こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

夏のフェイバリッツ⑦ 坂本龍一 「Paradise Lost」(失楽園)'84

2010-07-18 09:45:15 | 音楽帳


7月18日 快晴 夏雲が、青空に浮かぶ朝。

昨日は、実家に親父の誕生日祝いを届けた後、すぐUターン。
「東京ミッドタウン」の中のガレリアにあるインテリア・ショップの人と商談の約束があり、向かう。

帰り道、六本木~乃木坂~霞ヶ関~新橋烏森口まで、汗たくで写真を撮りながら歩いた。

新橋で既に足がパンパンだったので、マッサージに入り、60分マッサージしてもらう。

帰宅すると、0:00。

***

梅雨も明け、外は人出が多いことだろう。


夏のフェイバリッツ⑦として、今回は「音楽図鑑」という、極めてめくるめく80年代の変化の中生まれた教授のアルバムの中でも、夏のトロピカルな印象の強い「パラダイス・ロスト」を選んだ。

何度も、ミックスをやりなおした結果ではあるが、とても快適な音楽に仕上がった好作。
山下達郎、それにヤン富田、近藤等則が協力している。



これも、自分にとっては「夏の定番曲」。
日差し強い日に、シュワーと泡を立てるコカ・コーラを冷房の効く部屋で聴くと、心地よく、南洋の見えないパラダイスが妄想できる。
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1981年3月革命~永遠に未完をはらんだアルバム『BGM』の誕生~②

2010-07-17 05:48:18 | 想い出かたちんば
1980年末までの3人の抑圧は、1981年3月の「BGM」・それを経て、松武秀樹さんが作った世界初のサンプリング・マシンを全面的に使った11月の「テクノデリック」に結びついていく。
そして、年末の「YMOウィンターライブ1981」で、1981年を終えることとなる。

「BGM」「テクノデリック」を「YMO中期」と呼ぶ人も多い。

***

「YMO初期」が、3人それぞれがスタジオ・ミュージシャン&ライブでもテクニック&技量のある「ミュージシャン」であった事を一切捨て去り、コンピューターという「テクニック&技量」を必要としない「ミュージシャン」を捨て去る音楽への対峙という過激な時期を経て、それが大衆に異常なほど受け入れられる1980年末までの時期とすると、

「YMO中期」とは、そういう状況への反動と意志を持った「新しいYMO」の姿を作った模索の結果結実した2枚の、今だにフォロワーの絶えない優れたアルバム創出の時期を指している。

この中でも、その「新しいYMO」の姿を決定づけたという「BGM」のB面1曲目の「CUE(キュー)」という曲が、その後、2010年に至るまで、様々な形で演奏される事になる。
この曲は、当時精神不調だった教授不在のまま、細野さんと幸宏の2人で創られている。

というか、よく言われる事ではあるが「BGM」はプロデューサー細野さんが主導権を握ったアルバム/「テクノデリック」は教授主導で創られたアルバムと言われる。

そんな後付けの事はよしとして、やはり「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」⇒「BGM」に移行するには、相当な抑圧がエネルギーに喚化されたものなので、「BGM」⇒「テクノデリック」という比較的筋書きが出来た中での変化とは大きくかけ離れていると、自分は思っている。

***

その中でも、細野さんと幸宏の2人は「CUE(キュー)」という曲が出来上がった過程を大事にしている。

細野さん曰く「これは、自分の色でもない。幸宏の色でもない。2人でやると、ある程度、落ち着く色というのが見えるが、その2人いずれでもないところから出てきた事に、ひさびさに背筋が寒くなるような想いがした。」という。

この「CUE(キュー)」という曲は1晩で創られた曲である。

歌詞の方は、ピーター・バラカンが英語化し、言葉を選びつつ、英語の歌い方の指導をしながらサポートを行っているが、細野さん・幸宏で共同作業を進めながら、夜明けに完成したこの「CUE(キュー)」という曲には、2人とも「新しいYMO」が進むべき道を見出したと、疲れ果てた中、2人で「CUE」と書いた紙を持ち記念写真を撮影している。

それは、1981年3月に近いとある夜明けの事だった。

***

アルバム「BGM」が結果的に、細野さん&幸宏主体でアルバム作りがされた事への反動もあり、教授は、2人が「新しいYMO」と言った「CUE(キュー)」を「なんだ!これは、ウルトラヴォックスの曲、そのままじゃないか!」と激怒したという記録が残っている。

