内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

熟慮 ― 考えが「完熟」するまで注意を怠ることなく考え続け、その「時」を待つこと

2021-12-11 20:10:19 | 哲学

 日本語に「熟慮の末」という表現がある。フランス語では après mûre réflexion がそれに対応する。これはフランス語としてはごく普通の表現で、例えば、学生が転学を希望する理由を述べる動機書などでよく使う。「いろいろ考えた結果」というほどの意である。
 「熟慮」の方は、『新明解国語辞典』では、「時間をかけて、あらゆる可能性を検討して考えること」とある。漢和辞典を見ると、「十分に念を入れて考える」(『新漢語林』)、「時間をかけて、十分に考えをめぐらす。熟考。深慮。」(『新明解現代漢和辞典』)、「=【熟思】じっくり考える」(『全訳 漢辞海』)、『新字源』も『漢字源』も、「熟慮」は、「熟考」の類義語として、「熟思」とともに挙げられているだけで、独立の項目としては立てられていない。
 しかし、「慮」は、「思」とも「考」ともまったくの同義というわけではないだろう。漢字の原義からしてということではなく、私自身の語感からすると、「慮」には、さまざまな可能性にそれ相応の位置を与えるという心配りが含まれている。
 ここから先は、もっぱら私の語感とそれに基づいた個人的使用法の話に過ぎない。「熟慮」には、「熟考」と違って(「熟思」という言葉を私は使ったことがないので、ここでは考察の対象から除外する)、単に「時間をかけてよく考える」というだけではなく、考えそのものが熟するのを待つという姿勢が含まれている。自分では考え尽くした後になお、その考えが本物かどうか見極める時間がまだ残っている。それは、荒地を耕すことから始まり、そこに種を撒き、あるいは苗を植え、肥料をやり、できるかぎりの世話をしたうえで、果物が熟するのを待つのに似ている。
 その考えが本物であれば、地中に根を生やし、芽が出て、幹が育ち、枝分かれし、その枝先に葉が茂り、花が咲き、そして実が成り、熟するであろう。
 「熟慮」とは、考えが「完熟」するまで注意を怠ることなく考え続け、その「時」を待つこと。そう私は定義する。と同時に、思考において常にかくありたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「読まずに読め」― 全部読まずにテキストを理解するための方法

