旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

プリンス・エドワード島到着

2019-10-22 17:00:00 | カナダ
ノヴァ・スコシア州のピクトー近く、カリブー港より車ごとフェリーに乗る
一時間十五分の快適な船旅

プリンス・エドワード島の赤土と印象的な灯台が見えてくる↓

この島には全部で六十三もの灯台が存在し、そのうち三十五が現役だそうだ。
今は無人だがかつて灯台守の一家が住んでいた場所

**
ノヴァ・スコシアとはちがい、なだらかな耕作された丘が続く島。
島の最高点は152mしかないとドライバーのピエールさんがおしえてくれた。

一時間弱でシャーロットタウンに到着

昨年と同じRoddsを選んだ


**
街のレストラン「マーチャンツ」へ
この旅で二回目のロブスター(^.^)

小松は半分肉とのもりあわせ

パスタも






***
ホテルロッドを選んだのは、ここの朝食メニューも理由のひとつ

↓エッグ・ベネディクト

「昨年なかったメニューはプーティンよ」とウェイトレスさん

ケベックの有名なスナックフード「プーティン」
ボリュームたっぷりすぎます


今回の手配をお願いした現地スタッフの方が顔をだしてくださったので全員にてお写真を

ドライバーにピエールさんをもってきてくださったのはこの旅の成功のいちばんのカギだった。





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ウルフヴィルで夕食を楽しんで一泊、Truroのヴィクトリア公園を散歩してからピクトーへ

2019-10-22 12:00:00 | カナダ
「ヴィクトリアズ・ヒストリック・イン」は、1893年に「アップル・キング」と呼ばれたリンゴで財を成した人物が建てたお屋敷だった↓

クラシックで明るい雰囲気の部屋

ダウンタウンまでもそう遠くない。
この街にはアカディア大学があり、アカディア劇場もある。

だが、今日のレストランはアイルランド系の「パディズ・ブリュパブ」にした

アイルランドの守護聖人パトリックを信仰するアイルランド人のことをパディと通称している。
ロージーはイングランドを象徴するバラを思い出させる。奥さんはイギリス系?

お店特製ビール

お店の車のナンバーも



海鮮モノ、特にホタテはどの料理にもついてきて新鮮で美味


↓ラヴィオリに

↓クラムチャウダーにもたっぷり

今回の旅エリアで注文して出てくるチャウダーは他の地域と全然違うハイ・クオリティです(^.^)
**
翌朝、ヴィクトリアズ・ヒストリック・インでの朝食を楽しんでから出発

ホテルの人に「ウルフヴィルでもう一か所だけ見るならどこ?」と質問すると、街の建設がはじまった港をおしえてくれた。

訪れてみると、こんな人が地図をひろげている

トーマス・ティムズ・ヴェルノン・スミスはこの地域アナポリス・ヴァレーの鉄道計画を推進した人物。
ジェームズ一世(メアリー・スチュワートの息子、エリザベス一世の次の王)から紋章を下賜された名家。
1824年生まれで、1830年に世界初の鉄道がリバプール⇔マンチェスター間を走った時、父と一緒にそれを見ていた。

長じて自分がこの地域ではじめての鉄道を通すことになるというのも、ちょっとしためぐり合わせかも。

1875年にエラ・モード・ロスという人物と結婚している。きのう訪れたロス農場創立家の一人だから、家格的にもつりあっていたのでしょう。

**ウルフヴィルを離れるときには青空がひろがってきた。

この地域はワイナリーが多い↓

天気が良くなってきたからどこか森を歩きたいなと思う。
ドライバーのピエールさんが「弟が昔住んでいたTRUROにきれいなヴィクトリア公園があるよ」
と言ってくれた。よし、何か買ってピクニックランチにしよう↓

あ、ここはお土産でした

近くのガソリンスタンドでサンドイッチを買って、
こういうランチで充分たのしい(^.^)

炎のように紅葉した低木





滝までの道をゆるゆる歩いた





***
スコットランド人移民が最初に降り立った街ピクトーへ寄って


プリンス・エドワード島へのフェリー乗り場に向かう


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グラン・プレは十七世紀カナダの八郎潟か

2019-10-21 16:45:00 | カナダ
※2016年に大潟村を訪れたブログはこちらから

グラン・プレはフランス語で「広大な沃野」の意味↓

この土地は1680年ごろから入植したフランス人先住民三百人ほどが干拓したことでこの名前になった。
日本を出る前にそういう資料は読んでいたが、文字だけではなんのことなのか分からない。

↓現地でこの地図をじっと見ていて、はっと分かった↓

ファンディ湾に面する上部に三日月形をした「ロングアイランド」がもともと存在し、
下の半島本土との間に浅い海が広がっていたのだ。
そこに海水が入ってこないように左右に堤防をつくり、干拓農地にしていったのである。
↑※堤防は黄色い線で描かれている

日本の八郎潟をドライブしている時と同じ景色感がある。酪農の風景も変わらない。

ドライバーのピエールさんに「ダイク(堤防)へつれていってくれ」とリクエストした。
素朴な土盛の堤防がうねうねと続き、海と耕地を隔てていた↓

17世紀末フランス人入植者たちの執念が感じられる場所だ。
いったい、だれが最初にこんなアイデアを言い出したのだろう。
最初は荒唐無稽と相手にされなかったにちがいない。
それでも、親子三代ががんばって五十年後に「広大な沃野」を出現させたフランス人たちはしかし、1755年にイギリスによって追放されてしまったのである。さぞかし無念だっただろう。