確かに、当時最先端の音楽を目指し、イギリス⇔日本で情報合戦が行われた日々の中、どちらがどちらに影響を与えたの真は定かでは無いが、ミッジ・ユーロ率いる第2期ウルトラヴォックスとYMOは、相互影響・相互意識をしながら音楽を創っていたのは事実である。

教授の指したウルトラヴォックスの曲とは「パッショネイト・リプライ」という、当時の12インチシングルのB面に収まった曲である。

聴けば確かに、「CUE(キュー)」と「パッショネイト・リプライ」はよく似ている。

しかし、かたちんば自身は、「パッショネイト・リプライ」はしょせんB面になるべき程度の曲に聴こえるが、「CUE(キュー)」はそうではないと想っている。

***

この細野さん&幸宏/教授という分裂の有り様は、1982年のYENレーベルを細野さん&幸宏で発足し、かたや教授は清志郎との「いけないルージュマジック」、B-2UNITSでのライブ、戦場のメリークリスマスでの役者出演&サントラ創りと、YMOを二分化していく。

それは、その後も続き、2000年代「スケッチ・ショー」が細野さん&幸宏で創られた背景にも繋がっている。

但し、3人のフラットな関係は、先般述べた1999年の細野さんと教授の和解以降、続いて今日に至る。

実質は、スケッチ・ショーのファースト・アルバムに収まっている「WONDERFUL TO ME」も、ベーシックトラックやキーボードで教授が参加しており、2000年以降の3人の歩み寄りは、今の3人が同等の関係に繋がっているのだった。

***

3人で演奏をするとき、必ずこの中期YMOの「CUE(キュー)」という曲は必須な曲として、教授の名曲「ライオット・イン・ラゴス」(第2期ワールドツアーの1曲目であり、かつ、ヒップホップ界では触発された曲としての『元祖』としてあがめられるこの曲)と同時に演奏される。

1981年、「BGM」・「テクノデリック」が出来たところで、YMOは「やりたい事は全てやってしまった」状態になった。
細野さんは、この時点でYMOを解散することをレコード会社に打診するが、解散させてくれなかったというのが、真実であり、それが「アフターYMO」としての1983年「浮気なぼくら」「サーヴィス」での大団円の「散会」でやっとかなったのである。

***

その中間である1982年は、それぞれ3人個人個人の仕事が中心となるが、唯一3人で演奏したのが、この下記YOUTUBEでアップされている、TVでの「CUE(キュー)」の演奏である。
僕は、このヴァージョンが、一番レコードのオリジナルな姿に近い緊張感を持っていて好きだ。
この曲は、細野さん&幸宏で創られたため、教授がドラムを叩く形を採っている。
当時、ヴィデオなど無かった時代なので、リアルタイムにTVにかじりついて見ていた。



まあ、実際は、1982年秋以降、「浮気なぼくら」の録音は開始されているが、一度中断をはさんで、1983年に発表される事になるのではあるが・・・・。

この動画の「CUE(キュー)」は、照明に拠る幸宏のホホのコケ具合が実にカッコイイ。

近時、この「CUE(キュー)」もゆったり目の演奏がされる事が多いが、自分はこの真剣な緊張感がみなぎった、このヴァージョンが一番好きである。
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池上彰さんはすっばらしい。

2010-07-16 23:55:56 | 雑記帳


池上彰さんは、さらっと言ってのけたが、もはや天皇制がタブーではなくなった、平成の日本における現代においてのタブーというのは、在日朝鮮と創価学会である。

この点については、鳥肌実先生も「下手をすると殺されてしまうんですね。」という笑えないギャグを「ことり相談室」で言っていたが、そういう中、池上彰さんは本当にニュートラルな視線で、今ある世界の「事実」を伝えられる数少ない『聖人』として、尊敬する。

このYOUTUBEも、見ていると珍しくフリーズする現象が起きるが、それだけ、この発言をさらっと言ってのける池上彰さんへのアクセスが集中している事を示している。

いかに「真実」を伝える事が困難であるかの日本国の状況下の中で、池上彰さんという人が、どれだけ度量が広い人であるかに、敬意を表します。

そして、それは、池上彰さんという人を窓際族に追いやったNHKが、如何に偏向報道をし続けているかの証明でもある。

こんなNHKなどというデマカセの報道機関に「受信料」なる「お布施」をする必要など無い。
集金人には、その思想を伝えて「NO!」と言う事が、まっとうな日本人の在り方であるのだという事を教えて「洗脳」してあげて下さい。
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写真日和 「室(むろ)のような湿気の中、雲はもくもく流れる」

2010-07-14 22:52:32 | 写真日和


20:50に電車に乗って、家に向かう・・・・・。

今朝の夢は、怖い夢だった(-へ-;)

この時間でも、外は室(むろ)みたいで気持ち悪い。
今晩は「熱帯夜」かな・・・・・・。

昼間、同僚のSさんとお弁当買いに橋渡って居たら、激しく雲がすごい早い勢いで流れていた【写真】。

橋から川を眺めていたら、珍しくカメさんが川で泳いでいました。
暑いんだろうね。

ハトも日陰で涼んでた。
2人で、橋の真ん中で「しっかし、あぢいなぁ~。たりぃ~。」とか言ってんだろうという結論になった。

しかし('◇')!

高い日当たり良い所に止まっているハトが居て、Sさんと指差しながら、
「あいつらは、このクソ暑い中、一体、何やってんだろうか(・_・;)?」という議論になった。

結論は「日焼けしてるんだろう、サンオイル塗って。」という事に違いないとなった。
彼らは、サーファーなんだろう。

***

暑いのに強い人は、うらやましい。
自分は、母親ゆずりの暑がりなので。

暑い時、まみちゃんを思い出し、ネコたちや生き物たちが、少しでもカラダに負担をかけずに涼しいところで生きていて欲しいと思う。
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今朝の悪夢 : 「上野の巨人」(美の巨人ではない)

2010-07-14 19:42:58 | 想い出かたちんば


今朝、明け方から、悪夢にうなされていた。
大きな巨人が、上野の山をわっしわっしと歩き、じゅらくの建物などを破壊していて、地上に居る自分は身震いしていた。

朝、モーニング・コール(をよ~ろ~し~く[By清志郎])を頼んだ人に、「巨人が、きききょじんがあ・・・。」と言っていた。

***

仕事場に行き、同僚にその話をすると『それは、西郷さんなんじゃないですか?』と言われたが、違った。

そこで、40年前の記憶がフラッシュ・バック[By幸宏]したのだった。

幼い頃、怪獣に夢中だった自分は、A全1枚くらいの大きさの紙を折りたたんで、各面に、それぞれの怪獣の写真と下の方に特徴などを書いたカード・シリーズがあって、買ってもらって眺めていたシーンを思い出したのだ。

そこに、なぜか、怪獣たちに混じって、ターザンのように、ハダカに腰巻きだけで、ヒゲボーボーの眼のギラギラした単なるオトコが居たのだ。

その眼のギラギラ感が、かたちんばを引きつけて、記憶の片隅に違和感としてインプットされていたのだ。

『それは、かたちんばさんなんじゃないですか?』と同僚の女性にバカにされてしまったが・・・・・。
まさに、夢の中の巨人は、昔、記憶の底にあった「巨人」を想起させた。

***

今日は、その巨人を調べていたら「ウルトラQ」の22話(1966年5月29日・産まれておらんばい)に、その名も「巨人」というそのまんまの名でウィキペディアにも載っていた。

たぶん、何かの具合で大きくなってしまったのだろう(放射能?それとも科学変化?)。

自分も素浪人時代に読み、ショックを覚えたカフカの小説『変身』を引用しているブロガーの人も居たが、自分もその小説を想起した。

小説『変身』とは「わたし」が「ある朝、起きると虫になっていた」というところから始まる哀しい物語で、最終的には、家族にも「わたし」は認知されないまま、家族から追い出され「虫」として放置されて死んでいく話で、とても「隠喩的」な今まで読んだことの無い小説に、ショックを覚えた。

当時、自分が家族にとって、そういうジャマな存在だったのとダブっていたからだろう。

***

「ウルトラQ」は全部、MZ師にDVDに焼いてもらったものが家にあるのだが、全部見切れないまんま、今日に至っている。

今日は帰ったら、この「巨人」の回を探してみよう。
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The B-52's  「Deep Sleep」'82

2010-07-13 22:33:09 | 音楽帳


The B-52'sを知ったのは、彼らの初期のトッポいイメージの頃ではなく、トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンがプロデュースをした「メソポタミア」という1982年のアルバムだった。

・・・・いや、実は、その前に「痛い」想い出をしたバンドなのである。

***

実は、今は無いと思うが、銀座に「ハンター」という(当時CMもしていて)有名な中古レコード屋さんがあって、そこでエサ箱を漁りながら、「海賊盤」というのに憧れていた時期でもあり、4000円近い2枚組のThe B-52'sの「海賊盤」を買って聴いたのが初めてだった。

しかし、悲しいかな、今のように中身を聴いた上で買える時代でもなく、情報も少なく、おこづかいも少なく、『レコード1枚を買う覚悟』というものが、買う方には、大きなプレッシャーとしてのしかかっていた。

買って帰って聞くと、そのレコードは、確かにThe B-52'sのライブの「海賊盤」だったが、彼らの音よりも周囲の雑音が激しく、いかにもカセットで無理して違法録音したというのが明らかな、ひどい2枚組だった。

涙こそ出なかったが、この4000円は、中学生には痛いレコードだった。

「中古」で買ったのに、そのレコードは、後に売りに出したが、300円くらいしか値が付かず、再度、痛みを伴った。

***

そんなトラウマを44歳にして思い出したものの、オリジナル・アルバムの3枚目の「メソポタミア」は、カセット・テープにエア・チェックしてよく聴いたが、個人的には大好きなアルバムだった。

トッポいイメージの頃のThe B-52'sを基本とした音楽評論家には、酷評されたが。。。。

***

そんなアルバム「メソポタミア」には、こんな素晴らしく「COOL!」な曲が入っていた。
当時、スネークマン・ショーのプロデューサー、かつ、選曲家だった桑原茂一さんが、この曲を選曲しているのを聴いて、共感した想いが残っている。
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かたちんば徒然日記 : 茶番劇としての「コドモ」選挙

2010-07-12 22:11:48 | 雑記帳


今日、仕事場で、ある人が言った。
NHKの「龍馬伝」の終了後、選挙特番に切り替わったが、この落差の大きさに、言うコトバを失った、ということ。

まさに、この「日本」という国のいしずえに真剣に取り組んだ坂本龍馬の命がけの生き様に感動する一方、我々の血税を使って、遊びに遊びまくっている「政治家もどき」の茶番劇・・・・・。

***

自分は、TVを付けて、数分で、谷亮子のブサイクな吐き気を催す笑顔が映った瞬間に、スイッチ・オフした。
「ヤワラちゃん」などというあの杉浦直樹のマンガの可愛い女の子の愛称を使う事を、杉浦直樹は肖像権侵害で訴えるべきである。

かつて、和歌山の毒カレー事件の犯人のオンナがいつも来ていたブランド・メーカー「ミキ・ハウス」が「ブランドにキズが付くので、着るのをやめてくれ」と言った事と同じである。

今回も、30パーセント台という、実に低い相変わらずの投票率の中間報告ではあったが、えらいなと思った有権者は、タレント候補者に向かって「お前、二束のわらじが履けるとでも思ってんのか!」「有権者をバカにするな!」と、タイマンで言う人が居たところだった。

***

TVのスイッチをオフした自分は、いつものTBSラジオに切り替えた。
宮台真司が、珍しいほどに激興していた。
菅直人の事をボロクソ言っていたが、収まりが付かないほどに興奮していた。
まあ、言われて当然だが・・・。

しかし、その民主党を離れた票が、自由民主党に流れているのを察知した段階で、今度は、自分が激興して、今度は、ラジオをスイッチ・オフし、教育テレビに切り替えた。

すると、過去、昨年、まさに愛ネコ「まみちゃん」と最後の添い寝をした晩にかかっていて、引き込まれた、19歳にして連続射殺犯で逮捕され、その後「無知の涙」「木橋」「なぜか、海」といった名作を牢獄の中から生む事になる小説家、永山則夫の重き生き様の番組の再放送だった。



