「近代日本の歴史と社会」の授業では、ここ四年間、明治日本の近代化過程を江戸期からの連続性の相の下に捉えるという視角から、前期は、「キリスト教の世紀」と呼ばれる16世紀後半から所謂「鎖国」体制が確立するまでの約一世紀弱の間の西洋との「ファースト・コンタクト」から話を始め、明治新政府の1870年代の諸政策あたりまでを考察対象としている。その三世紀あまりを通史的に辿るのではなく、近代日本を準備する諸要素の中のいくつかに焦点を合わせてテーマ別に話す。毎年少しずつ内容を手直ししてはいるが、基本的視角に変更はない。
今回の期末試験は、授業で二回に渡って取り上げた前田勉の『江戸の読書会 会読の思想史』(平凡社ライブラリー 2018年 初版 平凡社選書 2012年)の付論「江戸期の漢文教育法の思想的可能性―会読と訓読をめぐって」の読解を前提とした出題である。出題も解答言語もフランス語である。
En vous référant explicitement au texte intitulé「江戸期の漢文教育法の思想的可能性」, disponible à la page du cours Histoire et société du Japon moderne (HSJM) sur Moodle, répondez à la question suivante :
Pourquoi et de quelle façon le kaidoku (会読) et le kanbun kundokutai (漢文訓読体) ont pu contribuer à la modernisation du Japon à l’ère Meiji ?
江戸期に一般化した会読と古代から連綿と実践されてきた漢文訓読体とが、なぜ、どのような仕方で、明治期の日本の近代化に貢献したのか。この問いに対する答えは、上掲の「江戸期の漢文教育法の思想的可能性」の中にわかりやすく示されており、しかもそれについて授業で詳しく解説したから、授業を真面目に聴いていた学生には、特に試験準備もせずに答えられるような易しい問題である。
ただ、先週金曜日、問題を発表し、出題意図を説明したとき、「ただ付論の内容を引き写しただけの答案には、合格点はあげるが、いい点数はあげないからね。会読と漢文訓読体について自分でさらに調べ、それを盛り込んだ解答を期待しているよ」と釘をさしておいた。
参考文献として、齋藤希史の『漢文脈と近代日本』(角川ソフィア文庫 2014年 初版 日本放送協会 2007年)を挙げた。論述を発展させるためのヒントとして、中江兆民がなぜ自著でも西洋思想の翻訳でも漢文訓読体を採用したか、考えてみると面白いだろうと示唆した。
といっても、学生たちにしてみれば、他の授業で課された年末が期限のレポートもあり、一月第二週には主要科目の試験もあるから、せいぜい最小限の準備をする時間しかしないであろう。その準備のためにどう時間と労力を配分するかは学生自身の判断による。
成績判定会議の席ですべての成績を見比べるとき、どの学生がどの科目に「賭け」、どの科目を「捨てた」かがよくわかる。このような「計算」は昔からあったが、二十年ほど前に導入された成績相殺制度が学年ごとに科目を問わずに適用されるようになってから著しくなった。
極端なケースでは、主専攻科目はすべて合格点以下なのに、好得点が得やすい選択科目で点数をがっぽり稼いで、それで相殺し、総合平均で最低合格点(二十点満点の十点)を得ることが可能であり、実際にそれを狙っている学生がいることも事実である。このような制度の「合法的」悪用を防ぐためには、主要科目の採点をものすごく厳しくするしかない。
しかし、これにも限界がある。相殺制度の全面的廃止は無理としても、悪用を防ぐために有効な措置は必要だ。再来年度からの新カリキュラムでそれが導入されることを期待したい。