こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

The Smiths 「Heaven Knows I'm Miserable Now」'84.05

2010-11-21 14:59:37 | 音楽帳
友人も少ない孤独な文学青年だったモリッシーとギターを愛するジョニー・マーとの出会い。
それは運命的な出会いだった。



孤独な蒼い顔をした文学青年の描く詞に、マーがメロディーを載せた瞬間に「ザ・スミス」というユニットはスタートした。

それは、楽器を全く出来ないモリッシーの天にも昇るような出会いであり、自分の中に内包された精神を外に向かってドライヴさせることが出来る唯一無二の「友」との出会いだった。

そして、このモリッシー&ジョニー・マーの突撃が始まった。

***

そんな勢いのある中の1曲が、このシングル「Heaven Knows I'm Miserable Now(=僕が今悲惨なのは神様だけが知っている)」である。


【シングル・ジャケット】

「なんでこんなくだらない連中の為に、この僕の貴重な時間(人生)をささげなきゃいけないんだ!」と繰り返されるモリッシーの詞と、つややかで伸びのある輝きあるマーのギター。
イギリス社会の労働者階級の代弁者だったモリッシーは、その労働者の嘆きを詞に載せて、マーがくれたメロディーに載せて歌う。
多くの労働者階級の人々に支持されてチャートを昇った輝かしい名曲を、僕は未だに愛している。



スミスの闘いは続き、マーの支援を受けながら、モリッシーの描く詞も加速度を増して攻撃的になって行ったが、この後、2人の間に亀裂が走る。

というよりも、マーの方がスミスから離れて、もっと広い他のミュージシャンとの交流の方に行ってしまう。

自分をドライヴさせてくれる、唯一無二の「友」が去っていく悲しみをモリッシーは抱きながら、マー抜きでも活動を続けようとしたが、もはや絶頂期のスミスには戻れず、スミスは解散する事になる。

***

マー抜きで完成させた最後の1987年オリジナル・アルバム「Strangeways Here We Come」には、「Last Night I Dreamt That Somebody Loved Me」という曲が収められている。



「昨日の夜、誰かが僕を愛してくれた夢を見たんだ。」というこの曲。
ハネのもげたかたちんばの自分に、唯一ハネを付けて空に飛ばしてくれたジョニー・マーという、偉大な「友」の存在。

自分の下に二度と戻ってくれることは無いという中、それでも、マーがまた自分も下に戻って、自分を愛してくれるという夢を抱かざるを得ないモリッシーの嘆きが、この重い曲に語られている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電車の中にて

2010-11-19 21:07:58 | 雑記帳
最近、電車の中で化粧をする女が減った気がするのは気のせいだろうか?
まあ自分の乗る都内中心に向かう電車だけの事で、他のローカル電車じゃまだ「流行ってる」のだろうが。

「通勤」が意味ない無駄な時間だから、本・携帯・音楽・動画などに夢中になるのは充分に納得行く所だが、どれだけ混んでいるさなかでも、平気で化粧出来る女性に『女は強いなあ』と思ったものだが。

最近は、他人に見せびらかす意味も含めて「iーpad」を小脇に抱え・いじくる男が居たが、それも一段落したようだ。

圧倒的に多くて邪魔なのがゲーマーである。
一体何と戦っているのかわからんが、混んでようが両手でガシガシミサイルでも打ちまくっているのだろうが、周囲にも目もくれず違う世界に逝ってしまっている。

自分は凝り性で、昔一人暮らしの友人宅に泊まった際、一晩ゲームをやらせてもらったら朝までやってしまった。
そこで「自分がゲーム買ったらハマるな」と悟り、一切ゲームに近づかないようにした。
あれから数十年、全くゲームに触れずに時間を過ごす事が出来た。
車内でゲームしたい人の気持ちは解かるが、自らやりたいとは思わない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

The Smiths 「The Queen Is Dead」'86 ~さくりんさんへ捧ぐ~

2010-11-18 18:32:34 | 想い出かたちんば


2年目の素浪人の頃、カフカの「変身」のように家族に追い詰められ・精神的に寄る辺無き身で追放されかけた中、精神分裂症的な症状を呈し自殺未遂してから、自分は、已む無くクスリを飲み始めた。
「クスリでココロの絡まりが直ってたまるか」というかたくなな姿勢を持ちながらも、クスリを服用すると、全身のチカラが抜けていくのを感じた。
弛緩剤が投与されていたのだった。