「日本」という国・人の命というものの重さに比べ、なぜもこんなにも、日本の政治というものが軽くケーハクなものなのか・・・・と今更ながらあきれ返った。

***

MZ師はよく、こういう。
「民主主義なんてのは、そんな程度のモノ。(民衆は愚衆)
こういう二大政党共に信用ならん時にこそ、ファシズムが生まれたのだ。」

自分の本音を言えば、真なる右翼の政党があれば、そこへ投票すべき所、どこにもその足がかりが無いために、「コドモ」選挙は続くよ、どこまでも・・・・という状況。

坂本龍馬先生も永山則夫も、草葉の陰で泣いている事だろう。
情けない。

***

「崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮なチカラがある。」
                              三島由紀夫『禁色』より
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1981年3月革命~永遠に未完をはらんだアルバム『BGM』の誕生~

2010-07-10 11:05:01 | 想い出かたちんば
 もともとイエロー・マジック・オーケストラ(後のYMO)は、細野さんの家のこたつに3人入って、おにぎりを食べながら、細野さんの夢「ファイアー・クラッカー」をテクノでアメリカで大ヒットさせるという夢を語り、坂本・幸宏が同調した1978年のある晩に始まった・・・・・・・・・・。

その細野さんの夢は実際に現実化し、1980年イエロー・マジック・オーケストラは、日本国じゅうどこに行っても、あらゆるところで音楽がかかっているという「異常な状態」に陥る。

その状態に絶えきれず、教授は幻聴が聞こえ・ノイローゼになり、後2人も「ほとんどビョーキ」となりながら、アルファレコードの意向で、已むなく第2期「ワールドツアー"FromTokioToTokyo"」に出る事になる。



矢野顕子・大村憲司・そして第4のYMOの頭脳=松武秀樹をたずさえた歴史的な日本人初の大規模な海外ツアーだったが、ヨーロッパ~アメリカ…土地から土地へと行脚しながら、3人はどんどんと疲弊していく。

ひたすら同じ演奏を繰り返すうちに、3人のストレスは最高潮に達する。

聴衆の前で喝采を受けながらも、黙って冷淡に演奏する自分らが、大衆のおもちゃみたいに「存在する状況」への大逆襲/反転攻勢と「この次は、良いアルバムが絶対出来る」という確信がプロデューサー細野さんの頭にはあった。

1980年12月イエロー・マジック・オーケストラは、やっと海外ツアーから日本に帰国し、凱旋公演として武道館で最後の締めのコンサートを行い、年末の日本レコード大賞で「ソリッド・ステイト・サバイバー」がベストアルバム賞を受け、過酷だった1980年を終えた。

***

明けて1981年1月、イエロー・マジック・オーケストラはYMOと記号化し、みんなが注目する中、ニューアルバムのレコーディングをスタートする。

評論家や身近な人が、スタジオに現れてもメロディらしいものも聴かれず、ひたすら分解された部分、シーケンサーの音が鳴るだけ…など、皆「何を創ろうとしているのかわからない?」と言って帰って行く始末。

坂本龍一は精神不調のため、スタジオをすっぽかすまでにさえなっていく。

それでも、イエローマジックオーケストラのプロデューサー[総責任者]であった細野さんは、ひたすら進む。

その心中には「絶対いいものが出来る」という確信があった。

それは、今まで自分らを固定イメージに閉じ込めてきたレコード会社やスポンサー、そして「大衆という化け物」への「一世一代」のあらがいだった。
彼ら3人には、もうそれまでやってきた事には全く関心が無かった。

それは、既にスポンサーであったフジ・フィルムのフジ・カセットのCM用に創られた『磁世紀/開け心』の中に聞こえる。
ノイズの中で叫ばれた幸宏の「あ~も~やだよ」にて、彼らの心中は吐露されていた。

しょせんは焼き直しの「ソリッド・ステイト・サバイバー②」など作る気はさらさら無かった。

しかし、アルファレコードも、大衆という化け物も、それを期待していた。

そんなNo.1グループが、金銭面・機材・スタジオ代…あらゆる事を許されたさなか、またしても時間という制約[発売日]という重い壁が設定されていた。
発売日は、1981年3月21日だった。

逆に、決まっていた条件はそれだけだった。
大々的に「ニューアルバム」広告が打たれる中、アルバムは何1つ出来上がってなどいなかった。

レコード盤のカッティング作業・ジャケット・歌詞カードの制作・ミックスダウンから逆算をしたスケジュールを考えても、とてつもない短期日程で創らざるを得なかった。

スケジュール・大衆・レコード会社・・・・・・・・四方八方からのプレッシャーと枠をはめられた中でのニューアルバム制作。
すべては時間という限られた枠との勝負。
そのものが、緊迫したアルバム「BGM」の重要な側面を形づくったのだと、今、完成後を振り返ると言える。

「スケジュールという枠」から、まず細野さんは、A面・B面共に4分30秒×4曲+5分20秒×1曲という全10曲構成で行く事を設定する。

そして、幸宏・坂本にはそれぞれ「こういった感じの曲を・・・」と、プロデューサーとしての概略説明をする。

「何をしてもいい・何をしても許される」そんな有り得ない状況の中、各々は各々のテーマを持ちながら、試行錯誤・暗中模索の中、「新しいYMO」の音楽に向かっていく。

時間が無く、更には3人は他の仕事まで抱えていた為、とりあえずリズム自体までも分解・あらゆる素材を分解しながら、パーツ毎に創り、それにコードを重ねたりしていったり行きつ戻りつ作業を進める。

と同時に、それまでクリス・モスデルに任せていた詞を排し、それぞれが日本語で歌詞を書き、それをピーター・バラカンが本人の意向を聞きつつ、仮に途中までしか出来ていないトラックをカセットテープに落とし、スタジオの外で英語に置き換え、また本人に見せてメロディに乗るセリフを選び・確認をしつつ、詞を仕上げて行く。

*最終的に、歌詞カードを印刷する時間が無くなって、レコードには歌詞カードはついていない。
結果的に、名写真集「OMIYAGE」(=YMOエイジに愛を込めて)に歌詞は収まった。

***

曲の方もある程度出来て来ると、それぞれのノリにあった長さがあってしかるべきものだが、それを4分30秒立つと自動的にカットするという荒っぽい手法を用いる。

その後「幸宏エンディング」とも言われるようになった、唐突なカットによる曲のエンディング。

詞と曲を同時進行させながら、短時間で、彼らはもがきながら「新しいYMO」の音をさぐっていく。

僕は、その後の「テクノデリック」を愛しながらも、実はまったく違う状況下で、方向も定まらぬまま、悩み・あらがう姿がそのまま荒削りな状態で放り出された「BGM」に対する個人的な思い入れがある。
時間との勝負の結果、ある限界日時を持って「スパン!」と作業打ち切り、そのままアルバム加工に進んで行ったこのアルバムの過激さ!



細野さんは、レコードのオビに「近くで聴くとキケン」「老人・幼児は注意」と書いたが、何度聴いても違って聞こえる不思議なアルバム「BGM」。

***

アルバムタイトル「BGM」とは、日本国じゅうどこに行ってもYMOが聞こえていた社会現象を「まるで、YMOはBGMみたいなもんだな、。」とバカにした音楽評論家【実名は挙げないが】への「皮肉」である。

当時の「BGM」とは、当時の喫茶店でかかっているような(今の有線放送では無い)イージー・リスニングや有名な曲をたらたらとした温和な(今で言うスーパーでかかっているような)カバーした音楽を差していた。

「おまえらがBGMというなら、こういう過激な音もBGMと呼んでみろ!」という細野さんの反論だった。



これは、「BGM」のA面1曲目、幸宏の持つロマンティシズムが開花した、矢野顕子が「YMOの中で一番好きな曲」という「バレエ」。

A面2曲目は、掲載はしないが、あの1981年初頭の悩む坂本龍一のあるがままの心情を叩き付けるかのような「音楽の計画」。
この痛みを持った詩と歌には、自分は今でも込み上げてくるものを感じる。

この1981年3月時点で、イギリス・ヨーロッパにも、このような音楽は無かった。(腐れインケツ野郎のバカ国家、=アメリカは論外)
僕は、アルバム「BGM」はこの時点での、あらゆる意味での革命的アルバムだったと思っている。
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夏のフェイバリッツ⑥ おかわりシスターズ 「心はシーズンオフ」'84

