もともとイエロー・マジック・オーケストラ(後のYMO)は、細野さんの家のこたつに3人入って、おにぎりを食べながら、細野さんの夢「ファイアー・クラッカー」をテクノでアメリカで大ヒットさせるという夢を語り、坂本・幸宏が同調した1978年のある晩に始まった・・・・・・・・・・。
その細野さんの夢は実際に現実化し、1980年イエロー・マジック・オーケストラは、日本国じゅうどこに行っても、あらゆるところで音楽がかかっているという「異常な状態」に陥る。
その状態に絶えきれず、教授は幻聴が聞こえ・ノイローゼになり、後2人も「ほとんどビョーキ」となりながら、アルファレコードの意向で、已むなく第2期「ワールドツアー"FromTokioToTokyo"」に出る事になる。
矢野顕子・大村憲司・そして第4のYMOの頭脳=松武秀樹をたずさえた歴史的な日本人初の大規模な海外ツアーだったが、ヨーロッパ~アメリカ…土地から土地へと行脚しながら、3人はどんどんと疲弊していく。
ひたすら同じ演奏を繰り返すうちに、3人のストレスは最高潮に達する。
聴衆の前で喝采を受けながらも、黙って冷淡に演奏する自分らが、大衆のおもちゃみたいに「存在する状況」への大逆襲/反転攻勢と「この次は、良いアルバムが絶対出来る」という確信がプロデューサー細野さんの頭にはあった。
1980年12月イエロー・マジック・オーケストラは、やっと海外ツアーから日本に帰国し、凱旋公演として武道館で最後の締めのコンサートを行い、年末の日本レコード大賞で「ソリッド・ステイト・サバイバー」がベストアルバム賞を受け、過酷だった1980年を終えた。
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明けて1981年1月、イエロー・マジック・オーケストラはYMOと記号化し、みんなが注目する中、ニューアルバムのレコーディングをスタートする。
評論家や身近な人が、スタジオに現れてもメロディらしいものも聴かれず、ひたすら分解された部分、シーケンサーの音が鳴るだけ…など、皆「何を創ろうとしているのかわからない?」と言って帰って行く始末。
坂本龍一は精神不調のため、スタジオをすっぽかすまでにさえなっていく。
それでも、イエローマジックオーケストラのプロデューサー[総責任者]であった細野さんは、ひたすら進む。
その心中には「絶対いいものが出来る」という確信があった。
それは、今まで自分らを固定イメージに閉じ込めてきたレコード会社やスポンサー、そして「大衆という化け物」への「一世一代」のあらがいだった。
彼ら3人には、もうそれまでやってきた事には全く関心が無かった。
それは、既にスポンサーであったフジ・フィルムのフジ・カセットのCM用に創られた『磁世紀/開け心』の中に聞こえる。
ノイズの中で叫ばれた幸宏の「あ~も~やだよ」にて、彼らの心中は吐露されていた。
しょせんは焼き直しの「ソリッド・ステイト・サバイバー②」など作る気はさらさら無かった。
しかし、アルファレコードも、大衆という化け物も、それを期待していた。
そんなNo.1グループが、金銭面・機材・スタジオ代…あらゆる事を許されたさなか、またしても時間という制約[発売日]という重い壁が設定されていた。
発売日は、1981年3月21日だった。
逆に、決まっていた条件はそれだけだった。
大々的に「ニューアルバム」広告が打たれる中、アルバムは何1つ出来上がってなどいなかった。
レコード盤のカッティング作業・ジャケット・歌詞カードの制作・ミックスダウンから逆算をしたスケジュールを考えても、とてつもない短期日程で創らざるを得なかった。
スケジュール・大衆・レコード会社・・・・・・・・四方八方からのプレッシャーと枠をはめられた中でのニューアルバム制作。
すべては時間という限られた枠との勝負。
そのものが、緊迫したアルバム「BGM」の重要な側面を形づくったのだと、今、完成後を振り返ると言える。
「スケジュールという枠」から、まず細野さんは、A面・B面共に4分30秒×4曲+5分20秒×1曲という全10曲構成で行く事を設定する。
そして、幸宏・坂本にはそれぞれ「こういった感じの曲を・・・」と、プロデューサーとしての概略説明をする。
「何をしてもいい・何をしても許される」そんな有り得ない状況の中、各々は各々のテーマを持ちながら、試行錯誤・暗中模索の中、「新しいYMO」の音楽に向かっていく。
時間が無く、更には3人は他の仕事まで抱えていた為、とりあえずリズム自体までも分解・あらゆる素材を分解しながら、パーツ毎に創り、それにコードを重ねたりしていったり行きつ戻りつ作業を進める。
と同時に、それまでクリス・モスデルに任せていた詞を排し、それぞれが日本語で歌詞を書き、それをピーター・バラカンが本人の意向を聞きつつ、仮に途中までしか出来ていないトラックをカセットテープに落とし、スタジオの外で英語に置き換え、また本人に見せてメロディに乗るセリフを選び・確認をしつつ、詞を仕上げて行く。
*最終的に、歌詞カードを印刷する時間が無くなって、レコードには歌詞カードはついていない。
結果的に、名写真集「OMIYAGE」(=YMOエイジに愛を込めて)に歌詞は収まった。
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曲の方もある程度出来て来ると、それぞれのノリにあった長さがあってしかるべきものだが、それを4分30秒立つと自動的にカットするという荒っぽい手法を用いる。
その後「幸宏エンディング」とも言われるようになった、唐突なカットによる曲のエンディング。
詞と曲を同時進行させながら、短時間で、彼らはもがきながら「新しいYMO」の音をさぐっていく。
僕は、その後の「テクノデリック」を愛しながらも、実はまったく違う状況下で、方向も定まらぬまま、悩み・あらがう姿がそのまま荒削りな状態で放り出された「BGM」に対する個人的な思い入れがある。
時間との勝負の結果、ある限界日時を持って「スパン!」と作業打ち切り、そのままアルバム加工に進んで行ったこのアルバムの過激さ!
細野さんは、レコードのオビに「近くで聴くとキケン」「老人・幼児は注意」と書いたが、何度聴いても違って聞こえる不思議なアルバム「BGM」。
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アルバムタイトル「BGM」とは、日本国じゅうどこに行ってもYMOが聞こえていた社会現象を「まるで、YMOはBGMみたいなもんだな、。」とバカにした音楽評論家【実名は挙げないが】への「皮肉」である。
当時の「BGM」とは、当時の喫茶店でかかっているような(今の有線放送では無い)イージー・リスニングや有名な曲をたらたらとした温和な(今で言うスーパーでかかっているような)カバーした音楽を差していた。
「おまえらがBGMというなら、こういう過激な音もBGMと呼んでみろ!」という細野さんの反論だった。
これは、「BGM」のA面1曲目、幸宏の持つロマンティシズムが開花した、矢野顕子が「YMOの中で一番好きな曲」という「バレエ」。
A面2曲目は、掲載はしないが、あの1981年初頭の悩む坂本龍一のあるがままの心情を叩き付けるかのような「音楽の計画」。
この痛みを持った詩と歌には、自分は今でも込み上げてくるものを感じる。
この1981年3月時点で、イギリス・ヨーロッパにも、このような音楽は無かった。(腐れインケツ野郎のバカ国家、=アメリカは論外)
僕は、アルバム「BGM」はこの時点での、あらゆる意味での革命的アルバムだったと思っている。