旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

エフェソス、セルチュクへ日帰り観光

2012-11-22 14:11:34 | トルコ
イズミール連泊の中日で、比較的ゆっくり見学できる一日。エーゲ海を見晴らす高層ホテルの夜明け。
朝食にはこんな蜂蜜も
昨夜到着した空港方面への道で、あらためて巨大なアタチュルク像を見る。


エフェソス遺跡から少し離れた山の中に「聖母マリアの家」がある。息子イエス亡き後、弟子のヨハネが彼女とともにここに住んだとされる。

19世紀末、トルコへなど一度も来たこともないドイツの神秘家(現地の説明版表記による。今回のガイドさんは尼さんと説明していた)カタリナ・エムリックが、ここで生活している聖母の幻を見て、その言葉のとおり探すと、山の中に朽ち果てた家の跡が見つかった。

1891年の考古学調査によると、その時発見されたのは7世紀の建物の残骸で、その建物の下には4世紀と1世紀の建物の跡があると分かったそうだ。現在の建物は1951年建造の礼拝堂である。

近くにあるプールのような穴は洗礼用のものだろう。水が通っていたパイプのあとがはっきりわかる。
**
山を下りてエフェソス遺跡へ。団体バスがいっぱい。ネコちゃんもいっぱい。
エフェソスは新約聖書に出てくる「エペソ」の街そのものだ。黙示録にもその名前が出てくる。古代の大都市だったことはそこを歩くとはっきり認識できる。百年以上もオーストリア隊が発掘しているが、これでもまだ半分ほどだとか。

ローマ皇帝を記念した泉の記念碑の一角に、エフェソス建国神話に出てくるイノシシがみてとれる。
アテネの王子アンドクロスが、デルフィで「魚とイノシシの場所に街を作れ」という神託を受けて旅に出る。この地で焚火をしているときに鍋から飛び出した魚が茂みに落ち、そこから驚いたイノシシが走り出た。これにより、神託の場所はここだと理解して街をつくったとされる。

***
昼食のレストランにいたワンちゃん。日本なら家犬なんでしょうけど、トルコでは犬はやっぱり屋外で元気にとびまわるのが健全。

使徒ヨハネの教会を出たところで、古い小さなモスクをみかけた。入口のアーチが元教会の雰囲気を感じさせるのだけれど、実際どうだったのだろう。

イズミールのホテルへ戻り、夕食前に共和国広場まで散歩。エーゲ海に夕日が沈んでゆく。
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イズミール到着

2012-11-22 13:38:57 | トルコ
トルコ航空にてイスタンブル経由イズミールへ。トルコ航空の映画システムは、外国系エアラインにしては、日本語で楽しめる本数が比較的充実していると言ってよい。こういう機械操作が苦手、という方も多くいらっしゃいまするが・・・
入国して、両替して、国内線ターミナルへ移動。スーツケースは自動的に乗り継ぐかたちに近年かわったのでずいぶん楽になった。

国内線ターミナルの店には生活用品がたくさんならんでいる。イスタンブルで電気製品をかって田舎にもどるひとも多いということだろうか。


地中海沿いのトルコ第三の街イズミールまで一時間ほど。それでもこんなサンドイッチが出される。
まだまだぎりぎりの省力化競争ははじまっていないのだ。この路線で飲み物が有料になる時代が、いつ、やってくるのか・・・。

イズミールの空港へ来たのはひさしぶりだ。海沿いのホテルへ移動する間に、見たこともない巨大なアタチュルク像が見えてきた。夜にライトアップして少々コワイぐらい。
そういえば、今日11月10日はアタチュルクさんの命日だった。

彼が亡くなった午前9時5分には、全国民が歩みを止めて黙とうを捧げるのだそうだ。
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イスタンブル宝箱~エユップ・スルタン・モスク、ロティのカフェ、リュステム・パシャ・モスク

2012-10-07 12:55:39 | トルコ
イスタンブルは何日見ても見終わるということがない。
朝一番で素晴らしいモザイクの残る旧ホーラ(コーラ)教会へ。
こちらにしっかり書きました。

金角湾の奥に、イスラム教徒にとって重要な巡礼地になっているエユップ・スルタン・モスクがある。

イスラム教徒がはじめてコンスタンチノープルを攻めたのは西暦674年。ムハンマド(マホメット)の友人で弟子であったエユップはその遠征で亡くなった。エユップはアラビア語で「アイユーブ」。彼のフルネームはアブー・アイユーブ・アル・アンサーリー。「アブー・アイユーブ」は旧約聖書に出てくる「ヨブの父」という意味。※アル・アンサーリーは「助ける者」という意味があるようだ。

彼がコンスタンチノープルの包囲戦にやってきたときに八十歳を超えていた。それでも遠征軍には加わり、病に倒れ、最後にこういった「出来うる限り敵陣に攻め入り、私の遺骸はコンスタンチノープルの城壁の下に葬れ」。

彼の墓は、1453年にコンスタンチノープルを陥落させる直前のメフメット二世が礼拝した場所から偶然に発見され、それ以来ここはイスラム教徒にとってトルコでは一番重要な巡礼場所となっている。
オスマン・トルコ時代、歴代のスルタンは即位にあたってここを訪れ、戴剣式をここで行ってきた。この絵はスレイマン大帝が訪れている図


トルコ人以外でもたくさんのイスラム教徒が訪れる。
下は1957年にカダフィ以前のリビア首長、イドリース一世が訪れた記念パネル。


周辺、金角湾を見下ろす斜面は何百年ものあいだに積もり積もった墓でいっぱいだ。

彼の墓にご利益を求める人々が殺到している。

モスク内部は1980年頃までイスラム教徒しか入ることができなかった。

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ゴンドラで丘の上へあがっていく

19世紀のフランス人士官で小説家だったピエール・ロティがよく訪れたというカフェがある。


トルコ人の服装をして水パイプをふかすロティの写真がかざってあるカフェ内部

天気が良ければテラスも気持ちよさそうだ。


降りてゆくゴンドラからエユップのモスクが見える。

**
昼前にもう一箇所。
スレイマニエ・モスクを見学。かのスレイマン大帝のために建築家シナンが建てた傑作。

しかし、近年の修復はドームの内側装飾を西欧式の遠近法柱にしてしまっていた

午後、こちらもシナンの手がけたシュステム・パシャ・モスクを訪れる。

ここはスパイス・マーケットに近い市場の中に位置している。
路地の階段を上がっていくとタイルの美しい入口。メッカを表すこんな絵柄は、あとからはめ込まれたものだろう。

内部はこんな
市場にはいっぱいの果実スパイス・バザールは実際観光客がたくさんやってくるので日本語のこんな看板もある。「エドちゃん」とは、トルコ人の名前「エルドゥアン」を勝手に日本風にしたものだそうな(笑)

***
アヤ・ソフィアの見学へ。入口のこの支え壁はシナンによる修復。
長年かかっていた内部の修復は終わり、唯一無二の空間がもどってきていた。
1204年にこの街を征服した第四回十字軍を指導したヴェネチアのドージェ、エンリコ・ダンドロの墓石。これは、もともとここにあったものだろうか?それにしてはどうも設置のしかたが不自然に見える。
内部はあまりにも見るべきものが多すぎるので、別の機会に、ぽつぽつと。

近接して18世紀のスルタンたちの廟がいくつかある。このいりぐちのタイルについては
こちらに書きました。


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夕食は旧市街の路地にあるクレタ料理の店へ。前菜があまりに多彩で美味しくて、たべきれません。
こういう料理は日本人も大好き
デザートも
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イスタンブルへ戻る

2012-10-05 22:50:15 | トルコ
朝、チャナッカレを出発しラプセキでヨーロッパ側へ渡るフェリーを待っている。真新しいペガサスの像がある。今のトルコはこういうキッチュなものを作るのが好きらしいなぁペガサスはギリシャ神話において、メドゥーサの切られた首から産まれたとされ、ベレロフォンの乗る動物である。ベレロフォンは怪獣キメラを倒した英雄。キメラが住んでいたのがこの地方ということで置かれているのかしらん。
詳細は知れず、車ごとフェリーに乗る。
イスタンブルまで150キロ程のところ、マルマラ海沿いにテキルダという古い街がある。オスマン・トルコの首都がエディルネだった時代にここが重要港だった。

近年、イスタンブルの港が手狭になり、再びテキルダの港が脚光を浴びているのだそうだ。混み合った港を前に何日も待たされるような状況があるならば、手前の港で接岸して陸路イスタンブルへ運ぶほうが良い品物、あるでしょうね。逆に積み出す物もまた。

昼食は途中のドライブインで。野菜が多くて嬉しい。これだけ豪華にバッフェの昼食が食べられるのです。


海沿いにイスタンブルの城壁。向こう側に見えるのは初日に訪れたビザンチン時代からの「小アヤソフィアモスク」こちらにその時の話を書きました。

ブルーモスクが見えてくる。ここはビザンチン=東ローマ帝国時代の宮殿があった場所。その遺跡の柱がこうして残されている。
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トプカプ宮殿のあった場所も、ビザンチン=東ローマ帝国時代には神殿や宮殿があった。アヤソフィアからその入口へ向かう途上には「アギヤ(聖なる)・イリニ(平和)」と名付けられた元教会が残されている。ここは当初アヤソフィアとつながっていたと言われている。アヤソフィアと違い、モスクに改装されずに現代までオリジナルのかたちをよく留めているといわれ、六世紀当時の黄金の十字架モザイクがあるのだそうだ。だから内部を是非見たかったのだが、今は催し物会場になっていて、博物館として入場することが出来ない。

今日はトルコにおけるオペラ歌手のオーディション大会が行われていた。入口にかかげられた名前レイラ・ゲンジェルはミラノで活躍したトルコ人のソプラノ歌手。2008年に亡くなって、本人の希望で火葬され、遺灰はボスポラス海峡に撒かれたとか。
今晩はその名前を冠して後進を発掘するこうしたコンサートが行われる。イスラム圏であってもイタリアオペラ界で活躍する人材を排出するトルコという国は異例ですね。


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トプカプ宮殿へ入る。
第一の中庭のところに、大きな石の台がありメッカの方向を示すミヒラブがついていた。これさえあれば、おの屋外空間もモスクと呼ばれる場所になるのだそうだ。古代神殿の柱もごろごろしている。
ハーレムはさらに追加料金が必要だが、一見の価値がある。特にそのタイル装飾は素晴らしい。
建築家シナンのつくったモスクによくみられる定番の美しいタイル模様。これと同じものをエディルネのセリミエモスクのミンバルで見た
天井の寄木細工?はアルハンブラ宮殿を思い出させる。
トプカプのいちばん奥の内廷からは海峡が美しく見晴らせる。ここでスルタンたちはゆっくり過ごしたのかしらん。

***
ざくろのジュースを売っていた。チュランパレスの朝食で飲んでみたが、そんなに「おいしい!」ってものではなかったなぁ。
アヤソフィアは明日じっくり見学しよう。

美しいタイルを見ると、そういった文様の飾皿にも興味がわいてくる。これは夜光塗料を一部に使った絵皿。次の写真で電気を消す前と後が見られます。ほほう、こんなふうになるんだ。


ブルーモスクも見学。ここはシナンの弟子がつくったもの。巨大な空間に「象の足」と呼ばれる太い柱が四本立っている。セリミエモスクを見た目には、この柱は空間を分断する邪魔な存在に思えてしまう。

****
ホテルへ戻ってから夕食へ出ようと思っていたが、ドルマバフチェ宮殿手前で異常なほどの交通渋滞に出くわした。
動けなくなった場所からはタクシム広場へあがる地下ケーブルカー乗り場が近かったのでそれに乗る。こういう赤いトークンを切符がわりに買うのである。一回三トルコリラ。
タクシム広場はいつも大勢の人でごったがえしている。
老舗レストラン「ハッジ・ババ」にて夕食の後22時頃にホテルへ到着。部屋のテラスからはライトアップした第一ボスポラス大橋が見えた。
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ガリポリ半島~第一次大戦の激戦地へ

2012-10-04 12:59:05 | トルコ
エディルネを出て一時間ほどでウズンキョプルの橋を通る。
15世紀前半に建設された橋だが、今もって現役でトルコでいちばん長い石橋である。※ここからお読みください。

さらに一時間ほどでガリポリ半島の付け根に到着。湾に浮かぶ通称スプーン島が見える。

ここは軍事演習も行われる無人島。ガリポリ半島の攻防の際にも英国軍が上陸を試みた。
湾を見下ろすカフェでは自家製の蜂蜜を売っていた。


半島を45分ほど走り、ゲリボル(トルコでガリポリをこう呼ぶ)の港へ到着。ここはピリ・レイスという航海者の出身地。1513年という早い時代に南アメリカを含む詳細な地図を作成していたという伝説の人物。この地図はイスタンブルのトプカプ宮殿に収蔵されているそうだが、まだ見たことがない。


港の屋外テーブルで昼食を食べていると、近くの農家から来たのだろうか、魔法使いのおばあさんみたいな彼女はメロンを売りに来た。運転手さんが買って我々にもひとつ食べさせてくれた。
山盛りピスタチオもおいしかった。買っておけばよかったなぁ。

**
いよいよ半島の戦跡をめぐる。
はじめに概要を理解するために記念博物館へ。2005年に訪れた時とはまるきり違う建物と展示なっていて驚かされた。建物自体の形はダーダネルス海峡を守ったトルコ側の船をイメージしている。

ここはトルコの小学生全員が訪れる事を求められている場所。なので、外国人にも大変分かりやすい展示がされている。日本語の解説が聞けるイヤフォンをつけながら、十一の部屋をディスニーランドのシンデレラ城スタイルでまわっていく。途中で3Dのめがねをかけたり、船の上にいるように部屋を揺らしたり、多様な演出がされている。
★ここについては、別のところでもう少し詳しく触れたいとおもいます。

博物館を出て山がちな半島を車でめぐる。それほど大きくもない半島だが現在五十箇所以上の第一次大戦関係の記念碑があるのだそうだ。いつくかを選んで見学。

★負傷したアンザック(オーストラリアとニュージーランド)兵を助けて、敵の陣地まで運んでいったトルコ兵の銅像。


★ローンパイン墓地は1915年8月初旬にこの丘を争奪する戦いで落命したアンザック兵の墓である。


★第57歩兵連隊の記念墓地
1915年2月のイギリス軍上陸から、翌年1月に彼らを撤退させるまで、ほぼ一貫して最前線にあった部隊。
ケマル将軍(後のアタチュルク)というリーダーによって、その勇敢さを発揮し、それゆえ将校25人を含む1817人が命を落とし、この部隊は全滅した。
よって、トルコ陸軍ではいまでも57連隊は欠番であり、存在しない。
この墓地に彼らの遺体が全部葬られているわけではない、中身のないものも多い、彼らの勇敢さをたたえて、当事のスルタンが作らせた記念墓地である。


★ニュージーランド兵の記念碑とアタチュルク像
ガイドさんによると、ニュージーランド側の記念碑はもうひとつ向こうの丘に建てられる予定だったのを間違ってこちらに建てたとのこと。トルコ側の記念碑アタチュルク像ととなりあわせになっている。

この場所は両軍の塹壕が十数メートルの距離で対峙していた、

まさに最前線中の最前線。

塹壕から飛び出して号令を発したアタチュルクは胸に被弾した。
偶然にもその胸には懐中時計があり、命拾いをしたのであったが。

★「アタチュルクが時計を撃たれた場所」↑と書かれている。

急峻な斜面を見下ろすとアンザック部隊が上陸してきた入り江が見える。今はアンザックコーブと呼ばれている。

塩の湖と入り江が地図と同じようにみえた。


★無名トルコ兵士の遺骨
この丘の傍らに写真の様な墓があった。

解説を読んでみると、これは誰か一人の墓ではなく、1950年代からの遺骨収集で発見された名前を特定する事の出来ない兵士の骨を納めてある。

丘を降りて入り江に向かう。

★アタチュルクの演説(十九年後、共和国成立後1934年この地にて)
「この地で命を落とした兵士たちよ、あなた達は今、安らかに友邦の国に眠っています。隣り合わせに眠るジョニー(イギリス・アンザック兵を指す)とメフメット(トルコ兵を指す)の間に何の違いもありません。遠く息子達を戦場へ送り出した母たちよ、涙を拭いてください。あなた達の息子は今我々の胸で安らかに眠っています。この地で命を落とした者は皆、我々の息子なのですから。」

★アンザック入り江
いくつもの記念墓地が明るい地中海にむかっていた。

この中で三基だけが別の方向を向いていたのだが、その話は
こちらからお読みください。
★半島の先端要塞

★トルコ側で最も早く建設された記念塔、半島の先端に建つ

**
見学を終えてアジア側チャナッカレへフェリーを利用する。
ダーダネルス海峡が最も狭くなった場所にはメフメット二世がつくった要塞(写真一番奥左手)、スレイマン大帝がつくった要塞(真ん中)、二十世紀の要塞(写真右近景)が並んでいる。

港から船ごと乗船

対岸チャナッカレに広がる住宅街
チャナッカレの港にいた巨大なおもしろい馬はこちら

今日のホテルはアメリカンスタイルの立派なコリンホテル。
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