土屋昌巳(一風堂)さんは、1981年のアルバム「レディオ・ファンタジー」発売と、日本で初の本格的MTV「コズミック・サイクル」で、ロンドンのリスナーにも聴かれるようになる。
YMOの日本・東京ブームは、当然ロンドンにも波及していた。
YMOが好きでたまらなかったヴィサージのスティーヴ・ストレンジも、ロンドンの「カムデン・パレス」という自ら経営するディスコで、多くの日本の音楽を流しており、その中には一風堂もあった。
そういう1981年を経て、1982年化粧品のキャンペーン・ソングに竜真知子作詞の「すみれ September Love」というシングルを7月21日に発売する。
これが、日本のいわゆる歌謡曲・アイドルソングだけで染まったチャートに入り、最終的にはオリコン2位まで上り詰める。
それに伴い過去3枚のオリジナル・アルバムを集約したアルバムが2枚発売されて、日本のチャートでもかなり上の方に行き売れる。
その一方で、デヴィッド・シルヴィアン率いるJAPANが解散を公言した中、過去居たギタリスト、ロブ・ディーンはすでに脱退しており、解散コンサートのギタリストを探す中、JAPANが指名したのが、土屋昌巳だった。
【イギリスの番組「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」出演時のJAPAN&土屋昌巳】
JAPANに一番近かった坂本龍一にとってはなんとも言えない状態になる。
その前の1982年5月段階では、初のソロ・アルバム「ライス・ミュージック」の『カフカ』で教授が曲を提供していたが、その後。。。。
「すみれ」を契機としたのか?
坂本龍一と土屋昌巳が絶縁状態となった。
1982年、すさまじいメンバーで、幸宏は「YENレーベル」第一弾の「ぼく、大丈夫。(What Me Worry?)」発売に伴う国内ツアーを敢行する。
キーボードに細野さん・ドラムにスティーヴ・ジャンスン、サックスに立花ハジメ・そして、ギタリストに土屋昌巳。
ゲストで、坂本龍一、デヴィッド・シルヴィアン、加藤和彦、鈴木慶一!
同じステージに居ながら絶縁。
また、JAPANを挟んでも、解散コンサートでも一緒になっている。
そういう微妙な関係図が当時あった。
一風堂、土屋昌巳は、1982年の活動で世界的に有名なギタリストになる。
***
JAPANが一足早く1982年で解散した翌年の1983年。
坂本龍一----JAPANメンバー----土屋昌巳の引っ張り合いという関係は続いていた。
そういう中、1983年5月にあの鋤田正義さんが撮影したモノクロームの写真で出来た「ALONE」という写真集を土屋昌巳は発表する。
そして、この写真集には3枚のソノシートがついており、インストゥルメンタルの曲が収まっていた。
イーノ、坂本龍一の影響が強い曲。
その曲たちは、7月に発売されることになるアルバム「ナイト・ミラージュ」の制作の中で生まれた前段の曲。
下記は、「夜かもめ(NIGHT GULL)」というソノシートの曲だが、音色(おんしょく)といい、途中でうねり盛り上がる部分といい、明白なる坂本龍一のサウンドトラック『戦場のメリークリスマス』の影響(というよりパクリ?)がうかがえる。
【埋め込み禁止のため、Wクリックして見て下さい】
夏というなら、もっと陽気な音楽を・・・、と言われるかもしれないが、そういう人はほかに行って貰って結構。
竹中直人の1994年の深夜番組「恋のバカンス」の『流しな2人』で、井の頭公園で流しを演じるボブ彦(竹中)が、若者に「もっとビートの効いた明るい曲やってよお~」と言われた際に、「そんな曲なんか出来ないんだよ!」と激怒する場面を、自分にダブらせて急に思い出した。
そうです。
「明るい曲」は、何かそれに至る重い道のりの果て。
「明るい?・・・ビート?・・・そんな言葉をやすやすと口にすんな!」
そういうボブ彦的要素が、つい出てしまう。
夏の朝や昼間にかけたい曲はあるが、ほぼ「拘束状態」の自分が音楽を聴くのは夜。
夏の夜には、海には似合わない私であっても、この曲を毎年聴いて、誰も居ない夜の海を「創」像する。
YMOの日本・東京ブームは、当然ロンドンにも波及していた。
YMOが好きでたまらなかったヴィサージのスティーヴ・ストレンジも、ロンドンの「カムデン・パレス」という自ら経営するディスコで、多くの日本の音楽を流しており、その中には一風堂もあった。
そういう1981年を経て、1982年化粧品のキャンペーン・ソングに竜真知子作詞の「すみれ September Love」というシングルを7月21日に発売する。
これが、日本のいわゆる歌謡曲・アイドルソングだけで染まったチャートに入り、最終的にはオリコン2位まで上り詰める。
それに伴い過去3枚のオリジナル・アルバムを集約したアルバムが2枚発売されて、日本のチャートでもかなり上の方に行き売れる。
その一方で、デヴィッド・シルヴィアン率いるJAPANが解散を公言した中、過去居たギタリスト、ロブ・ディーンはすでに脱退しており、解散コンサートのギタリストを探す中、JAPANが指名したのが、土屋昌巳だった。
【イギリスの番組「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」出演時のJAPAN&土屋昌巳】
JAPANに一番近かった坂本龍一にとってはなんとも言えない状態になる。
その前の1982年5月段階では、初のソロ・アルバム「ライス・ミュージック」の『カフカ』で教授が曲を提供していたが、その後。。。。
「すみれ」を契機としたのか?
坂本龍一と土屋昌巳が絶縁状態となった。
1982年、すさまじいメンバーで、幸宏は「YENレーベル」第一弾の「ぼく、大丈夫。(What Me Worry?)」発売に伴う国内ツアーを敢行する。
キーボードに細野さん・ドラムにスティーヴ・ジャンスン、サックスに立花ハジメ・そして、ギタリストに土屋昌巳。
ゲストで、坂本龍一、デヴィッド・シルヴィアン、加藤和彦、鈴木慶一!
同じステージに居ながら絶縁。
また、JAPANを挟んでも、解散コンサートでも一緒になっている。
そういう微妙な関係図が当時あった。
一風堂、土屋昌巳は、1982年の活動で世界的に有名なギタリストになる。
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JAPANが一足早く1982年で解散した翌年の1983年。
坂本龍一----JAPANメンバー----土屋昌巳の引っ張り合いという関係は続いていた。
そういう中、1983年5月にあの鋤田正義さんが撮影したモノクロームの写真で出来た「ALONE」という写真集を土屋昌巳は発表する。
そして、この写真集には3枚のソノシートがついており、インストゥルメンタルの曲が収まっていた。
イーノ、坂本龍一の影響が強い曲。
その曲たちは、7月に発売されることになるアルバム「ナイト・ミラージュ」の制作の中で生まれた前段の曲。
下記は、「夜かもめ(NIGHT GULL)」というソノシートの曲だが、音色(おんしょく)といい、途中でうねり盛り上がる部分といい、明白なる坂本龍一のサウンドトラック『戦場のメリークリスマス』の影響(というよりパクリ?)がうかがえる。
【埋め込み禁止のため、Wクリックして見て下さい】
夏というなら、もっと陽気な音楽を・・・、と言われるかもしれないが、そういう人はほかに行って貰って結構。
竹中直人の1994年の深夜番組「恋のバカンス」の『流しな2人』で、井の頭公園で流しを演じるボブ彦(竹中)が、若者に「もっとビートの効いた明るい曲やってよお~」と言われた際に、「そんな曲なんか出来ないんだよ!」と激怒する場面を、自分にダブらせて急に思い出した。
そうです。
「明るい曲」は、何かそれに至る重い道のりの果て。
「明るい?・・・ビート?・・・そんな言葉をやすやすと口にすんな!」
そういうボブ彦的要素が、つい出てしまう。
夏の朝や昼間にかけたい曲はあるが、ほぼ「拘束状態」の自分が音楽を聴くのは夜。
夏の夜には、海には似合わない私であっても、この曲を毎年聴いて、誰も居ない夜の海を「創」像する。