2021-12-10 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の「近代日本の歴史と社会」では、懐徳堂について二時間かけて話した。設立当時の大坂の経済的繁栄と町人たちの学問への情熱、懐徳堂の理念と精神などについて、苅部直の『「維新革命」への道』(新潮選書 2017年)第四章「大坂のヴォルテール」とそこに引用されている宮川康子の『自由学問都市 大坂 懐徳堂と日本的理性の誕生』(講談社選書メチエ 2002年)に主に依拠して説明した。富永仲基について話す準備もしてあったのだが、時間が足りなくなったので来週の授業に回した。来週が前期最終回である。
 この授業の直後に「メディア・リテラシー」の授業がある。こちらは一時間で、履修コースの違う二グループに分けて、同じ授業を繰り返す。繰り返すといっても、第二グループの日本語能力はかなり落ちるので進度が遅い。同じテキストを読んでいるが、量的には第一グループの半分もいかない。
 第一グループの授業の終わりの方で、来週発表する試験問題について事前説明をした。試験は一月十四日だから、試験問題発表から試験までノエルの三週間の休みを挟んで四週間ある。今回は、その四週間の間にかなり長い日本語のテキスト読解を試験準備として課すことにした。そのテキストは授業内容と密接に関係があるが、授業では取り上げなかったテキストである。このテキストがちゃんと読めていないと答えられないような問題を出す。問題に対してテキストを無視して自分勝手な答えを書いても合格点はあげない。そう説明すると、教室が少しざわついた。テキストの量が多いと思ったのであろう。
 その反応は無理もない。彼らが受講している私の三つの授業の試験はいずれも同じ小論文形式(一つは日本語)で、かつ未知のテキストの読解を前提としている。つまり、三つの異なったテキストを休み中に読んでおかなければならないわけで、これにはかなり時間がかかるだろう。それにこの三つの授業では、各月末のレポート提出も課しているから、十二月末までに彼らは三つレポート(一つは日本語)も提出しなくてはならない。他の授業の試験も一月第二週にある。これではノエルから年末年始の休みも勉強に明け暮れなくてはならないではないか。そう彼らが思ったとしても不思議ではない。
 そこで、授業の終わりに、少し早めの「クリスマス・プレゼント」として、読書法について少しアドバイスした。
 一言で言えば、「読まずに読め」ということである。つまり、全部読まずにテキストを理解するための方法を「伝授」したのである。この方法は、間テキスト的ネットワーク読解法とテキスト内在的論理的読解法との組合せからなっている。授業では後者について主に話した。
 原則そのものは簡単である。テキストの基本的主張を捉えたら、そこで読書を一端中止し、その主張から論理的に導き出せる諸帰結の可能的連鎖を自分の頭で考え、その作業が一応終了したところで、その導かれた帰結が実際にテキストに書かれているか確認する。表現は異なっていても、自分が導き出した帰結とテキストの論述が一致していることが確認できたら、そこでそのテキスト読解は終了である。
 もちろん、実際にはこんな簡単にはいかないことも多いし、この方法でテキストのすべてが理解できるわけでもない。導出した諸帰結とテキストの論述が一致しない場合、それはテキスト側の展開に問題があるからなのか、こちら側の理解に問題があるからなのか、それをもう一度テキストに立ち返って検討し直さなければならない。それに、この読書法を適用するのは、各分野の古典的名著や高度な専門書に対してではない。一般向けに書かれたテキストを主な対象として想定している。学生たちに与えるものそのレベルのテキストである。
 しかし、始めから終わりまで順に読んでいかなければテキストは理解できないという思い込みに囚われていることが多い学生たちには、その呪縛から解放されることが、より速く的確かつクリエイティブな読書ができるようになるためにまず必要なのである。「読まずに読む」読書法は、その呪縛から自らを解放するための方法なのである。
 学生たちは実によく耳を傾けて「伝授」を聴いてくれた。こういう読み方もありなのだということは納得してくれたようである。
 実際には、「読まずに読む」読書法を一朝一夕に身につけることはできない。そもそもその前提として、論理的思考力がしっかりと鍛えられていなければならない。それにはどうすればよいか。そのために役に立つ書籍も多々あるが、それらの書籍を漫然と読んでいるだけでは、やはり論理的思考力は鍛えられない。結局、論理的思考力も「読まずに読む」読書法の実践を通じて鍛えていくのが一番効率的だろう。
 さあ、あとは実践あるのみだ、学生諸君。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自動翻訳としての訓点、あるいは異文化理解の一つの方法 ― 前野直彬『漢文入門』からの示唆

2021-12-09 23:59:59 | 読游摘録

 前野直彬の名著『漢文入門』の初版が講談社現代新書として刊行されたのは1968年である。現在は、ちくま学芸文庫(2015年刊)として入手できる。
 その最初の章「漢文とは何か」に前野自身による漢文の定義が示されている。日本における「漢文」の定義は、明快であるばかりでなく、とても示唆的だ。

「漢文」とは中国の古典的な文を、中国語を使わずに、直接日本語として読んだ場合、その文に対してつけられた名称である。

 さらに、日本人が日本語を「漢文」風の文体で書いたものも、やはり「漢文」の中に含めて考えられると前野は言う。しかし、日本人が書いた漢文の場合、中国に留学して中国人並みに書ける場合は別として、中国語として書いているわけではない。日本語で考えながら、書くときは漢文の文法に従って書いている。そこから和臭のする漢文が生まれる。
 もともと中国語で書かれた文章を中国語として意識せずに日本語として読む方法を日本人は考案した。それが訓点である。仮に訓点のない白文であっても、訓点があるかのように日本語として読んでいる場合、それはやはり「漢文」であって、中国語ではない。
 自分は中国語が読めず、他人が付けた訓点を頼りに漢文を読む場合、その読者にとって、訓点はいわば自動翻訳の機能を果たしていることになる。中国語から日本語への翻訳過程を自ら経ることなしに、中国語原文が最初から「漢文」訓読体という日本語として理解されているからである。
 それでは原文の十分な理解はできないことは前野が本書で繰り返し説くところである。しかし、それは訓読法を全否定するためではない。日本人が中国の古典を理解するための方法として発展的に考える必要を前野は本書の最終段落で示唆している。
 漢文訓読法とは、日本人が編み出した異文化理解の方法の一つだと言うこともできるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


抹茶養生記

2021-12-08 23:59:59 | 雑感

 ここ一月あまり、毎日のように抹茶を点てて飲んでいる。朝起きてすぐに点てることが多い。特にこれといったきっかけがあったわけではなく、ふと思い立っただけである。
 かねてより茶碗と茶筅と茶杓は買ってあった。抹茶はヨーロッパでもひろく愛好されていて、ネットで抹茶そのものも点てるための道具も簡単に安価に入手できる。何の嗜みもなかったが、たまに点てていた。しかし、そのときは、抹茶の品質がよくなかったのか、点て方が下手くそだったからなのか、水がよくなかったのか、美味しいと思ったことがなかった。
 日頃煎茶を飲んでいた。今もよく飲む。それに少し飽きてきて、秋口から紅茶を何種類か買って飲んでいた。それはそれで美味しい。アールグレイがずっと好きだった。今はそれと同じくらいロシアンアールグレイが気に入っている。淹れたてに立ちのぼる柑橘系の香りが心地よい。
 再び抹茶を点てる気になったのは、抹茶とお湯を茶碗の中で混ぜるときの茶筅の感触と混ぜているときの時間をなぜか味わってみたくなったからである。もちろん点てた抹茶そのものを美味しく味わいたいとも思った。
 いざ抹茶を購入しようとネットで探しはじめて、こんなにも種類があるのかと驚いた。値段もそれこそピンきりだ。ヨーロッパ産は当然比較的安い。最初は試しだからと安いのを買った。まあ値段相応といおうか、まずくはないが、それを常飲したいとは思わなかった。
 抹茶はやっぱり日本産だよねと、銘柄を絞った。途端に値段が二倍から三倍に跳ね上がる。日本円にして30グラムで2000円前後だ。その何倍もする高級品もある。その分、選択の際の吟味も慎重になるが、いずれにせよ、ネット上の情報に頼らざるをえないから、まずは何種か少量買って試飲してみることにした。
 最初に買った「京都産」は失敗だった。一言、不味かった。そもそも京都産という表示はネット上のみで、届いた缶にはどこにも産地表示がない。輸入国はスペインだそうな。二度と買うことはない。
 今日届いた別の銘柄は宇治産と缶に明記してある。蓋を開けた瞬間、抹茶の緑の鮮やかさを見ただけで、前品とは品質が違うことがわかる。早速点ててみる。泡立ちがよい。喉ごしもとてもまろやかだ。これなら常飲に堪える。
 比較検討のために別会社の同程度の値段の品を注文した。明日届く。自分にとっての定番が決まるまでには、しばらく時間がかかるだろう。その時間もまた楽しからずや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自動翻訳アプリの進歩によって抜本的な改革を強いられつつある語学学習

