2012年度(一橋大学)
次の文章を読んで後の問いに答えなさい。
先日、「外国語教育と異文化理解」というテーマでのシンポジウムで、「目標文化」というあまりなじみのない言葉を聞いた。「目標文化」というのは、私たちがある外国語を学ぶとき、その学習を通じてめざす文化のことである。フランス語を学ぶ場合、フランス語は「目標言語」、フランス文化は「目標文化」と呼ばれる。
という説明を聞いたとき、何か強い違和感を覚えた。発生者は「目標文化に到達するためには、目標言語による教育が必須である」というネイティブの教師が強く主張する教育観を取り上げて、それに対する疑念を語っていた。
私もそれに頷(うなず)いた。苦い経験があるからである。二十年ほど前、ある語学学校で、フランスのテレビの「お笑い番組」のビデオを見せられて、早口のギャグの聞き取りを命じられた。私がその課題を拒否して、「私はこのような聞き取り能力の習得には関心がない」と告げたところ、教師は激怒して、「市井のフランス人が現に話しているコロキアル(注:口語的)な言葉理解できない人間はフランス文化について理解できないだろう」と述べた。彼女の予言は正しかったことが後にわかるのだけれど、そのとき私がこのフランス人教師と意見が対立したのは、私と彼女が「フランス文化とはこういうものだ」と思い込んでいたのが同じではなかったからである。
私がフランス語の習得を志したのは、六〇年代の知的なイノベーション(注;刷新)の過半がフランス語話者によってなされているように見えたからである。サルトル、カミュ、レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、バルト、デリダ、レヴィナスたちの仕事はこの時期に集中しており、彼らの最新の知見にアクセスするためにフランス語運用能力は必須だと思われた。私はこの「知的饗宴(きょうえん)」を欲望してフランス語を学び始めたのであって、市井のフランス人に特段興味があったわけではない(今もない)。
だから、目標文化は、必ずしもある国語を母語とする人たちの「国民文化」を意味しない。例えば、聖書の原典はヘブライ語やアラム語やコイネー(注:現代ギリシャ語の祖)で書かれているが、それらを母語とする話者たちはもう存在しない。だからといって、聖書を生み出した文化について真の理解に達することはもはや誰にもできないと主張する人はいない。誰もそれを母語としない言語にも固有の文化というものがありうる。
私は実は今の世界における英語というものが「誰もそれを母語としない言語」ではないかと思っている。それは英語が国際共有語、リンガ・フランカ(注:共通語)だという意味ではない。国際共通語というのは「いかなる国民文化からも自立した、中立的なコミュニケーション・ツール」というふうに定義されるのだろうが、英語はそうではない。英語話者たちもまたある文化の「種族の文化」をめざしてはいるのである。ただ、その「種族」は近代国家的な枠組みでの国民国家ではないということである。
「英語ができる人」がアメリカ文化やイギリス文化やカナダ文化やニュージーランド文化について造詣(ぞうけい)が深いということはない。大学の英文学科に進学する高校生たちが書く志望理由のほとんどは「英語を生かした職業に就きたい」というものである。彼らは卒業後に例えば香港の航空会社やドバイのホテルに就職する。中国文化やアラビア文化やアラビア半島の文化に興味があってそうしたと言う人はいないだろう。
少し似た状況が六〇-七〇年代にもあった。この時期、理系で履修者が一番多かった第二外国語は意外なことにロシア語である。それは一九五〇-六〇年代にソ連が宇宙開発や原子力工学でアメリカをしばしば凌駕(りょうが)していたという科学史的事実を映し出している。そののち、ご案内の通り、ソ連崩壊とともに、ロシア語を選ぶ学生は潮を引くようにいなくなった。理系の学生をロシア語に惹きつけたのは、ロシア語運用能力が彼らにもたらすであろう学術上の、あるいは生活上の「利便性」、にべもない言い方をすれば「利益」であったから、その保証がなくなれば、ロシア語を習得する動機は消失する。一方、チェーホフやドフトエフスキーを読むために露文に進む学生たちのロシア語学習動機は、東西冷戦構造や宇宙開発競争とはかかわりがない。
私たちに言えるのは、どの外国語を学習するかということと、学習者がどのような目標文化を標的にしているかということの間には一意的には相関はないということである。
私自身はまず英語と漢文を学び、それからフランス語を学び、少しだけヘブライ語を齧(かじ)った。どれも中途半端に終わったが、それらの外国語を習得しようと決意して辞書や教則本を買い込んだときの浮き立つような気分は今でも忘れない。私の場合、それはいつも同じ気分だった。「今の自分でしか思考できない、表現できない、対話できない」という息苦しさから離脱することを期待したのである。私はどこか他の種族の文化を血肉化したかったのではない。種族の文化そのものから離脱したかったのである。「こことは違う場所、今とは違う時間、私とは別の人」に出会うことを切望していたのである。フランスの知識人たちの「知的饗宴」を欲望したのは、それが母語的現実から隔たること最も遠いものに思えたからである。
その後、私が母語的現実から少しでも身を引き剥(は)がすことができたかどうか、わからない。わかるのは、私が母語を含めてあらゆる言語の「不器用な遣い手」になってしまったということだけである。
___内田樹『目標文化を持たない言語』
問い 上の文章を要約しなさい(二〇〇字以内)。
★寝ぼけ要約(※全文入力した夜に目が覚め、スマホに目もしたもの)
言語を学ぶ際に到達したい目標文化という言葉があるが、違和感がある。それはネイティブの文化とは限らないからである。外国の言語の習得は人の求める利益により、決まるものである。筆者の場合、自分の日常と異なる思考を知るためである。
★本文を消去、省略をしてみた
(題名は『目標文化を持たない言語』であることを意識する)
「外国語教育と異文化理解」「目標文化」外国語を学ぶとき、その学習を通じてめざす文化。
強い違和感を覚えた。
私たちに言えるのは、どの外国語を学習するかということと、学習者がどのような目標文化を標的にしているかということの間には一意的には相関はないということである。
他の種族の文化を血肉化したかったのではない。種族の文化そのものから離脱したかったのである。「こことは違う場所、今とは違う時間、私とは別の人」に出会うことを切望していたのである。母語的現実から隔たること最も遠いものに思えたからである。
【短い解答例】
外国語を学ぶ際にその学習を通して到達すべき文化である目標文化という言葉があるが、違和感がある。なぜなら言語を学ぶ理由はネイティブによる文化という一意的なものであるとは限らない、多様な理由があるからである。外国の言語の習得は人の求める利益により、決まるものである。筆者の場合、自分の日常と異なる文化、思考を知るためである。
★解答例
【上の要約に肉付けをしたもの】
外国語を学ぶ際にその学習を通して到達すべきネイティブの文化を表す「目標文化」という言葉があるが、その目標文化という言葉に筆者は違和感を覚えた。なぜなら他言語を学ぶ理由はネイティブによる文化の習得という一意的なものであるとは限らず、人によって多様な理由があるからである。そもそも現存する近代国家と無関係なネイティブのいない言語もある。つまり、外国の言語の習得はその人が求める知的関心や就職、最新の知見などの利益により決まるものであり、「目標文化」とは関係がないことがあるのである。筆者の場合、自らが学ぶ言語を血肉化するためでなく、自分の母語の日常、現実と異なる文化、思考を知るためである。
多様 一意の反対語
ネイティブのいない言語・・・作者がこだわっている言語の例を抽象化
近代国家と無関係・・・注に「現代ギリシャ語の祖」とあるから「近代国家と無関係」
「目標文化を持たない言語」という題名に注意