2010-07-08 23:41:26 | 音楽帳
今回は、ヒジョーに恥ずかしい内容であるが、自分は、右翼男子校のアウシュビッツのような巣鴨学園での高校の3年間~素浪人としての痴呆ボートピープル生活を2年間と、極道的世界を抜けてきたので、「女性」はどれだけ愛こがれた存在だったか知れないが、その抑圧は計り知れない。

大先生のみうらじゅん博士は「人生は、いかに童貞をこじらせるかが重要だ。」という名言を吐き、それに賛同した伊集院光先生と、「童貞」を「POP」にしていこうという事で「DT」と呼び、それに関する本を出版なされておられる。

まさに、その「DT」をこじらせたのは、このかたちんばも同様だったので、みうら兄貴の名言は、ある意味、オトコの真意を突いている。

***

過去にも何度か話しているが、そういう自分が、1984年(高校3年生)~1985年にかけて、毎週土曜日、夜中から朝方までの「オールナイトフジ」のブラウン管の向こう側の「彼女」たちと一緒に、隠れてのんだタバコと安いウイスキーは、自分の青春には、忘れえぬ記憶として刻まれている。

***

今日は、午後から東京ビッグサイトに行って、雑貨や小物を見て周り、2万なんぼかの自費で、仕事の商材も含め、様々なアクセサリーグッズを購入して、汗をかきかき、イナカモンが「千葉でずにーらんど」に行った帰り道みたいにして、大荷物を抱えてやっとこさ22:30帰宅した。

今日は、それほど湿気を感じない晴れ間の1日だった。

そういう陽気もあって、帰ったら、ついまた、遠き想い出に浸るように、おかわりの「心はシーズンオフ」を聴きたくなったという訳です。



現代2010において、エロについてもマスゴミにおいても、素人とプロの区別境目が付かないボーダーレス(80年代終わり頃の古い表現だなあ・・・・)な状況下、理解されないだろうが、この80年代において、サブカルチャー[シロウト]側が、メインカルチャーを浸蝕していく段階の、とある断面が、この「オールナイトフジ」~「夕やけニャンニャン」なのである。

かつても同じ事を言ったが「時代を共にして寝たオンナ」というのは、いつになっても忘れえぬ存在なのだ。
たとえ四半世紀たとうが、恥ずかしき1人の「DT」の深き想い出に変わりは無いのである。

まぶしかったナツが恋しい。
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写真日和 「青山の脇道を入れば、またお花」

2010-07-08 06:33:54 | 写真日和


通りすがりのにゃんこさん
情報満載のコメントありがとうございます。
逆にいろいろ教えて欲しい事だらけなので、またちゃんと整理してコメント入れますね。

***

昨夜は、2本目のビールを開けて、パンツ1枚で横になってうちわであおいでいるうち、ラジオも付けっぱなし・灯かりもつけっぱなし・・・・
そのまま、眠りに落ちていました。

明け方、ラジオから吉田拓郎が流れていたので、起きた。

5時に起きたら、もう外は晴れの光に満たされていて、再度寝ると、起きる自信がなかったので、エポさんのバラードを聴きながら、だるいカラダで起きています。

室長から「眠剤を減らした方が良い」と言われて、リフレックス15mm1錠飲んだだけだったが、眠りには落ちたものの、ラジオで「睡眠学習」したせいで、寝た気がしない。

お風呂に入って、早く仕事場に行って、ちゃっちゃと仕事済ませて、午後は、ビッグサイトか国際フォーラムの展示会に行こうと思う。

***

7月4日(自分の誕生日だが)「フラン・フラン 青山店」で買い物を済ませた後、脇道にそれて、細道にある雑貨屋さんに立ち寄りながら散策。

東京の街というのは、脇道にこそ、お宝が潜んでいる。
下町で生まれ育ったかたちんばは、音楽・アート・本・・・全てにおいてメイン・ストリートには興味が無い。
「キラー通り」なんて名称をアルバムに付けるサザン・オール・スターズなどは、もっとも憎むべく対象でしかない。
道の真ん中を堂々と歩いている奴ほど、うさん臭く・信用ならない奴は居ない。

多感な中学~高校生時代にサブカルチャーから生命力をもらった自分には、メイン・カルチャーには、一切興味が無い。

***

この写真のお花、まるで造花のようなほど出来すぎた可愛さ・美しさだけども、本当のナマのお花です。
お花には、癒されます。
今度、花図鑑の本を買おうかなあ・・・・。
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