日本語に「熟慮の末」という表現がある。フランス語では après mûre réflexion がそれに対応する。これはフランス語としてはごく普通の表現で、例えば、学生が転学を希望する理由を述べる動機書などでよく使う。「いろいろ考えた結果」というほどの意である。
「熟慮」の方は、『新明解国語辞典』では、「時間をかけて、あらゆる可能性を検討して考えること」とある。漢和辞典を見ると、「十分に念を入れて考える」(『新漢語林』)、「時間をかけて、十分に考えをめぐらす。熟考。深慮。」(『新明解現代漢和辞典』)、「=【熟思】じっくり考える」(『全訳 漢辞海』)、『新字源』も『漢字源』も、「熟慮」は、「熟考」の類義語として、「熟思」とともに挙げられているだけで、独立の項目としては立てられていない。
しかし、「慮」は、「思」とも「考」ともまったくの同義というわけではないだろう。漢字の原義からしてということではなく、私自身の語感からすると、「慮」には、さまざまな可能性にそれ相応の位置を与えるという心配りが含まれている。
ここから先は、もっぱら私の語感とそれに基づいた個人的使用法の話に過ぎない。「熟慮」には、「熟考」と違って(「熟思」という言葉を私は使ったことがないので、ここでは考察の対象から除外する)、単に「時間をかけてよく考える」というだけではなく、考えそのものが熟するのを待つという姿勢が含まれている。自分では考え尽くした後になお、その考えが本物かどうか見極める時間がまだ残っている。それは、荒地を耕すことから始まり、そこに種を撒き、あるいは苗を植え、肥料をやり、できるかぎりの世話をしたうえで、果物が熟するのを待つのに似ている。
その考えが本物であれば、地中に根を生やし、芽が出て、幹が育ち、枝分かれし、その枝先に葉が茂り、花が咲き、そして実が成り、熟するであろう。
「熟慮」とは、考えが「完熟」するまで注意を怠ることなく考え続け、その「時」を待つこと。そう私は定義する。と同時に、思考において常にかくありたい。