2021-12-07 23:59:59 | 講義の余白から

 学生の書いた日本語の文章を毎週添削していて、どうしたらこんなわけのわからぬ奇怪な言葉の組合せを思いつくことができるのかと驚かされ、かつ溜息をつかされることは毎度のことである。それが本人にとっては苦心の末であることがわかる場合は、その健気な努力に応じて、こちらもできるだけ本人の意図にそって直しを入れる。
 他方、辞書でちょこっと調べて見つけた最初の言葉を、ろくに考えもせずに安易に貼り付けているだけのいい加減な文章(とも呼べないグロテスクな言葉の羅列)は添削しない。それに値しないからである。「理解不能、書き直し」とそのまま突き返す。
 だが、それはまだましなほうなのである。というのも、間違いなく自動翻訳アプリを利用した「疑似」翻訳がここ数年目立ってきているからである。一見、よく書けている。いや、本人の日頃の実力からして、できすぎなのだ。
 自動翻訳は日進月歩している。単純な構文でありふれた事実を記述する程度の内容であれば、日仏語間でもかなり精度が高くなってきており、いかにも機械っぽい誤りは目に見えて減っている。添削する側としては、本人が実力で書いたのかどうか、見抜くのがそれだけ難しくなってきている。
 旅行などでとにかくその場を切り抜けられればいいような場合、自動翻訳アプリは強い味方だ。しかし、言語学習のためには、使い方を間違えれば、ほとんど逆効果にしかならない。自分で言葉の用法を身につけるかわりに、機械に文章作成を肩代わりしてもらっているに過ぎないからである。
 とはいえ、AIの進歩に抗うことも難しい。むしろ、教える側も学ぶ側も新技術をいかに使いこなすかということが課題になってきている。
 これは単なる技術的進歩の問題ではない。技術の進歩に応じて脳の使い方を変えることが求められており、それに応じて、個人の能力の評価基準も変えなくはならないところまで来ているからである。
 ところが、教師の側がその変化に対応できるだけの準備がまだできていないことが多い。現状を嘆き、旧式な教授方法に固執するだけで、実はどうすればよいのかわからない。私もわからない。
 ただ、それまでできなかったことができるようになるときの喜びというのは、技術の進歩とはかかわりなく、学習意欲の源泉であり続けているとは思う。老いゆくばかりの私は、性懲りもなく、そこに一縷の望みを懐きつつ、添削を続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


我が身に起こりうることとしてのディアスポラ ―『日本沈没―希望のひと』を観ながら考えたこと

2021-12-06 23:59:59 | 雑感

 一昨年度の後期、コロナ禍でキャンパスは閉鎖され、すべての授業が遠隔になって二月ほど経ったころだったろうか。ある授業で学生たちに民族統合についての意見を求めたことがある。移民の受け入れについて、受け入れ国であるフランスの国民として彼らがどのように考えているか、聞いてみたかったのである。ところが、返ってきた答えのほとんどは、統合する側であるフランスからの観点ではなく、統合される側の移民の立場からする意見であった。
 そのことに驚かされると同時に、自分の迂闊さに恥じ入った。自国を離れ、言語も文化も宗教も習慣も異なる国に移民としての受け入れを求めざるを得なかった人たちが多数暮らすフランスやヨーロッパの国々では、受け入れ国として国家がその問題に対処しなくてはならないことは言うまでもないが、他方、移民としてその国で生きることを選んだ人たちにとっては、統合化とは、自国で馴染んできた習慣や価値観を捨てるという断念を日常生活において受け入れるということでもある。
 学生たちの中には移民の子たちもいるし、友人や身近な存在として移民を知っている学生も少なくない。彼らにしてみれば、統合化の問題を考えることは、統合される側の苦難を思うことなしにはできないことなのだ。
 今、ドラマ『日本沈没―希望のひと』が放映されている。このドラマはネットフリックスを通じて世界にも同時(より正確には、日本時間で日曜の放映後の翌日月曜日の午前零時から)配信されていている。毎週観ている。このドラマが始まった直後は、出演者たちの演技やCGなどに対する批判的な感想をネット上で少なからず見かけた。私もそれらに同感する点もなくはなかった。しかし、そんなことは些末なことだと思われるほどに、このドラマを通じて深く考えさせられている。
 日本は世界有数の地震国だ。南海トラフ巨大地震にいつ襲われないともかぎらない。その他の自然災害も毎年多くの被害を出している。2011年のフクシマのような事故が再度起こらないという保証どこにもない。
 しかし、現実に日本が沈没すると思っている日本人はいないだろうし、近い将来、国土のどこにも住めなくなると本気で信じている人も皆無に近いだろう。つまり、他国へ移民として移住しなければならないという状況は、現実問題としては、ほぼ、想定外であろう。ほとんどすべての日本人にとって、日本の移民問題とは、移民の自国への受け入れ問題と同義でしかないのではないだろうか。
 日本は多分沈没しない。まったく住めなくなることもおそらくない。私も素朴にそう信じている。しかし、世界には、自分の国にはもはや住めなくなり、移民として他国に受け入れてもらわざるを得なくなった人たちが億単位でいるのも事実だ。
 ディアスポラを我が身にも起こりうることとして真剣に考える機会をドラマ『日本沈没―希望のひと』は私に与えてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


