内的自己対話-川の畔のささめごと

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武士道の道徳の「遊戯精神」とは―ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』の「日本語版への序」より

2021-12-24 08:29:18 | 読游摘録

 武士道という言葉は意外なところに顔を出すので油断がならない。
 前田勉の『江戸の読書会』(平凡社ライブラリー)についてはこのブログでも数回取り上げているが、同書の中に、江戸時代に広く行われた会読の性質を説明するためにロジェ・カイヨワの『遊びと人間』からの引用がある。遊びの四分類の箇所である。
 この『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学術文庫 一九九〇年 初版 講談社 一九七一年)の原書 Les jeux et les hommes の初版は一九五八年刊行だが、一九六七年に増補改訂版が出版されており、邦訳はこの増補改訂版の全訳である。この邦訳には、著者のカイヨワが寄せた「日本版への序」(一九七〇年五月十二日記)が巻頭に掲げられている。
 その序の中に武士道(bushido)という言葉が出て来る。驚いたことに、日本文化の「遊戯精神との明白な血縁関係」を誇示している例の一つとして武士道の道徳が挙げられている。「遊戯精神」と訳された原語は何か、今確かめる手立てがない(原書には « esprit de jeu »という表現が十箇所ほど使われているが、いずれも「遊びの精神」と訳されている)。
 それにしても、その他の例―生け花、茶道、和歌、俳諧、凧揚げ、贈り物の交換、能、歌舞伎、弓道、禅問答など―については、それらの活動の中に広い意味での遊戯精神を認めることはそれほど意想外なことではないが、武士道の道徳と言われると、首を傾げてしまう。カイヨワは何を念頭に置いて、武士道の道徳に遊戯精神を認めたのであろうか。カイヨワの序の中にこの問いに対する答えのヒントがないわけではない。

遊びは文明の根源をなすものであり、芸術と修辞学、祭式、政治と戦争の規則(ルール)、これらはいずれも遊びの精神の性質をうけたものである。人間の行動は、人がそれを本能と混乱と野蛮な暴力とから解き放とうとするとき、はじめて人間の行動となるが、そのことを判定するたしかな基準とは、ほかならぬ遊びの精神―明るい興奮、誰しもが持たねばならぬ創意、任意の規則の自由意志にもとづく尊重、これら三つの要素のいり混じったもの―が存在しているかどうか、であるとさえいえる。

 カイヨワが具体的にどのような事例を念頭に置いていたのかはわからないが、日本の武士たちの戦場での戦い方には自ら定めたルールがあり、それを敵味方共に尊重し、そのルールに従った見事な振る舞いがあれば、それが敵によるものであれ賞賛を惜しまないという、『平家物語』に描かれているような武士を想像して、武士たちの戦場でのルールに遊戯精神を認めたのではないかと想像される。