武士道関連書籍は枚挙に暇がない。武士道に名を借りただけの胡散臭い日本精神・文化論は論外としても、二十一世紀に入ってから出版された武士道研究書及び一般読者向け解説書に話を限っても、それらに一通り眼を通すのは私のような素人には容易ではないし、そこまでするつもりもない。ごく限られた数の書籍を読んでの感想に過ぎないが、専門家による信頼できる良心的な著作がある一方、日本史研究者なのに結構いい加減なことを平気で書いてしまうものなのだなあと思わざるを得ない代物もある。
その理由について少し考えてみた。もちろん理由は一つではないだろう。ただ、その主たる理由の一つは以下のようなことではないかと考えるに至った。
ある特定の時代の武士の実際の生き方、及びその時代の一定の地域の同じ集団に帰属していた武士たちに共有されていたエートスが考察されるときには、同時代の史料に基づいてなされるのが一般的であるのに対して、武士道が語られるときには、それが特定の文献(例えば『葉隠』)に表現された思想を直接の考察対象としていない場合、多かれ少なかれ歴史的現実から離れた、あるいはそれを超越した理念化が伴い、それだけ語る者の解釈に恣意性が混入しやすいということである。
思い切って言ってしまえば、武士道とは何かという問いに答えようとしている書籍を読んでいるときに私たちが直面しているのは、それぞれに意匠を凝らした解釈の間の葛藤であり、そもそも、これが武士道だと言えるような〈武士道そのもの〉は存在しないのではないか。ありもしないものについて語るのであるから、そこに語る者の恣意性がつきまとうのは避けがたい。「武士道」とは、そのような解釈の恣意性へのほとんど抗しがたい誘惑を覆い隠している仮面のようなものだとさえ言いたくなる。