それは、1986年末の事だった。

***

こないだ、風邪気味で行った、私が敬意を抱く、仕事場の近くの個人開業医の先生は言う。
先生は内科なのに、熱意あり、精神まですっきりさせる・対話で共に考えながら症状を解決していくという手法を取った、稀なる赤ひげ先生。

『かたちんばさん、いいですか。
日本において精神医学の歴史というのは、かたちんばさんもご存知だと思うけど、隔離したり・座敷牢に押し込んだりという暗い過去を引きずっています。
その背景は、実は今も消えていなんですよ。

僕は、医者という仕事をしながらも、果たして「医者」というのが、生活の糧を得る為の「仕事」なんだろうか・・・?とも思うんです。

うまく言えないんだけど・・・。

主流である西洋医学というのは、クスリを用います。
でも、精神医学においてのクスリというのは、当人の為、というよりも、周囲への迷惑から、周囲からその人の活動性を落として被害を最小限に落とす為に使われるケースが多いんですよ。

だから、かたちんばさんの服用しているクスリも見るとモノにも拠りますが、直すというより活動の枠をせばめる・個人のチカラにフタをするといった具合のものも混じっています。

僕はお互いが向き合い、意思を持ち・対話を通じて、このクスリはこう効くから、こんなバイオリズムの時に使って下さいね、というやりとりあってこそ、クスリは治癒に向けて効果を発揮すると思うんですが・・・(今の医者はクスリだけ出しゃいいんだろという人が多い事を言いたいのだろう)・・・。

かたちんばさんの通う、その順天堂の医師が、良い出会いであるといいですね・・・。』

そう言われた。染み入るようなコトバの数々だった。

***

話は脱線したが、1986年末、僕の80年代のリアルタイムの音楽を追いかける生活は終わりを遂げた。

そのとき、MTVに、クラフトワークの「ミュージック・ノン-ストップ」、そしてランDMCの「ウォーク・ディス・ウェイ」という曲が流れていて、偉大なるクラフトワークはともかく、後者の曲に「自分が音楽に熱中した80年代の全ては終わったな・・・」と認識したのを覚えている。

その後、ふらふらになりながら、大学に行く為の受験というより、ただ必死に座席に座っているだけで、部屋の周囲が迫ってくる幻覚と戦いながら、テキトーに回答の紙に書き、休み時間には、その場を去りたい精神を何とか食い止めながら、ほとんど「受験」とは呼べないまま・・・。

全て落ちると思っていたはずが、不思議なもので1校だけ、何かの間違いか?合格通知が来たのである。
それが、東京経済大学であり、そのとき、監督官をしていた人が絵の好きな大学の職員の人で、後に自分の入った美術研究会という倶楽部の顧問で出会うことになるという不思議。

そして、美術研究会の勧誘で初めて会ったのが、MZ師だったのだ。
1987年4月の事だった。

こうして大学の4年間のモラトリアム時代が始まったが、音楽を熱心に聴く事も、音楽雑誌を買う事にも関心が無くなり、ひたすらこもって絵ばかりを描いていた。

***

そんな音楽と縁切りをしたかのような中、次第にシーン無き音楽界自体が混迷を深め、接点が持てなくなっていったが、そんなとき、大学2年で私の前に登場したのが、ハブ噛み師匠だった。
ギターをよく美術研究会の部室で引いていた。

不思議な彼とはすぐ友人になり、よくオリジナル・カセットを作ってくれた。
彼自身がギター好きという事もあり、「自分にとって、ザ・スミスは、=ジョニー・マーだ」といい、よくスミスの隠れた名曲等々を入れてくれた。

スミス自体は、1986年にバンドとして崩壊したが、自分は、初期の「What Difference Does It Make ?」「Heaven Knows I'm Miserable Now」「William, It Was Really Nothing」「How Soon Is Now ?」が大好きで、高校生の頃、土曜の深夜・ラジオ日本の『全英TOP20』で知り、休みになるとそれらの曲をイーノと共によく聴いていた・・・・。



3枚目のアルバム「The Queen Is Dead」をリアルタイムで熱心に聴いたのは、唯一タイトル曲の「The Queen Is Dead」だけだった。
このスミス解散後、大学に入ってから、ハブ噛み師匠にカセットをもらい聴いたのが初めてだった。
スミスは、イギリス国内の社会を理解していないと、音楽そのもので語れない側面があるが、彼らが必死にその中で闘っていた事は、音を通して理解出来た。