折口信夫『口訳万葉集』の「読みの深さ」から受けた痛棒

2021-12-05 20:37:42 | 読游摘録

 評伝や文学作品はできれば紙の本で手触りを感じながらじっくりと読みたい。ちくま学芸文庫の一冊として昨年刊行された岡野弘彦の『折口信夫伝――その思想と学問』(初版 中央公論新社 2000年)もできれば紙の本で読みたい。が、すぐには入手できないし、日本に発注すると送料が高くつく。
 四年ほど前から頻繁に利用しているハイブリッド総合書店 HONTO で今月12日まで「ちくま文庫」「ちくま学芸文庫」が三割引だ。こういうセールにはからっきし弱い。この機会に買っておかないと損をしてしまうと焦るのである。売り手の思うつぼである。しかも、せっかくの機会だから一冊だけではもったいないと思ってしまうのである。本屋は笑いが止まるまい。
 結果として、今回、『折口信夫伝』の他に三冊買った。前田愛『都市空間のなかの文学』、渡辺京二『維新の夢 渡辺京二コレクション1 史論』『民衆という幻像 渡辺京二コレクション2 民衆論』の三冊である。どれも、日本にいたら紙の本で買っていただろう。
 岡野の折口伝に折口最初の著作である『口訳万葉集』の成立・出版の経緯が詳しく記されている。興味深く読んだ。老生が万葉学徒にならんと志していた若い頃、『口訳万葉集』を読んだ記憶がある。確か河出書房版であった。もう中身はすっかり忘れている。
 岡野の評伝に「読みの深さ」と題された節があり、その中に人麻呂の近江荒都歌について『口訳万葉集』に記された短評が引用されている。あっと驚かされた。人麻呂の近江荒都歌はその直後に置かれた高市黒人の荒都歌より劣っている、「人麻呂のにはまだまだ虚偽が見えてゐるが、之には人の胸を波だたせる真実が籠つてゐる」と折口は言っているのである。
 この「読みの深さ」について岡野はこう説明している。

人麻呂には宮廷御用歌人としての意識があり、黒人は大和宮廷以前の近江の古い領有神への畏敬と、天智帝が近江の神の不興に触れて壬申の乱の悲劇を招いたという、当時の人々の口に出しがたい心の底の暗黙の共感を、率直に歌いだしている。人麻呂の表現にはまだその点で虚偽があるというのである。万葉の歌を通して物心両面から、万葉びとの生活を見ようとする折口の読みの深さであり、こういう点での人麻呂と黒人という同時代歌人の歌に現れた古代的で見分けがたい、しかし著しい相違を、確かに見とどけている。

 今日の大半の万葉学者は折口のこの評価に手放しでは賛同しないであろうが、つい先ごろある学会誌に、人麻呂の近江荒都歌に見られる時間意識の転回点を思想史的観点から論じた論考を発表した身としては、あたかも痛棒をくらったような衝撃を受けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年九月刊行されたプレイヤード叢書の二冊、ダンテ『神曲』と強制収容所記録のアンソロジー

