こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年1月3日 土曜日 夜空の下で掃除

2015-01-04 00:58:22 | 音楽帳

年末からゴミ屋敷一掃キャンペーンを、一個人で張っている。
そう言ってしまうのは、私がモノへの愛着/執着が異常だからである。

他人は他愛も無くさっさとゴミ箱に捨ててしまうものを、後生大事に取ってしまう。
草加から西尾久、西尾久からココへ引っ越す際、たった独りなのに4トン車2台が用意された。
よく”生きるテクニック”として、あえて引っ越しをたくさんすることで「要/不要」を選別し、身軽にすみかを転々とする達者な方がいる。

どうも私はそうなれずに、三ノ輪―草加―大阪―草加―西尾久―ココと引っ越すたびに雪だるま式に荷物がふくらんでいく。

よく引っ越しの手伝いに来てくれた友人たちは、そのモノを見ては「なつかしいなあ~」と驚きつつ、いろんな話をしてくれた。
しかし、彼らと私の感覚が如何に違うのかを、この時によく感じた。

例とすれば、カセットテープやEP・LPレコードだったり、ソニーのCDウォークマンだったり。別に大事に使えば、それは特別ではない。
だが、彼らは今一番”最新”の何かに飛び付くと全部それより前を捨て去れるいさぎよさを持っているから、私の持ち物自体がいわば「骨董品」扱いなのだ。

実際、引っ越しをしてくれた業者の若い方たちは、ずいぶんけげんな顔をした。
なぜ、独りなのに、こんなに荷物が多くあり、それも家具や生活に必要な基本道具は無くて、本や音楽・映像メディアばかりなのだ?と。

仕事の最後に”ありがとう”とあいさつをして、これでお昼でも食べてね、とわずかばかりのお金を渡すと、リーダーの子が「あのお、何か御商売をされているんですか?ネット販売なんかで?」と言われた。
説明に苦慮したが、別にいかがわしい者では無いですからね、と説明してさようならを言った。

”あの世にどうせ持っていけないんだからさ”と言葉では言ってきたが、その本当の意味を骨身で理解したのは、一昨年後半からのこと。

今日午後は、友人ハブ噛み師匠と会って、写真を撮りつつ街歩き。
その途中でお店に寄って、掃除に役立つ便利グッズを買って帰った。

帰ると、昨年6月に買ったはいいが、組み立てていなかったカラーボックスを汗かいて組み立てする。音楽を聴きながら。
不思議とこういうときには、ふだん聴くラジオは聞かない。

じゃあ何を聴くのか?というと、あまりカテゴリー用語は使いたくはないが、ノイズやインダストリアル系の音楽を、あるいはインストゥルメンタルであったりアンビエントなものを掛ける。
作業をしていると、人間的な機能を放棄したくなるのだ。
ついついメロディアスだったりロマンティークな音楽に吸い寄せられがちな私だが、まるで工場(こうば)の作業みたいなモードに入る。

何もこういうときだけではないが、考えたり・悩んだり・・・そればかりが長くなりがちな自分はいつも疲れている。
しかし、こんな戦闘モードのときには変わっている。
「ああ、こんなもん取ってても見ないしめんどくさいから”捨て”」となる。

これは大勢で仕事場の掃除をしている”ノリ”と勢いでたんまりモノを捨ててしまう時に似ている。それをまねて、こうでもしないと勢いを持って後悔せずにモノを捨てられないのだ。
まあ、捨てるといっても、チラシや小冊子類がほとんどだが、紙類ほど重量があり・中身をめくる面倒なモノはないので。

BGMは最初、大好きなスティーヴ・ハイエットのLP「渚にて」だったが、その後、キャバレー・ヴォルテールやリチャード・カークスのソロに行き、その後はいろいろランダムに掛けていた。
3時間を経て、まあ今日やれるのもこのへんまでかな・・・と思い、一息ついてお湯割りを頂いている。

さっきまで本やCDをとりあえず適当に収納し、ほこりを取っていた。
そうしながら「こうして汗かいてまで整理するのもなあ。。。いずれは全部売買されてしまうのに。」とよからぬ想いがよぎった。

その後、そう想った自分を叱った。
「そんなこと言ったら、あんたは生きていなくてイイよ。」
そうなのだ。生きてYMOファミリー等々のCDを整理している「今」が幸福なのであり、それこそが私、なのだ。

今からしばらく聴く(よく聴く)CD・よく見る本、それらを近くに集めてくることは、生き物たちが巣や寝ぐらを作るようなもので、必要なんだよ。

この言葉は正しい。うん、実に正しい。そう思って、今、作業場で納得している。

■Cabaret Voltaire 「This is Entertainment」1980■


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする