こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年6月17日 火曜日 かたちんば・夏の100曲 ~ガーランド・ジェフリーズ「フィデリティ」'82~

2014-06-17 23:36:30 | 音楽帳

アタマぐるぐる色んなことが回るけれどもまとまりえない。そういった事実が”はたらく”平日の夜。

離れ小島への帰路電車に乗れば、珍しく座れた。。。と思って、メモ帳とペンを取り出す。
しかし、書きかけのメモに眼をやると、全然視えない。
ペンの先さえ視えない。
一体、どういうことだ?と思いつつ、メモ帳を近付けたり・遠ざけたりしながら、何とか焦点が合う位置を探す。

ローガンズ(老眼)なのか?疲れ眼なのか?と言えば両方。
そんな具合で、ハタから見たら志村けんさんの演じる様のようかもしれない。
そうしていると、芝居の中のように、とある駅でふとっちょおじさんが乗ってきて、空いたとなりの席にどっかんと座る。
いきなり窮屈になる。車両内は空いているのに。

それだけならまだしも、おじさんは酔っ払っていて眠り始めて、こちらに体重を掛けてくる。
参ったなあ、と思いつつ、メモ帳を位置変えしながらペンを走らせる。
次第に、あたりは一気に酒くさくなる。
「おじさん、まだ火曜日。しかも、泥酔するには早い、たかだか9時10時だよ。」と声を掛けたい気分になる。

半分アナログな自分は、日々メモ帳にくだらないメモをするが、平日は容易にまとまり得ず、帰宅すると途端に「ああ~疲れた」とどっかとしてしまって、せいぜいは夕食作りと植物への水やりで精一杯である。
当方には巨体を維持出来るチカラが無いので、一週間に費やす配分を無意識にしている。

帰宅して、今年”初”のせんぷうきを回す。
音楽を掛けながらうろうろ。カセット・本・LPをがさがさひっくり返すが、やっぱりまとまり得ない。

今日は、朝のラジオどおり、雲がかぶった一日だったが、気温は高かった。
空を雲が覆うと陽射しのきつさはやわらぐが、フタをかぶせたようになって、湿度が高いムシムシした陽気になる。

外はまだ良い風が吹いているが、風通し悪い室内は暑い。

***

今夜紹介したい夏の一曲は、ガーランド・ジェフリーズの1982年アルバム『ガッツ・フォー・ラヴ』に収録された愛曲「フィデリティ」。

■Garland Jeffreys 「Fidelity」1982■
当時、渋谷陽一さんがサウンドストリートの新譜紹介の中でかけてくれた曲。
それを収めたカセットテープは見つからず、最近はあきらめも早い。
しかし、それにしても、この曲さえアップされたYOUTUBEの怖さ。デジタルで聴けるとは思いもしなかった。

LPレコードは持っていないが、空を突き抜けるような軽快なメロディと歌声が美しい一曲です。

今朝、朝顔が咲いた。
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2014年6月16日 月曜日 かたちんば・夏の100曲 ~バナナラマ「シャイ・ボーイ」'83~

2014-06-16 22:53:54 | 音楽帳

【今年の初ひまわり】
東京は「梅雨」と言いながら、土曜・日曜とカラッとした晴天、30℃近い温度まで上がった。
まさに「明日は知らねど(トゥモロー・ネヴァー・ノウズ)」という世界。
くもおさんが言うように「6月を7月・夏のおとずれと思えば・・・」。

トランクス一枚の裸族で過ごす日曜日。
家に居るとラップ音がしたり「今、揺れたっ」と思うことがあるが、どこにもそんな地震があった記録はない。
そんなことが、阪神淡路大震災以降、3・11を経由して更に強まったが、昨日もそんな具合だった。

それでも、裸族で寝ると、明け方、いも虫ごろごろ。。。夢か現実か不明な境界線上で揺れているような。。。
結果、今回は震度が付いた記録アリ。何が現実か?不可思議な感触。

今夜、記憶とは実にあいまいだな、と思ったのが、「バナナラマを聴いていたのは1982年の春から夏への流れだった」ということ。
カセットや雑誌をひっくり返すと、ファーストアルバム「Deep Sea Skiving」の国内発売は1983年3月25日。
バナナラマの存在を初めて知ったのは「坂本龍一のサウンドストリート」で紹介されたファン・ボーイ・スリーの曲のバックコーラスだったようにも思う。

2日間だけでも、カラッとした夏日を汗をかきかき体感してしまうと、脳はトロピカルな世界に行ってしまっていた。
今夜も室内より、外の風に吹かれている方が気持ちが良い夜。さわやかな風が吹いている。

■BANANARAMA 「Shy Boy (12Inch mix)」1983■
バナナラマはイギリスの女性3人組。3人とも当時ちょうど20歳のおねえさん。
「女性だから」というだけで許してしまう余地は確かにあるが、当時はそうとは思ってもいなかった。
女性コーラスということでは、他にいくらでも素晴らしき世界があったとしても、ニューウェイヴの内のりの中では「一服の清涼剤」だった。
後に、DISCO~CLUBで掛かる曲「ヴィーナス」など、このファーストアルバムでは想定もせず、シングルカットされた「シャイ・ボーイ」は特に心地良い一曲で、12インチまで購入した。

音楽自体は、周囲のエンジニアたちのチカラで成立していたが、今でも夏の曲として味わっている。




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2014年6月15日 日曜日 暮らしの風景 ~梅取りの日~

2014-06-15 14:27:28 | 写真日和

盛岡戻りの疲れは残るが、昨日は実家に”父の日”を理由にして家族集合。
三ノ輪を去ってから30数年育った梅の樹は、毎年多くの実を結ぶ。

兄と義姉が率先して梅の実取りをしてきたが、今年も自分はお手伝い。
例年は蚊に刺されながらの作業だったが、天気のめぐり合わせなのか?今年は全く虫が居ないで、梅の実取りを汗だくにはなりながらも終えられた。

雨が多かったせいかもしれないが、鳥や虫に喰われていないキレイな梅の実が狂ったように成り、過去一番多い豊作となった。
しかし、1000個近くの実が取れたは良いものの、梅干し・梅ジャム・梅酒などにしてもまだ余る。

今年は、初めて少しだけおすそ分けを貰って帰った。
自分で梅干しを作ってみようと思っている。

■細野晴臣 「最後の楽園」(アルバム「パシフィック」より)1978■



兄が高枝ばさみを使い、自分は下で受け取る。こうもり傘を裏返しにしてキャッチする。

日影の湿った場所でかたつむりに出会う。





実家の漬けた何年ものかの梅。

のらくろちゃんは痩せてしまったけれども、食欲は旺盛。
ケンカ早いのらくろは、最近、近くのネコと一戦まみえて、右頭に負傷。
何はともあれ、生きてさえいてくれれば良い。

盛岡みやげは、そのままお酒のおつまみになった。

今年はじめての初スイカ。




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2014年6月14日 土曜日 暮らしの風景 ~島への帰郷~

2014-06-14 11:33:35 | 写真日和

盛岡出張。多くの現地の人に出会い・話し、自然の風景を見たオミヤゲを背負って、我が島への帰路を辿る。
気付かぬうちに、新幹線の席で、不覚にも眠りに堕ちていた。
終着駅・東京で起きれば、疲れが充満していた。

盛岡からはるか遠くの東京駅に降り立つと、途端に”べたっ”とした空気を肌に感じる。
温度は現地と東京ではほとんど変わらないが、山々を抜けてやってくる盛岡の風のさわやかさとは、明らかに湿気が異なる。
怪しい満月の下、雲がもっさもっさと動く13日の金曜日の夜。

去り難かった旅情を残しながらも、それでも東京に着くと、一方では安堵感がある不思議さ。
久方ぶりの肉体労働も伴って、
気を緩めるお酒や薬の力も借りる必要もなく、眠りに堕ちた。
ラジオ「たまむすび」の録音した放送に耳を傾けながら。

2014年6月14日 土曜日
8時過ぎ、鳥たちのざわめきに起きる。スズメたちの会話に混じって、ガァガァと時折カラスが鳴く。
外から室内に差す陽光のギラつき。

身を起こすと筋肉疲労と頭のクラクラ感。
やかんでお湯を沸かし、緑茶を煎れて一服着ける。
今日は静岡のお茶を頂く。

しばらくは、脳の中をたくさんのコトが巡り巡って整理つかぬ。
イーノの「鏡面界」を聴いて、体内速度の補正をしていく。

時間と共に、陽光がきつくなってきたので、ペットボトルに何本もお水を詰めて、せっせと植物たちの元に運ぶ。
今回の旅では、雨が降るだろうと、自動水やり装置を設置しなかった。
植物それぞれにお水を上げていくが、その間にも陽光はかなりのきつさで、肌に差し込んでくる、まるで夏の陽射し。

水やりを終えて、洗濯機をがらがらと回す。
今日は洗濯日和だから、外干しをしてみよう。
時が陽射しの角度を変えると共に、次第に心境も変わっていく。

こんなぎらぎらの陽光の中、木漏れ日のある場所で聴くには格好の1曲を聴きたくなり、CDを掛ける。

■Sade 「Love Is Stronger Than Pride」1988■
シャーデーがデビューした頃のヒット曲「スムース・オペレーター」に、にがにがしい想いをした記憶。
「一体、どこか良いのだろうか?」と、アフター・ニューウェイヴ時代の空虚時代の流れ。

そんな中、とある大学時代の夜。
灯りを消した自室、イスに座ってFM番組「ソニー・サウンド・ビジュアート」(ナビゲーター:鈴木雅之)を録音しながら聴いていた中、流れ出した彼女の「ラヴ・イズ・ストロンガー・ザン・プライド」。
この曲だけは、すぐに好きになった。
「移ろい行く季節のなかで」というテーマに沿った選曲だった。

その後、思いもしなかった大阪で暮らすことなった1991年。
日本橋で初めて購入した、マランツのCDプレイヤー。
プレイヤーの段ボール箱をひもでくくってもらい、重い荷物をえっさおっさと持ち帰る。

帰り道に初めて購入したCDは、スザンヌ・ヴェガの「Solitude Standing」。
そして、梅田の輸入CDショップで購入した2枚目のアルバムが、このシャーデー作品。
それまで無かった方向性の音楽を聴くようになった1枚でもある。





午後、また植物たちの手入れに行くと、ピーマンの赤ちゃんが育っているのを発見する。
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2014年6月9日 月曜日 音楽風景 ~高橋幸宏 「昆虫記」'85~

2014-06-09 23:45:47 | 音楽帳

21:25帰宅。
午後から夜にかけて、カミナリを伴った豪雨が降る可能性がある。
そう朝のラジオのお天気お姉さんは言っていたが、一日さほどの雨ではなかった。
帰り道で買ったお刺身を、冷蔵庫に入れて冷やす。

「梅雨はもうすぐでしょうか?」と言ったら、その日には梅雨に入っていた。
入っていた、と言っても、それを判断したのは気象庁で、自分ではないが。
湿度は高く、帰った室内はじめじめしているので、窓を開け放った。

「なんで近隣の家族者たちが騒ぐ中、遠慮しすぎて、じぶんだけが悪しきカタチの、クワイエットライフを過ごさねばならないんだ」と、当たり前のことに気付いた最近。
昨日は、トーキングヘッズ等を(最低限の配慮をした)音量で鳴らしながら、特に大好きなエイドリアン・ブリューのギターが鳴る曲を、繰り返し繰り返し聴く。
「パオンパオン」と鳴るギターに、騒ぐ者が静まりかえる。

3・11後の「荒川強啓デイキャッチ」(TBSラジオ)に出演された近藤勝重さんが語ったお話しが思い出された。
近藤勝重さんの所属や仕事内容やどうのこうのとは関係なく、自分は近藤さんの語り口と声が大好きである。
(自分はコピペ=万全主義者ではないので、違うかもしれないが)ガンでホスピスに入った奥さんを取材した際に、自宅で送った最後の暮らしで、晴れた日に、他者を気にせずに外に洗濯物を干した時の空気・空・窓から見えた風景に、生きて暮らす喜びを感じたというお話し。
テーマは『幸福とは何か?』だった。

***

帰って、お皿を洗う。冷たくて気持ち良い冷水で。
最近は、ガスを使った熱い温度のお湯で炊事をしない。

先日、長いこと使っていたテフロン加工(だった)フライパン2つを、燃やせないゴミの日に旅立たせた。
過去はテフロン加工だっただろうが、油を引いて熱くしても、くっついて仕方が無い様だった。

かつて、この東向島に引越のお祝いに来たお袋と義姉が、1991-1996IN大阪で使っていたフライパンを持って帰って、まだ使っている事を笑った。
お袋「フライパンをこんなになってまで使う人はいないよ。いい加減買いなさい。」
近くで義姉がくすくす笑う。
「そんなにヘンなことかいな?」と自分は思った。

【8・9歳の頃描いた「おしゃべりゆわかし」。今まで描いた中でも、あくまで個人的に特に好きな絵。】

季節が温度上昇する時期だからもあるが、お湯も油も使わない(使えない)制限令は、むしろ心地良い。

お米一合を水にひたす。
昨日5kgのお米を買ったが、最近は北海道の「きらら」というお米が好きで定番となっている。
今夜気付いたのだが、無洗米と思って洗わずに食べていたものが、無洗米では無かったことに気付く。
そんな具合で、すっかりボケまくっているのだが、何度か水でゆすいでいるから、別段美味しさに変わりはないのだ。
大したことじゃあない。

***

トランクス一枚になって、うちわであおぎながら、蓄積部屋に行って、カセットの渦をがさがさするが、目的の物にたどり着かないので諦める。
CDの渦の棚から、幸宏のCD「遥かなる想い」を拾い上げて戻る。

CDを聴きながら缶ビールのプルを開けて呑み出し、チラシをファイリングする。
どれだけファイルしても、死んだら引き取り手も無くゴミと化す、としても、ついファイリングしてしまう。
お芝居のチラシ、それに、近所の電気屋さんがポストインする手作りチラシが可愛くてファイルに入れる。
お米が水にひたるのを待ちながら。





俳優の林隆三さんが亡くなった。まだ70歳という早さ。
わたしは熱心な林さんのファンだったわけではないが、ドラマなどを通じて、いつもそこに居てくれる「居てくれて当たり前」の定番役者さんだった。

昨年暮れからひたすら、若いときには思いもしなかった「居てくれて当たり前」の人が、まるで神隠しのように、目の前から消えていく。
わたしの中での沈黙が続く。

林隆三さん=俳優、という意識の一方で、わたしが一番愛していたのは、魂が死にかけていた浪人時代の夜・FM放送のナレーションだった。

十代が終わろうとしていた頃だった。ハタチになろうがなるまいが「もう終わりだ・限界だ。死んだほうが楽だ。」という状態だった。
夜の闇が我が身を覆ってくる幻覚にじりじりと冷や汗をかきながら、眠ることも出来ずに、自室の周囲が迫ってくる中、ラジオから聴こえてくる音にしがみついて、必死に現実否定と夢への滑り込ませをしようとしていた。

FM東京の23時頃、15分番組のナレーションを林隆三さんがしていた。
林さんは、いざ顔無きラジオに出てみれば、こんな良い声のナレーションはないという具合で、同時期に奥田瑛二さん(オートラマ・サウンド・イン・ライフ)も居たが、よく番組を聴き込んでいた。その中に入りこんだ。

自分が録音して未だ保存してあるテープは1本のみだが、そこでは高橋幸宏の新譜「Once A Fool・・・」を巡りつつ、このアルバムに収録された『昆虫記』(詞:吉田美奈子さん・曲:細野さん)のイメージスケッチ。
そのカセットテープを、今夜探して見つからなかったんだ。

YMO含めて、幸宏の曲をバックに、夜の人気のない道で出会い・横に乗り・車で走る、そんな情景描写を男女の語りと共に芝居仕立てにしていた。
夜のハイウェイを疾走する場面。YMOの「階段(Stairs)」。
教授のうねるピアノフレーズが繰り返される。その上に、病的な幸宏の加工されたヴォイスが乗る。

■YMO 「階段(Stairs)」1981■ YMOマニアの砂原良徳さんが一番好きな曲として挙げた一曲。

女「どこ。。。に向かっているの?」
男(林隆三)「もう1つの夜に。」

行くあての無い道の果てで辿り着いた暗闇。
そこは、虫の音が、あたり一面を満たしている。
夏のなごりを残しながら、秋めいていた夜の虫たちのざわめきが聴こえる。

女は、誰も居ないその場所で、ジッポのライターに火をともす。
男は、その明かりが彼女の瞳を浮かび上がらせる様を見つめている。

「カチャン」とライターを閉じる。
その音と共に、虫の音が止まる。

男(独白)「暗くて、キミの顔も見えない。」
女「まーた、真っ暗。
ねぇ。。。
もう1つの夜、って、ここなんじゃない?」



■高橋幸宏 「昆虫記」1985■
あの蒼き刻に、ヘッドフォン内で聞こえていた渋い林さんの声。
いつもは、秋口になると聴くこの曲を、想い出も込めて、今夜に贈る。
亡き魂に合掌す。
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2014年6月8日 日曜日 音楽風景 ~ウルトラヴォックス 「モニュメント」'82~

2014-06-08 22:25:24 | 音楽帳

昨夜に続くが、第二期ウルトラヴォックスが特に好きなのは(何も彼らに限った話しではないが)、エモーショナルでありながらもドラマティックかつロマンティシズムが漂う点とは別に、(インストゥルメンタル曲に顕著だが)ローマの建造物のような構成配置によって音が創られている点だろうか。

音の後ろにカチッカチッとした骨格が透けて見える。
それを象徴するかのようなジャケット等デザイン。
ウルトラヴォックスの音楽は、ヨーロッパの長く深い歴史の重み・退廃的空気を背負っていた。

「何も彼らに限った話しではない」と言ったが、それはデュラン・デュラン&各プロジェクトへも投影されていたり、さまざまな当時のイギリスミュージシャンに言えること。
「構成主義的」というと、ニューオーダーがジョイ・ディヴィジョン無き後、暗中模索の中、新しいバンドの音を発見していったプロセスだが、彼らの背後には特に大きなヨーロッパの影を感じない。

むしろ自分の意識は、デヴィッド・ボウイが「ロウ」「ヒーローズ」をイーノと創っていた頃、彼が好きで聴いていたのがタンジェリン・ドリームなどだった、という事の方に繋がる。

そういった類のウルトラヴォックスの曲を上げるならば、「ミスターX」「モニュメント」「アレス・クレア」など。
未だにたまらなく好きである。
この辺は、ウルトラヴォックスの「パッショネート・リプライ」に惹かれて創ったYMOの「CUE」との相関関係も、1981年時点でのウルトラヴォックスの存在価値の大きさを反映している。

■Ultravox 「Monument」1982■
「モニュメント」は、「エデンの嵐」(1981)の次の作品「カルテット」(1982)制作に伴うシングルのB面曲だが、えらく素晴らしい。「カルテット」の後、日本向け編集盤ミニアルバム「ヒム」に収録されたもの。あくまで個人的名曲。

***

時代の趨勢と、我が身の衰えから、ついアンビエントに・・・と傾いてはきたが、実の自分の好物としての本筋は、こういった曲にあるようにも思う。
これを言うと「ならば、ドイツのエレクトロを聴くべきだよ」と言う人も居るだろうが、その手の音楽を指してはいない。

こういったウルトラヴォックス的楽曲がなかなか無いので、ほかのものをツマミ食いしているうちに、いろいろと知見は広まったが、やっぱり好きで好きで仕方が無い曲に戻りたい、という心境。それが最近ある。

その起点は、細野さんが自らの原点(小さい頃聴いていた音楽)に戻っていったことに影響を受けている。
しかし、それが意味するのは(あくまで私個人の内面的問題だが)「もう後が無い」と感じるゆえのこと。
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2014年6月8日 日曜日 暮らしの風景 ~村祭り~

2014-06-08 12:30:42 | 雑記帳

寝ぼけまなこで、9時過ぎに目覚めると、大地のような原始的音が聴こえてくる。
昨日、梅雨の大雨に足止め喰らって、一日じゅう室内に居て窓も開けられず、すぐれない心身状態に居た。

今朝は雨も小休止。
そんな中、空気を入れ替える意味もあって、窓を開けると祭りばやしが聴こえてくる。
笛と太鼓の音。

『む~らの鎮守の神さまの~、今日~はたのしい、お祭り日~、どんどんひゃららら~・どんひゃらら~、朝から聴こえる笛太鼓~・・・』
ついYMO散会アルバム「サーヴィス」で、小倉久寛さんが歌う声が脳裡に。。。

■YMO  「Service(1983)」より 「村祭り」(スーパー・エキセントリック・シアター)■
昨日今日は、この島の守り神・白鬚(しらひげ)神社の祭りの時節。
かつて寺島町だったこの地は、隅田川の氾濫・水害に遭って亡くなった方などへの祈り・祖先と家族の無事を祈って、地元の人たちは白鬚神社に集まる。

白鬚神社は毎週のよたよた小旅の終わりに寄っては、一休みし、手を合わせる。
6月の終りには、半年無事であったことと、それからの夏越(なごし)の祓えが行われる。

東京にも、こんな穏やかな優しい地が残っている。
露地に入ると、地面に白墨で自由に絵を描いたり、鬼ごっこ、縄跳び、木登り、そんな姿をする可愛い子供たちに出会ったりする。
もはや失った風景かと思っている中、まるでそれは自分が幼少の頃当たり前だった風景そのままで、タイムトリップしてしまったのか?という幻に襲われる。

***

人が集まる「人ごみ」だらけの「人工的に作られた」地域の、大規模祭りに行く元気は、今の自分には既に無い。どうにもこうにも苦手だ。
むしろ回避したいという風に、行動する。

千葉でずにーらんどに行くのと並列で捉える、楽しければ何でも良い、という思想の人びと。
そんな出生場所も判らない・根無し平成家族とは相容れないので、そういう一部の家族は適当にあしらうことにしている。

しかし、開けた窓からお囃子が聴こえてくるのは良い感じ。

そんな中、お湯を沸かしてお茶を煎れて頂き、「おお、10時になったな」とTBSラジオをひねる。
「安住紳一郎の日曜天国」が始まる。

昔・不思議ちゃんだった時代の釈由美子に似た雰囲気を持つ、ほんわかした中澤有美子さんとのやりとり。
良いコンビの2人、そして周囲のスタッフさんたちが楽しく番組作りをしている様が浮かぶ。

最近の「たまむすび」の楽しさも含めて、ラジオの楽しさを改めて味わっている日々。
やっぱり自分の根っこは、ラジオ人間なんだな、と思う。

***

金曜日から絶えることなく、時に強く、ひたすら降り続けた雨。
安住さんの番組冒頭のお話しでは、東京の年間降水量がおおよそ1,500mmのところ、この3日間だけで300~400mmの雨が降ったらしい。

この数日の雨で心配だったのは、近所ののらねこさんたち、それに、育てている植物たち。
しかし、植物たちは朝顔以外は、持っているチカラで「えっこらえっこら」と頑張っていた。
「ええっ?」と驚くような様で、ぐんぐんと葉を大きくさせて巨大化。
プランターからはみ出すような勢い。

ゴーヤくん

きゅうりくん
(実はうどん粉病にかかってしまい、栄養剤や薄めたお酢で葉っぱを拭いたりして看病しても元気が無かったのだが、復活の兆し)


一歩リードしていたピーマンくんは、葉の大きなみんなに囲まれてしまった

「かあさん」にもらった不断草は、この3日で倍増

このままではまずいので、今日もこの後、園芸店に行って道具を買い、夕方から植え替えと、ツル植物のための支柱作りをしようと考えている。

「安住紳一郎の日曜天国」では、安住さんが「来週からワールドカップサッカーが始まるけれど、来週も普通に番組をやる」が、誰が聞いてくれるのだろうか?と日曜天国らしいお話しの振り方をしつつ、みんなの笑いを誘う。
来週は、みうらじゅん兄貴がゲストとのことで、聞かねば。。。

山積みにしていた雑誌類を整理したら、サウンドールもカビが生えだしたので、風が入る日の差す場所に出した。
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2014年6月7日 土曜日 音楽風景 ~ウルトラヴォックス 「ラメント」'84~

2014-06-07 20:52:34 | 想い出かたちんば

ミッジ・ユーロが率いていた(第2期)ウルトラヴォックスが、ニューウェイヴの流れの変化と共に下降線に入ったラインで発表された作品「ラメント」。
1984年作品。

そこには、コニー・プランクとベルリンの壁際で創られた圧倒的作品「エデンの嵐」のヴォルテージは無い。
「エデンの嵐」からたかだか3年程度の後のことなのに。

主観的思い入れとしての「エデンの嵐」が、生涯の100枚に入る作品、という感情が、そこには大いに作用していた。
時代は、インダストリアルと、もう一方では、アコースティックなナマ音へと向かっていた。

当時クロスオーバーイレブンでも掛かった「マン・オブ・トゥー・ワールド」「ハート・オブ・ザ・カントリー」は、それまでの音像には無い方向のたそがれの感覚。
それは、瞬時落胆だったが、その後聴き込めば、新しい彼らの音であり、この2曲は愛していた/いる。

■Ultravox 「Man Of Two Worlds」1984■
他には、シングルカット曲も含めて如何にもウルトラヴォックスらしい曲が収録されていたが、この作品に至るまでに、既に創られた音の撫で返しであって、自分には響かなかった。
当時、メロディメーカーとして稀有な才能を持ったミッジ・ユーロならば、その程度のことはお茶の子さいさい。。。と、高い期待・要求を抱き過ぎていたのだろう。

ロッキンオンのアルバムレビューで、「ラメント」が担当盤となった渋谷陽一さんは、こんな風なことを言っていた。
本当は、彼らは新しい音楽を発明したバンドなのに、音楽には特許というものが無いので、フォロワーを含めて、後から来た新しい音楽家によって淘汰されてしまう。

それは、テクノ/ニューウェイヴのミュージシャンの宿命とも言えるのだが、割りに合わない商売領域だな、と。

確かに、ある程度骨格のベースがある分野では、そういうことは起きないのだが、ゲイリー・ニューマン始め、多くの音楽家に当てはまる事実だった。
しかし、だからと言って、「より新しく・より遠くへ」と向けて鍛錬していた・意志を持つ音楽家をけがされたような気分になってしまい、渋谷さんの発言に不快感をあらわにした記憶がある。

それを言っちゃあおしめえよ、と思った。
と同時に、「ロック」という用語が化石化した80年代には、アウェイな戦いだった中で、「ロッキンオン」をビジネスの軌道に乗せねば、という編集長の顔が覗ける発言でもあった。

■Ultravox 「Heart Of The Country」1984■

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2014年6月5日 木曜日 暮らしの風景 ~梅雨はもうすぐでしょうか?~

2014-06-05 19:51:09 | 雑記帳

【今朝、ゴーヤくんの花が咲く】
昨夜は、とあるきっかけで愉しい一席。
しかし、一日の1/4酒を酌み交わしてしまったせいで、カラダを崩してしまった。

今日はしんどい朝に始まり、午後、近くて遠い旅先に出向き、打ち合わせ。
次第に睡魔に襲われると共に、カーッと体の内側から来る暑さと危ない汗が出始め、意識がもうろうとしてくる。
「それなりのことはしましたよ」と仏様に言って、早々に帰路を辿る。
おなかも調子悪く、何度も痛くなってはトイレ通いをしていた。

肝臓関連の血の値のみは戻ったここ1年だが、単なる値などは目安に過ぎず、一回打撃を受けたものが元には戻りはしない。
「おまえは、酒をたらふく呑める身分じゃあねえんだぞ」と自分をいましめはするが、だからとゼロ酒に戻すつもりも無い。
要はバランス・適当ささえあれば良いんだ、と思っている。

そんな今日は、ネガテイヴなことばかりか?
となるが、そのようなことでも無い。

まずは一旦30℃越えの暑さが去り、雨がちゃんと降る6月らしい温度の日であったこと。
朝、仕事をしながら、インターFMを聴いているとピーター・バラカンさんはウェザーリポートを選曲。
ピーターさんの声と(定期的に刻むドラムの無い)ジャジーな音は、二日酔いの朝にはとても優しく・心地良い朝だった。

気分が悪くても吐くことが絶対出来ない自分のカラダ。
それを一番知っているのは、本人のみ。
水分摂取と栄養でしのぐ方法でしか、そのような状態を治癒させることは出来ない。
出先で食べた、温かいおそばがおいしかった今日。

それでも調子悪い中帰る道で、暮らしに必要な資材物資を買わないと。。。と途中降りる。
統計学上、独身は妻帯者より短命という話があるが、誰も頼む相手が居ないから全部自分でやることで疲れが出ることは事実である。

だが、傘をさして店から店へと伝う中で、店先にまどろんだ・気まぐれネコさんが毎度のように居てくれた。

さわると伝わる体温と呼吸に安堵する。尻尾をポンポンとしながら、何かを言っている。
お地蔵さんの顔も好きだが、ネコが目をつむった表情は、何とも言い得ないものをこちら側に与えてくれる。

手馴れた陰鬱は、角度さえ変えればコロッと変わる。
有事下での切迫した時間以外は、幸も不幸も、たいした事実でないことだったりするのが往々なんだろう。

■ウェザーリポート 「お前のしるし(A Remark You Made)」1977■
高校時代にクロスオーバーイレブンでエアチェックしたテープ。
そこに収まったこの曲は、未だに忘れられない解放区で鳴る。
鳥ではない自分にもハネが生えて、宙を舞うことが可能な一曲。
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2014年6月2日 月曜日 音楽風景 ~備忘録:「エスノ」時代とその後~

2014-06-02 22:41:29 | 音楽帳

「エスノ」という用語。それを盛んに使い出したのは1982年だった、ということを、この休みに雑誌をめくりつつ想い出す。
既に、トーキングヘッズの「リメイン・ライト」(1980年)も、そのプロトタイプであったイーノとの「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」(1981年・使用した音源の個人情報・権利関係で発表遅れてしまい、前後逆発表)という歴史的2枚は発売後のこと。

【トーキングヘッズのベーシスト、ティナ・ウェイマス】
その源流にはパンク・スカ等一連の事件があり、エスニック・他民族の音楽を取り込み融合させることは、とうの昔に始まっていたのであった。
ジョン・ライドンの「ロックで無ければ何でもいい」という発言に表現されている通り、多様な音の融合が展開されていた。

クラッシュ、というと、つい「怒れる・体制側への抵抗」的イメージに言われるが、実際の作品にはレゲエ、ダブ、カリブの音が入り、曲によってさまざまな色調を出していた。
(それは、相当後にポール・ウェラーが結成したスタイルカウンシルと、自分の中ではかぶる部分がある。)



■アンディ・パートリッジ 「Shore Leave Ornithology (Another 1950)」(From「Take Away」1980)■

1982年「エスノ」と盛んに言葉として出したのは音楽雑誌であり・おっしゃれーと思い込んでいたスノッブたちが読むようなサブカルチャー雑誌だったり。。。
(今、みうらじゅんさんが「サブカル」という使い方をしているものは、元々在った「サブカルチャー」とは意味合いが異なり、かなりズレた概念である。)

【アンディ・パートリッジ】
後に筑紫哲也が「新人類」とユビ差した、中森明夫、野々村文宏といった類の連中が使うようなイメージが「エスノ」という言葉には、どうも付きまとっていた。
要は、音楽そのものよりも「エスノ」と書いたり・言ったりしたかったのだろう、という連中の顔が浮かんでしまう。
(湯村輝彦さんなどが言うならば、しっくり来るけれど。)

【「へたうま」時代の湯村さんイラスト】
確かに1982年という年は、それまでつちかってきたモノたちが不思議な融合をし、ポップな形で浮かび上がった年だった。
ニューウェイヴ花盛りで、素晴らしいアルバムだらけの年だった。
和歌山県のみかんだらけの道みたいに、オレンジ色に染まり、そこいらじゅうにジューシーな果実が、難なく手の届くところにあるような幻覚じみた年。

音そのものがそれまでにはあり得ない、そんな革新的音楽が産まれ続ける、といった過激な場所からポップな地点へ。
それらは電子楽器そのものの発展を無視は出来ず、というか同時並行的に進む。

その後、1983年のアート・オブ・ノイズを経由して、機械音で埋め尽くす方面と、その外側へ「NO」と移動する方向とに分岐していく。
そうして(自分の体感としては)1986年に、それらは全て終わってしまう。
何がどうのこうの、という差異無き後の世界が、自分にとっての1987年以降となる。

***

「ボーダーレス」という用語が盛んに使われたのは、80年代終盤だったと思う。
「まっさか~、そんなものは架空の未来のこと」と思っていたFM放送の多局化は、あっさりと1988年「J-WAVE」の登場を契機に実現してしまう。
1989年には「ワールドミュージック」となる、曖昧模糊と「なんでもアリ」な霧の真っ只中、つまらない音楽ばかりが「中心なる場所」で紹介されていた。

上記「エスノ」が、原始的な音そのものの回路を探る、果敢なるミュージシャンたちの格闘の断片として、キズ跡をのちの時代に残した一方で、「ボーダーレス」も「ワールドミュージック」も、主体的な関わりの中で産まれたものではなかった。

『周囲が私を攻めてくる(かのような状況)・体内に侵入してくる(かのような状況)』(それは1986年自分が見た幻覚に似て)という受動的な様相のつまらない時代を表現していた。
それは、その後、グローバル時代と呼ばれたものと同一だが、「ボーダーレス」と言えるだけ、まだマシだったかもしれない。
何せ、まだ「ボーダー」=境目がわずかでも存在しえたから、「ボーダーレス」と言えたのだから。
80年代の終わりにアンビエントの新しい解釈と、それまで在った構造を変更した事態は、ここでは別として。
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