2021-12-04 21:16:50 | 読游摘録

 帰国を諦め、冬休みはストラスブールで「巣ごもり」すると決めた。すると、無性にあれもこれも読みたくなった。ああ、また書籍購入病が再発してしまった。たかだか三週間の冬休み中にどう考えても読めそうもない量の本をこの数日間で買ってしまった。
 毎年、いつと決めているわけではないが、ガリマール社のプレイヤード叢書の新刊を何冊か買う。今回購入したのは、九月に刊行されたダンテ『神曲』全篇の対訳版と強制収容所体験について書かれた作品のアンソロジー L’Espèce humaine et autres écrits des camps の二冊である。
 ダンテの方は新訳ではない。Jacqueline Risset の名訳(1985~1990)の再刊である。この対訳版は Garnier Flammarion の対訳叢書に三巻本として収録されていて、それはかねてより所有している。今回の新版の校訂・注は現役のダンテ研究者たちによるものだ。それに二十世紀の十四のダンテ論(但し、イヴ・ボンヌフォアの « Dante et les mots » は2009年発表)が付録として巻末に収録されている。この一冊によって、十四世紀のトスカーナ方言で綴られた原文と二十世紀の美しく輝かしいフランス語訳とで、『神曲』を、地獄篇、煉獄篇、そして天獄篇へと、じっくり味わうだけでも、冬休みを心豊かに過ごすには十分すぎるくらいだ。読みかけたままの Enrico Malato のダンテ伝(Les Belles Lettres, 2017)も書棚から引っ張り出して仕事机の脇に並べた。
 プレイヤードのもう一冊の方もどうしても気になる。人類がそれまで知ることがなかった二十世紀の地獄についての、そこから生還した人たちの貴重な証言を読まずに済ませることは、やはりできない。
 この二冊以外にも、少なくとも四冊、この冬休み中に少しは読んでおきたい本を買った。
 スピノザのエチカの仏訳はいったい幾種類出ているのか知らないが、去年PUFのスピノザ全集中の一冊として刊行されたばかりなのに、今年十月に Flammarion から Maxime Rovere の新訳が出た。左頁が注、右頁が仏訳という構成で、その注を手引として順に読み進められるように配慮されている。
 残りの三冊は書名を挙げるだけにする。
 十月に刊行された Alain de Libera, Le sujet de la passion. Cours du Collègue de France 2016, Vrin.
 十一月に刊行されたばかりの Olivier Boulnois, Généalogie de la liberté, Seuil, « L’ordre philosophique ».
 これは新刊ではないが、かねてより読んでおきたいと思っていた Bernard Maginn のエックハルト評伝 Eckhart. L’homme à qui Dieu ne cachait rien, Cerf, 2017 (英語原本は2001年刊)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