また、当時、突出していたデレク・ジャーマンのMTVが、そのスミスの訴えの過激さを加速させていた。

http://www.youtube.com/watch?v=Wz5IFl7uCis

大学時代というと、音楽よりも、デレク・ジャーマン、アンドレイ・タルコフスキー(「ノスタルジア」など)、ニーチェの実話を元に描かれた3人での共同生活を映像化した「ルー・サロメ 善悪の彼岸」(時代の女優だったドミニク・サンダが出演)、「ブリキの太鼓」、ジャン=ジャック・ベネックスの「ディーヴァ」、その他ヨーロッパの重苦しい雰囲気・発狂・退廃をテーマにしたものなど、映画や映像作家の創る世界の方に、時間を使っていたと思う。

別段、それが好きとか嫌いとかいうものではなく、ただ大学3年の1989年に昭和天皇が亡くなり、同年東西冷戦崩壊したように「何も無い無味乾燥な時代」の虚無感に包まれ、そういうものを見ていただけのことであるが。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピロリの秋'83-⑦ Seona Dancing 『Bitter Heart』

2010-11-17 19:13:25 | 音楽帳


80年代には優れた「デュオ」バンドが多くありました。
ヤズー、ユーリズミックスに始まり、ティアーズ・フォー・フィアーズ、ロータス・イーターズ、ネイキッド・アイズ、ブラマンジュ、(バックが数人居ましたが)チャイナ・クライシス……。

ショーナ・ダンシングも「デュオ」ですが、残念ながら自分はこの曲しか知りません。



ヴォーカルがワイルドになる部分は、声質がゼイン・グリフに似ていると感じます。

この1983年秋~冬、イギリスのリアルタイムのホカホカに香る新しい曲たちを僕らに届けてくれたのは、写真家でイギリスと日本を往復していたトシ矢嶋さんだった。

毎週火曜日の深夜1~3時に聴いていた「高橋幸宏のオールナイトニッポン」では、トシさんがロンドンから送ってくれる新着レコードに「今週のベスト5」を付けて紹介してくれていた。
ショーナ・ダンシング「ビター・ハート」もそんな中の1曲でした。

***

近時、YMO時代を振り返る細野さんや幸宏の話の中で、よくトシ矢嶋さんがロンドンから最新の曲を集めたカセットを定期的に送ってきてくれて、それが自分らに及ぼした影響がとても強かったという話しを聞いて「へぇえ~」と思ったものです。

当時は『洋楽』と呼んでいたように、海の向こう、特に、イギリスの情報がなかなかリアルタイムでは入りにくく、そこには、間を繋ぎ紹介してくれるコーディネーターのような役割のような人が必要でした。
それが、レコード買い付けに行く輸入盤ショップの人だったり、こういった日本・イギリス双方にパイプを持った仕事の方だったり、或いは「"音楽評論家""稼業"(?)の方・・・」だったりしました。

トシさんの紹介してくれる新しい曲、ミュージシャンやロンドンの流行を伝える海外電話での話しを、当時は耳をそばだてて聴いたものでした。

YMOの中期名盤『BGM』『テクノデリック』には、このトシ矢嶋さんのカセットに納められた曲たちが、細野さんや幸宏を大いに刺激していた背景は、YMOファンとしては大事な記録です。

当然、ピーター・バラカンさんも、YMOの海外向けスポークスマンとして、日本と海外の情報受け渡し役・YMOを陰で支えたもう1人の重要人物であった事も付け加えねばならない事実です。

***

一方、鈴木慶一・坂本龍一・立花ハジメといった人たちは、輸入レコードショップ『パイドパイパーハウス』の常連で、みんな最先端のレコードを買い、店頭の長門さんが「ハジメちゃん、さっきこのレコード買ってったよ」という話に刺激されて、教授も負けじと同じレコードを買ったりと・・・このお店を巡って、少年同志のような音楽情報収集合戦が繰り広げられていたのも思い出すところです。

教授は、「サウンドストリート」に鈴木慶一&さえ子ちゃん夫婦['83年当時]がゲストに来た時、
「・・・そうやって色々なレコード買うんだけど、どんどん仕事に圧倒的に時間を削られて行って、買ったは良いもののなかなか聴けず、絶望的に溜まる一方なんだよね。
誰それが良いと言っていたというのが発火点にならないと中々聴かないんだよ。」と言っていたのを思い出しました。

【CDをたんまり買いながら、聴ききれない状況は、今の自分がそうです。自分の時間というのは大事ですね。】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう11月も半ば、師走まで半月(・_・)?

2010-11-16 08:48:58 | 雑記帳
早いもので、後半月で師走。

今年は、1月帯状疱疹が右頭~目の周りにお岩さんになって出て神経ブロック注射に始まり/3月末ライバル会社倒産という『有事』によるピンチの日々/春の苦しい大便秘による腸から胃手前までの内視鏡検査/毎年恒例の7月誕生日の『形だけの健康診断』など当てにならず/10月にこの1年半の過労が押し寄せ、ついにだるさで朝固まって立てなくなり/順天堂でγGTP=470を弾き出し、お袋さん・仲間同僚に支えられながら、禁酒16日目・活動抑制された今に至ります。



病魔に取り付かれた1年でしたが、ガン・入院等決定打とならなかったのは、昨年天国に召されたまみちゃんが自分の心の中に居て助けてくれたのかもしれない。
…などと勝手に思っている。
師走には、またお墓参りで会いに行きたい。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピロリの秋'83-⑥ Kajagoogoo 「Hang On Now」

2010-11-15 21:05:00 | 音楽帳


80年代のニューウェイヴ/エレクトロニック・ポップの中で、カジャグーグーの「TooShy」「HangOnNow」は、自分が聴いた回数の多さでは、トンプソンツインズ、ネイキッドアイズなどと並んで大事な曲だった。
この日本盤シングルジャケットには、雑誌『ミュージックライフ』の大好きな、クイーン・ジャパン・デュランデュラン…といったミュージシャンを「アイドル」視する流れの中に納め「売り」にしようとする意図が見えるが、そんな外見でなく曲自体が好きだった。



彼等の輝きは、星のまたたき程短く、デビューアルバムが大ヒットしているさなか、ヴォーカルのリマールが脱退独立してしまう。
その後、バンドはリマール抜きで活動続け(シングル「BigApple」等の12インチも持ってマス)最終的にバンド名を「カジャ」と変更し頑張ったが自然消滅していった。
だが、この1983年秋~冬、カジャグーグーが一番輝いていた時のこの曲が未だに好きなのです…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ultravox 「Alles klar」'81

2010-11-13 21:08:59 | 音楽帳
ウルトラヴォックスの音楽に頭を一撃されたのは、1981年のサントリーウィスキーのCMでかかった「ニュー・ヨーロピアンズ」であった。

こういう経験をお持ちの同世代人は多いと思う。

ミッジ・ユーロの弾くギターのカッコよさ+聴いた事の無いヨーロピアンな香り高きロマンティシズムをたたえたこの曲に、胸を鷲づかみにされた。

その後、10月に発売された、第2期ミッジ・ユーロ主導のセカンドアルバム「エデンの嵐」を聴きまくった。



そろそろ、自分の生涯の100枚を選ぶとしたら、必ずこの「エデンの嵐」は入る。
15歳の少年の時に聴いたこのアルバムは、自分の意識の深いところまで入り込んでいて、今更紹介するまでも無く、自分の中では、第2期ミッジ・ユーロ主導のウルトラヴォックスの最高作品なのだった。

世間ではファーストアルバムの「ヴィエナ」を挙げる人は多く居るが、自分は、あくまで個人的にセカンドアルバム「エデンの嵐」への思い入れが強烈にある。
どの曲をとってもすばらしく、トータル・コンセプト・アルバムとして完成された姿をしている。

***

今日も、平日にはゆっくり聴くヒマが無いので、朝~いろんな音楽を聴いていた。

ソヴィエト・フランス、ドーム、ザ・サウンド、スリッツ、ソフト・セル、、、、、。

しかし、結局たどり着いたらウルトラヴォックスを30年経っても「カッコええなああ~」と感嘆をもらしながら聴いていた。

今日、紹介する「アレス・クレア」というのは、1982年2月1日に日本だけでの編集アルバム『新欧州人』というものに納められた曲である。



☆アルバム『新欧州人』
A面
1.The Voice
2.I Never Wanted To Begin
3.Path & Angels
4.Passionate Reply
5.All Stood Still (live)

B面
1.Private Lives (live)
2.Herr X
3.Alles Klar ★
4.Waiting
5.New Europeans

この『新欧州人』は、当時、貧乏学生だった中学3年生の自分がとにかく色んな音楽が聴きたいがために、初めて神保町で発見した貸しレコード屋さん「ジャニス」で借りて、カセット・テープに落としたものだった。

