70年代末から80年代後半に向けて、ニューウェイヴ、そして、アンダーグラウンドを追いかけていた自分だったが、当時、自分に聴く能力が無くて後悔しているものがある。
それが、佐藤カヲル率いるEP-4である。
その粘っこいファンクネスなサウンドは、当時の自分の琴線には触れなかった。
【フールズ・メイト 1983年7月号より】
初めて聴いた記憶が、1983年8月、夏の暑苦しい中だったのもある。
余計に暑苦しさが倍増し、後に貴重なその録音したカセットを消去してしまった。
また、もろブラック・ミュージックそのものの系譜の音が苦手だったのもある。
と言いつつ、多様な音楽を自分の中に吸収していったが、ブラックだけの音楽というのは当時駄目で、インパクトが感じられなかった。
そこにデジタル、テクノ、エレクロニック・・・いろんな味付けが無いと興味をそそられなかった。
【当時の佐藤カヲルは、ハンサムでかっこよかった。そこに追いつくことの出来ない自分が居た。】
夏の暑苦しい自分の部屋に響いたEP-4は「まがいもの」の感じがぬぐえなかった。
ある種、アンダーグラウンドにとどまり、挑発的なタイトルをアルバムに付けたり、その後のミックスチュア的なことをするのも、高校生の自分には、そうすることで神秘感覚を秘めたかのごとく見せるための技術という確信犯的な感情を抱いて拒否してしまったのである。
同じ系譜として、23スキドーなどにも、それを感じていた。
あれから四半世紀以上経ち、ここ数年YOUTUBEで聴いたEP-4のかっこよさには参った。
とともに、当時、自分がそこに同化出来なかったことを後悔した。
高校生の頃、とにかく触覚がきわめて敏感で、胃潰瘍で入院するくらいの神経症だったから、ほんの少しのさじ加減が、自分と音楽とこの世の関わりを左右していた。
ほんの数mm違うだけで、YESかNOとなってしまっていた自分。
フリクション、エディプスは聴けてもEP-4は微妙にフィット出来なかった自分。
胃潰瘍も神経症も、逆療法で酷使することである程度は超えてきたが、途中、自害に失敗しつつ、カネも無ければ安住の地も無い、本当のことを言える・分かち合える友人も居ないといった高校生の心境と、カネ・モノには満たされた隔絶した今の大幅な距離感。
今、すんなりと、EP-4のかっこいいファンクが自分の中に入ってくるのが不思議である。
なぜこうも耳から脳に届く音が違って聴こえるのか?
私はかつて「歳を取ることを昔は自分が次第に摩滅していくと恐れていたが、今は逆に歳を取るたびに、視野が広がり、さまざまな発見がある」と語ったが、このEP-4との再会もその中の1つである。
四半世紀も遅れを取ってしまったが、今だからかっこよく聴こえるEP-4の音楽との再会を、まさに邂逅と言い換えて、聴き込むここ数年である。
EP-4 「Coco」
それが、佐藤カヲル率いるEP-4である。
その粘っこいファンクネスなサウンドは、当時の自分の琴線には触れなかった。
【フールズ・メイト 1983年7月号より】
初めて聴いた記憶が、1983年8月、夏の暑苦しい中だったのもある。
余計に暑苦しさが倍増し、後に貴重なその録音したカセットを消去してしまった。
また、もろブラック・ミュージックそのものの系譜の音が苦手だったのもある。
と言いつつ、多様な音楽を自分の中に吸収していったが、ブラックだけの音楽というのは当時駄目で、インパクトが感じられなかった。
そこにデジタル、テクノ、エレクロニック・・・いろんな味付けが無いと興味をそそられなかった。
【当時の佐藤カヲルは、ハンサムでかっこよかった。そこに追いつくことの出来ない自分が居た。】
夏の暑苦しい自分の部屋に響いたEP-4は「まがいもの」の感じがぬぐえなかった。
ある種、アンダーグラウンドにとどまり、挑発的なタイトルをアルバムに付けたり、その後のミックスチュア的なことをするのも、高校生の自分には、そうすることで神秘感覚を秘めたかのごとく見せるための技術という確信犯的な感情を抱いて拒否してしまったのである。
同じ系譜として、23スキドーなどにも、それを感じていた。
あれから四半世紀以上経ち、ここ数年YOUTUBEで聴いたEP-4のかっこよさには参った。
とともに、当時、自分がそこに同化出来なかったことを後悔した。
高校生の頃、とにかく触覚がきわめて敏感で、胃潰瘍で入院するくらいの神経症だったから、ほんの少しのさじ加減が、自分と音楽とこの世の関わりを左右していた。
ほんの数mm違うだけで、YESかNOとなってしまっていた自分。
フリクション、エディプスは聴けてもEP-4は微妙にフィット出来なかった自分。
胃潰瘍も神経症も、逆療法で酷使することである程度は超えてきたが、途中、自害に失敗しつつ、カネも無ければ安住の地も無い、本当のことを言える・分かち合える友人も居ないといった高校生の心境と、カネ・モノには満たされた隔絶した今の大幅な距離感。
今、すんなりと、EP-4のかっこいいファンクが自分の中に入ってくるのが不思議である。
なぜこうも耳から脳に届く音が違って聴こえるのか?
私はかつて「歳を取ることを昔は自分が次第に摩滅していくと恐れていたが、今は逆に歳を取るたびに、視野が広がり、さまざまな発見がある」と語ったが、このEP-4との再会もその中の1つである。
四半世紀も遅れを取ってしまったが、今だからかっこよく聴こえるEP-4の音楽との再会を、まさに邂逅と言い換えて、聴き込むここ数年である。
EP-4 「Coco」