授業における古色蒼然たる「超然主義」

2021-12-03 23:59:59 | 講義の余白から

 ストラスブールに赴任してきてから今年度が八年目になる。最初の四年間は、当時現行のカリキュラムの枠組みの中で授業を担当したので、それぞれの担当授業の目的に沿って、それまでの方針を尊重することを原則として授業計画を立てた。赴任五年目に新しいカリキュラムに移行した。そのカリキュラムの作成には最初から専任の一人としてかかわり、また学科長として最終的なまとめと実施に伴う諸手続きに直接関与した。
 以来、学部最終学年である三年生(修士はまた別の話)の二コマ「日本の文明と文化」(日本語のみで行う授業)と「近代日本の歴史と社会」(説明言語はフランス語で、読解テキストは日本語)を担当しているが、当初から私が担当するという前提で構想された授業ということもあり、それ以前のカリキュラムに比べて、授業内容及び方式に私自身の創意工夫が盛り込みやすくなった。
 しかし、そのことは学生たちの受けがよいということとは必ずしも直結しない。私自身が強い関心を抱くテーマ群を中心に授業を展開することが彼らの関心と呼応するとは限らないからである。
 それに、これは年々強まる思いなのだが、学生たちの関心の偏りと浅さへの失望である。いったい彼らは日本の何が知りたいのだろう、何を学びたいのだろう、日本から何を学びたいのだろうと自問することがよくある。
 彼らの期待しているものがわからないわけではない。しかし、それに迎合することは彼ら自身のためにならない。これははっきりとそう言える。自分たちの狭い関心と視野に入ってくるものにしか興味を示さないようでは、知的に成長することはできないし、方法論的に応用の効く知の技法も身につけられないからである。
 そのような現状において、私が基本方針として取っている態度を一言で示すならば、「超然主義」である。「他の動きには関係せず、自分の考え・立場から独自に事を行なう主義」(『日本国語大辞典』)である。この古色蒼然たる言葉は私の大のお気に入りである。学生たちが関心を持とうが持つまいが、ついて来ようが来まいが、知ったことではない。私は私が教授すべきと考えることを教授する。批判を受け付けないというのではない。教授内容に対するまっとうな疑問にはいつも聞く耳を持っており、それには誠意を持って答えてきたつもりである。
 これが唯一正しい態度だなどとは、いくら私が傲岸な人間だったとしても思わない。正しいかどうかさえ怪しい。ただ、事実として言えることは、毎年、私の授業を熱心に聴き、優れた答案や小論文を書いてくれる優秀な学生が数人はいるということである。このことだけが、私のやり方が完全に間違っているわけではないであろうことの唯一の証左である。それで私には十分である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鍬を持っている人々の死生観 ― 五来重『日本人の死生観』より

2021-12-02 23:59:59 | 読游摘録

 「日本人の死生観」と題された本は他にも何冊かあるが、五来重の『日本人の死生観』(講談社学術文庫 2021年 初版 角川書店 1994年)はその中でも際立った名著ではないかと思う。今年刊行された『宗教と日本人』(中公新書)が話題になっている気鋭の宗教学者岡本亮輔氏が解説を書いている。
 本書の冒頭は、書名にも採られた「日本人の死生観」というタイトルをもった文章で、文体からしてもともとは講演だったと想像される。掲載誌初出一覧によると、小学館の『創造の世界』第九号(一九七三年)が初出である。この文章を今週月曜日の授業で紹介した。
 ルース・ベネディクトの『菊と刀』を念頭に置きながら、菊と刀によってそれぞれ象徴される貴族文化・王朝文化と武士道・武家文化とが、どちらも世界に誇れる日本文化であることを認めつつ、五来は、「もう一つひじょうに大きなもの」が従来の日本人論から抜け落ちているとまず指摘する。それは、「庶民の持っている思想、宗教、あるいは人生観、死生観のようなもの」である。そこで、五来は、その庶民的なものの象徴として鍬を挙げ、菊と刀と並べて、鍬も入れないと日本人論は成立しないと主張する。
 この前提に立ち、日本人の死生観を、武士道や仏教者の言説などよりももっと深いところから解釈しようと五来は試みる。その解釈は四つの観点からなされる。
 一つは、霊魂観。人間が死んでから、霊魂はいったいどうなるのか。この問いに対する答えに日本人の死生観の根本、あるいは日本人の宗教の根本が根ざしている。
 一つは、その霊魂のいく世界。「他界」である。言い換えれば、日本人の死後観、あるいは死んでのちの生活の問題である。
 一つは、霊魂不滅ということ。と同時に、再生、復活の信仰が日本人の死生観に大きく影響している。
 一つは、罪業観。より具体的には、罪業を償うための「贖罪死」のことである。
 この順に、五来は自らのフィールドワークの成果を存分に盛り込みながら、庶民において言説化されることなく生きられてきた死生観を捉えようとしている。
 結論として、日本人は「罪滅ぼしということをひじょうに重んずる宗教をもっている」という。罪業観は仏教にもあるが、日本の場合は、それがもっと実践的なものとしてあると強調する。
 五来自身は、死刑制度には本書でまったく言及していないが、日本では現在もなお死刑存置派が圧倒的多数派を占める理由も、もしかすると、このような「実践的」罪業観にその淵源があるのかも知れない。