高校受験から中学卒業に向けた最後の冬を思い出す。

とても寒い冬だったが、いとおしい冬だった事・・・・。

ホテルニュージャパンが燃える中、赤坂見附を降り、麹町中学校という「管理主義」と教師の「コトバと力での暴力の渦」の中に通い、すっかり精神を病んでしまっていた、自分にとって辛い時期だった。

それゆえに、その頃聴いた曲たちは、今でも自分の中で輝いている。

三島由紀夫も言う通り、不幸な時ほど、幸福感が背中合わせにあるという不思議。
この曲を聴くと、そんな冬を思い出す。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憂国の情に突き上げられて映像公開した海上保安官の正義に花束を

2010-11-11 22:34:43 | 雑記帳
今回のYOUTUBEへ尖閣事件の「現実の映像」を公開した一件は、今後の主導メディアがネット側に既に移っており、間もなく逆転する事実の「亀裂断面」をあらわにした、と私は素直に思った。
もはや風前のともしびの「朝日等反日新聞&地上波TVの旧態依然・末期ガンマスゴミ」が情報操作・大衆扇動してきた事実をあらわにし、ネット世界の方が正なる事実を伝え、民意を反映している事を国内に示した事実はデカイ。
かつてTVが、録画放送から生放送へ移ろった如く、メディアはスピード感を指向する。
もはや、内容改ざんして輪転機を回す新聞・事前の恣意的判断の上(といえど中身は下請丸投げ)放送する地上波TVは、事実をリアルタイムにありのまま伝えるネットには負けるのみ。
判断するのは個人個人である。
今回の一件でマスゴミ隠蔽を突破した海上保安官の行動は、怒れる正しい日本人の憂国の念の結実の姿だ。
事実を歪曲する連中を名指しで公開処刑する日は近い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピロリの秋'83-⑤ Ian Mcculloch「September Song」

2010-11-11 14:25:49 | 音楽帳


なぜ、11月11日にもなって「セプテンバー・ソング」なんじゃい!
と思われるでしょうが。。。。

この曲は、実は、1983年の秋には聴けていませんでした。

2000年以降かな?
7インチのシングルレコードを集めだして、神保町界隈で発見した輸入盤のレコードだったのですが、A面・B面共に「秋らしく」気に入ってしまって、それ以来、秋になると聴く音源です。

そもそも、1983年といえば、エコー&ザ・バニーメンは「ポーキュパイン」の頃で、硬派バリバリの頃だったイメージが強かったのですが、いつの間にやら、その年にこんなシングルをお忍びでイアン・マカロクが出していたなんで知らなんだです。

日本の9月といえば、すっかり残暑で「秋」などとは無縁な世界になってしまいましたが、曲名が何であれ自分の中での「秋」のイメージを満たす、ジャケット写真と穏やかな音のゆったりしたスウィング感がたまらなく好きです。



一方、B面に納められた「Cockles And Mussels」は、何だかまるでロシアの労働者の歌みたいなフォークロアの味があって、こちらもなかなかいろどりのある曲。



シングルの裏面で、当時のイアン・マカロク特有の立てた黒髪に黒いコートで、秋の道を去っていく後ろ姿が絶妙なかっこよさを漂わせる。

自分の中の、イギリスの秋のイメージはまさにこういうものを指すといったプロトタイプのようなシングル盤です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真日和 : 暑くなったり、寒くなったり

2010-11-09 17:40:16 | 写真日和


今日は、ひさびさに仕事でつくばに行った。

天気は雲1つ無い晴れではあったが、朝早くの出発で、心身ふらふらの自分にはキツい朝だった。
なおかつ「寒い」とまでは思わなかったが、かなり気温の低い朝だった。
自分は、根本的に暑がりであり、未だに、夏用の黒スーツだが、それでも汗をかく。

人は、そういう自分を「更年期障害」と呼ぶ。
女性だけのものと思っていたが、ウィキペディアにも、40代男性もなることが書いてあり「そういうもんなんだ。」と妙に納得。

***

しかし、この陽気も、昼ともなると、太陽がカンカン照りで、暑い暑いっ・・・・。
そんな中を、歩いて電車の駅まで行く途中、花がキレイなので、1ショット撮影。

暑いんだか・寒いんだか・・・ニンゲンばかりではなく、植物たちも迷っていることだろう。



元来のだるさもありますが、朝早くからつくばで会議し、終えて、再度都内に戻ると、ダルダルになってきて、眠いでござる。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする