こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年6月28日 土曜日 かたちんば・夏の100曲 ~南佳孝「憧れのラジオ・ガール」'80~

2014-06-28 22:36:13 | 音楽帳
今はラジオを、再びネットで聴くことが出来る。
ラジオ番組「たまむすび」の4月22日放送分がアップされていたので、薄い焼酎のお湯割りを呑みながら聴いて浸っていた。
外は雨が降ったりやんだりが続く梅雨らしい日。

通常・火曜日は山里亮太さんが番頭さん(ホスト)だが、この週はホスト2人の「増えるパートナー週間」ということで、金曜日の玉袋筋太郎さんを加えて、赤江さんと3人の放送。

この放送数日前18日金曜日に、スタッフと出演者で行われたという呑み会(決起集会)を話すイントロ。
その夜がいかに楽しかったか。。。が伝わってくる、心が温まる貴重な放送だった。
「たまむすび」も4月から3年目を迎えて、番組を作っていくチームメンバーたちの自然な結びつきが見えた。

初めて一緒に呑んだという玉袋さんと山里さん。
山里さんがどんな面白れえヤツかを、玉袋さんは語りながら、山里さんの気力を持ち上げる。
その一方・全員にお酒を振舞いながら、早々にべろべろになったという赤江さん。
男の子みたいな女の子がそのまま育った、この人が持つ天性の天真爛漫さ。

玉袋さんの声と話し方は、周囲をハッピーにする。
他の人を立てて皆にモチベーションを与え、場を盛り立てる。
その包容力と説得力の大きさに、いたく感心しながら聴いていた。

さすがは、新宿で生まれ、酒場を渡り歩きつつ、危険と背中合わせの中、我が身で人のありようを得てきた男らしい、さすらい感とにじみ出る優しさ。
正直、金曜日の放送は余り聴いていなかったので、目の覚めるような想いがした。

若い頃、毎日毎日酒場で「呑む」というより、先輩に連れ回されて無理矢理酒を注がれては説教の日々だった。
ひどい時は、大阪の道端で寝ていたりもした。(その一方で、先輩らは、ひっかけ橋の真ん中・人が大勢行き交う中2人で寝ていた。)

そのような時代が終わり、自分も肝臓を壊し、考え方が変わったのもあり、外で呑むのを控えている。
歳は説教出来る側に回っているが、そのようなことはしない。上も下も無い場でしか、自分はお酒を呑まない。
いまや外で呑む回数は一年一桁だが、それゆえに行きたいと思った呑み会は、実に楽しい。
夜の語らい・笑い・お互い無理強いの無い中で呑むお酒の旨さ。
そんな夜は、良い夜だったという余韻が残るものである。

自分の主治医は、お酒は一滴たりとも毒、という認識の人である。
医学的確信があって言っているとは思えない。
そろそろ、キミはどこかで考え方を変えた方が良いよ、と説教をせねばならないと思っている。



■南佳孝 「憧れのラジオ・ガール」1980■
作詞:松本隆
作曲:南佳孝
編曲:坂本龍一


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2014年6月28日 土曜日 かたちんば・夏の100曲 ~China Crisis「Diary Of A Hollow Horse」'89~

2014-06-28 09:40:09 | 音楽帳

昨年後半から夢中で聴いているTBSラジオ「たまむすび」のように、「今」輝いてまぶしい『旬』を逃がしてはなるまい、という志向性の一方、リアルタイムで受け入れ出来なかった音楽も、改めて出会う、という機会に恵まれて再発見する日々が続く。

1982年今頃始まった「スタジオテクノポリス27」で初めて知ったチャイナ・クライシス。曲は「スクリーム・ダウン・アット・ミー」。
そこから前後の曲を蒐集しながら、心地良い同時代を過ごすが、自分との齟齬を覚えた1985年シングル「ブラック・マン・レイ」以降。
それでも彼らを追い掛けはしたものの、自分勝手に思い込むチャイナ・クライシス像と乖離し出し、今回もダメだ。。。という繰り返しをして、その果てで彼ら自身が作品発表を停止するに至る。

その後、偶然、大阪は梅田地下街で「ワープ」というCDでの新作に出会い、再びの邂逅を果たす。異国の地の偶然、奇妙で素晴らしき縁。
まるで、自分がそのお店に向かうことを知って「どっきりカメラ」が、店頭にCDを分かる位置に置いたみたいな不思議だった。

あきらめをしてしまっていた1985から1989年のチャイナ・クライシスを振り返りつつ、トレースを繰り返してきたのは、ここ十年。
CD化されたアルバムで聴きながら、過去ダメだと思ったアルバムに珠玉の曲を見つけていく。

***

お互い心に深い悩みを持つことが縁で、大学時代に出会えた、長き友人・Mくんを思い出す。
彼は、可愛い少年がそのまま大学生になったような美少年だった。
よくコロコロ笑う彼が、自分より年上とは思えなかった。

彼の実家が兵庫は芦屋であった偶然。
自ら汗水かいてメシを喰うために、いきなり放り出されたのは、真反対の文化圏・関西。
この地で住む場所を導いてくれたのは、彼だった。
この時点で、彼の両親は芦屋から別の場所に移動していた中、彼だけが芦屋でマンションを借りて住んでいた。

大阪に降り立った初日、彼は不安な自分と一緒に不動産屋めぐりに終日付き合い、夜には自分の車でカラカラテルメなる場所に案内してくれ、一緒に湯に浸かって過ごした。

その後、阪神淡路大震災に遭い、彼との連絡を取り合いつつ、うちに泊めたり・行ったりをしていた。
そんな折、同じように音楽が好きな彼の傾いたアパートで、レコード&カセット棚を見て「どんな音楽を今聴いているのかな」と興味津々。
フラ・リッポ・リッピの「ソングス」やチャイナ・クライシスの「ダイアリー・オブ・ア・ホーロー・ホース」があるのを確認しつつ、お互いが通り過ぎてきた時を思った。

彼は「勝手に聴いていいからね」と言いながら、いつのまにかソファで寝息をし始め、ボクは置き去りにされた人の室内でチャイナ・クライシスを聴いていた。

チャイナ・クライシス2人が好きだったスティーリー・ダン。
そのウォルター・ベッカーにプロデュースされた80年代後期。
憧れの人と音楽を創ることに彼らは喜びを感じていたのだろうが、聴くほうは望んでいない方向に向かっていると思っていた。
お互いの距離を感じたが、自分が「旬」ばかりを追い掛けていたせいもあった。。。そう今では言える。

1985年の「未完成」
1989年の「デイリー・オブ・ア・ホーロー・ホース」
共にウォルター・ベッカーとの作品。

(彼らにとっての)憧れの方向にいざなわれて自らを失っている、と当時は思ったが、細かく聴いていくと、やっぱりここにもチャイナ・クライシス2人じゃなければ奏でられない音がある。その音が今では聴こえる。

■China Crisis 「Singing The Praises Of Finer Things (live in Liverpool)」■




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