内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

我が身に起こりうることとしてのディアスポラ ―『日本沈没―希望のひと』を観ながら考えたこと

2021-12-06 23:59:59 | 雑感

 一昨年度の後期、コロナ禍でキャンパスは閉鎖され、すべての授業が遠隔になって二月ほど経ったころだったろうか。ある授業で学生たちに民族統合についての意見を求めたことがある。移民の受け入れについて、受け入れ国であるフランスの国民として彼らがどのように考えているか、聞いてみたかったのである。ところが、返ってきた答えのほとんどは、統合する側であるフランスからの観点ではなく、統合される側の移民の立場からする意見であった。
 そのことに驚かされると同時に、自分の迂闊さに恥じ入った。自国を離れ、言語も文化も宗教も習慣も異なる国に移民としての受け入れを求めざるを得なかった人たちが多数暮らすフランスやヨーロッパの国々では、受け入れ国として国家がその問題に対処しなくてはならないことは言うまでもないが、他方、移民としてその国で生きることを選んだ人たちにとっては、統合化とは、自国で馴染んできた習慣や価値観を捨てるという断念を日常生活において受け入れるということでもある。
 学生たちの中には移民の子たちもいるし、友人や身近な存在として移民を知っている学生も少なくない。彼らにしてみれば、統合化の問題を考えることは、統合される側の苦難を思うことなしにはできないことなのだ。
 今、ドラマ『日本沈没―希望のひと』が放映されている。このドラマはネットフリックスを通じて世界にも同時(より正確には、日本時間で日曜の放映後の翌日月曜日の午前零時から)配信されていている。毎週観ている。このドラマが始まった直後は、出演者たちの演技やCGなどに対する批判的な感想をネット上で少なからず見かけた。私もそれらに同感する点もなくはなかった。しかし、そんなことは些末なことだと思われるほどに、このドラマを通じて深く考えさせられている。
 日本は世界有数の地震国だ。南海トラフ巨大地震にいつ襲われないともかぎらない。その他の自然災害も毎年多くの被害を出している。2011年のフクシマのような事故が再度起こらないという保証どこにもない。
 しかし、現実に日本が沈没すると思っている日本人はいないだろうし、近い将来、国土のどこにも住めなくなると本気で信じている人も皆無に近いだろう。つまり、他国へ移民として移住しなければならないという状況は、現実問題としては、ほぼ、想定外であろう。ほとんどすべての日本人にとって、日本の移民問題とは、移民の自国への受け入れ問題と同義でしかないのではないだろうか。
 日本は多分沈没しない。まったく住めなくなることもおそらくない。私も素朴にそう信じている。しかし、世界には、自分の国にはもはや住めなくなり、移民として他国に受け入れてもらわざるを得なくなった人たちが億単位でいるのも事実だ。
 ディアスポラを我が身にも起こりうることとして真剣に考える機会をドラマ『日本沈没―希望のひと』は私に与えてくれている。