるところにおいては、嘗て自分の行った行為を言葉で説明すること、つまり「理をいう」こと、いいわけをすることは武士としてあるまじきことと理解されてくる。勿論はっきりとした証拠がある時、証拠をあげて身のあかしをすることはよい。だが証拠とすべき明確な事実をあげえぬ時、いかに誤解されても、武士として言葉を以て弁明すべきではない。言葉に偽り飾る働をみる世界において、証拠のない弁明は、偽り飾る行為につながる。本人に偽り飾る意志がなくても、偽りでないという証拠はない。証拠がないから弁明を偽りでないというなにもののもない。名を重んずる武士にとって、偽り飾る武士であるという汚名はたえがたいことである。かくて弁明・いいわけは武士のなすべきことではない。弁明いいわけをしないことが、まさにありのままに生きる武士の生き方なのである。(60‐61頁)
こうした武士の生き方をそのまま手放しで礼賛するつもりはありませんし、何か失敗をやからした部下に対して「いいわけするな!」と怒鳴りつけるような上司の肩を持つつもりもありませんが、自分自身の生き方について、それがどれだけこの「ありのまま」から遠く離れているかと嘆息せざるを得ません。