学生の書いた日本語の文章を毎週添削していて、どうしたらこんなわけのわからぬ奇怪な言葉の組合せを思いつくことができるのかと驚かされ、かつ溜息をつかされることは毎度のことである。それが本人にとっては苦心の末であることがわかる場合は、その健気な努力に応じて、こちらもできるだけ本人の意図にそって直しを入れる。
他方、辞書でちょこっと調べて見つけた最初の言葉を、ろくに考えもせずに安易に貼り付けているだけのいい加減な文章(とも呼べないグロテスクな言葉の羅列)は添削しない。それに値しないからである。「理解不能、書き直し」とそのまま突き返す。
だが、それはまだましなほうなのである。というのも、間違いなく自動翻訳アプリを利用した「疑似」翻訳がここ数年目立ってきているからである。一見、よく書けている。いや、本人の日頃の実力からして、できすぎなのだ。
自動翻訳は日進月歩している。単純な構文でありふれた事実を記述する程度の内容であれば、日仏語間でもかなり精度が高くなってきており、いかにも機械っぽい誤りは目に見えて減っている。添削する側としては、本人が実力で書いたのかどうか、見抜くのがそれだけ難しくなってきている。
旅行などでとにかくその場を切り抜けられればいいような場合、自動翻訳アプリは強い味方だ。しかし、言語学習のためには、使い方を間違えれば、ほとんど逆効果にしかならない。自分で言葉の用法を身につけるかわりに、機械に文章作成を肩代わりしてもらっているに過ぎないからである。
とはいえ、AIの進歩に抗うことも難しい。むしろ、教える側も学ぶ側も新技術をいかに使いこなすかということが課題になってきている。
これは単なる技術的進歩の問題ではない。技術の進歩に応じて脳の使い方を変えることが求められており、それに応じて、個人の能力の評価基準も変えなくはならないところまで来ているからである。
ところが、教師の側がその変化に対応できるだけの準備がまだできていないことが多い。現状を嘆き、旧式な教授方法に固執するだけで、実はどうすればよいのかわからない。私もわからない。
ただ、それまでできなかったことができるようになるときの喜びというのは、技術の進歩とはかかわりなく、学習意欲の源泉であり続けているとは思う。老いゆくばかりの私は、性懲りもなく、そこに一縷の望みを懐きつつ、添削を続けている。