こういった堤防は不断の手入れが欠かせない。現代オランダのダイク(堤防)でも常に排水ポンプを稼働させている。
ここグラン・プレで現代までこの堤防が維持できているのは支配者が変わっても干拓地はずっと使われてきたという証拠。

↑ここは現代の堤防工事にちがいない。この近辺では手に入らない大きな石がたくさん積まれている。

前出の地図で、グラン・プレとフォンディ湾を分けるロングアイランドの先端部にやってきた↓

↑干満差が最大十六メートルとされ、二百キロ以上にわたり潮が満ち引きする浅い湾。
17世紀に入植したフランス人たちは、満潮時にも海水が入ってこないように堤防を築き耕地にかえていった。





自然のロングアイランドと堤防で仕切られた内側に広がる耕地には古い木造の教会がぽつんと見えた↓


**
この場所を耕していたフラン人たちが追放される前に住んでいた村跡がある↓

↑十七世紀フランスから「理想郷(ギリシャ語で「アルカディア」)を目指してやってきた人々をアカディアンと呼ぶ。
↑追放された子孫たちが協力して1922年に建設された教会

前に立つ銅像は「エヴァンジェリン」。
1847年にアメリカ人の詩人ロングフェローが書いた、追放されたフランス人たちの悲劇を象徴する物語の主人公。
1755年8月、エヴァンジェリンの結婚式当日に追放令が発布され、式場に踏みこんできたイギリス兵によって二人はばらばらに追放されてしまうのである。

↓この井戸は二十世紀になって発掘され十八世紀当時のモノがたくさんみつかったそうだ

アメリカから来たという双子の若い男性が日本語で声をかけてきた↓
↓子供のころ日本に住んでいてアニメが大好き↓エヴァンジェリンの井戸を見て「犬夜叉」を思い出したそうだ(笑)
彼らはフランスとこのあたりの先住民ミックマック族の血をひいているので、父祖の地を訪れたかったのだという↓

アカディアンの子孫たちは、今も二万人以上がアメリカやカナダの東部に暮らしている。
ニューオリンズのケイジャン料理は、「アカディアン」が伝えたのでこの名前になったのだ。

***
現代のグラン・プレ周辺を見学するには廃線になった線路を自転車で走るのが最適だそうだ↓

ルートにはこんなしっかりした設備が備わっております↓




さて、今晩泊まる隣町のウルフヴィルへ
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ルーネンバーグから「ロス農場博物館」を経由してグラン‐プレへ

2019-10-21 14:00:00 | カナダ
ルーネンバーグの気持ち良い朝散歩を終えて十時半に出発

ノヴァ・スコシアの大西洋側から内陸を抜けて内湾に面したグラン‐プレへ向かう。
青空で気持ち良い山の中の道をゆくと、「ロス農場博物館」の看板が見えたので行ってみることにした。

ぱっと見は普通の農家の直販所だけにみえるが
ここは1816年にウィリアム・ロスが172人の退役軍人と拓いた村。小さな湖をはさんであるニュー・ロスと、二つの集落が今もある。

ウィリアム・ロスは1783年にアイルランド島南西部コークで生まれた軍人。

ヨーロッパのナポレオン戦争の飛び火した1812年からはじまるアメリカ合衆国(フランスに味方していた)との戦争に、イギリス軍の中尉として従軍していた。
妻のメアリーは夫の任地・時に戦地にさえもずっと同行して五人の子供たちを産んだ。
※ウィキだと四人になっているが、いくつかの資料を読んでいくと五人いたようだ
長女は1806年故郷アイルランドのコーク、長男ウィリアム・ヘンリーは1810年にカリブ海のアムステルダム要塞で。
アルメニアやイングランドやここロス農場でも。
いろいろ事情があってもとにかくいっしょに居て苦楽を共にしようという意志が感じられるではないか。

彼らが実際に暮らした築二百年の家が今も残されている↓

当時の入植農家としては格別に立派な家だったのだろう↓ピアノは四人の兵士が二十キロの道のりを担いで持ってきたのだそうだ。

二階建てではあるがここに十三人も住んでいたのだそうだ。
二階の寝室群にあがる急な階段↓扉がついている

賑やかだっただろうなぁ

↓シルクハットの入れ物があるのは、それなりの地位の人だったからだろう

三階・屋根裏に続く階段は天井を押し上げて入るタイプ↓

解説してくれた彼女が焼いたクッキーをいただきます


この農場は今も生きている


↓農機具を当時のスタイルで制作している人も


鍛冶屋さんでは

実際に炉に火をいれて

牛用の蹄鉄をつくっていた


「タクシーがまってるよ」と声をかけられて外に出ると…↓

下の湖までつれていってくれるそうだ

この湖の名前はウィリアム・ロスがハリファックスで世話になっていたジョン・ローソンにちなんでいる

※馬車の動画をこちらに載せました

畑にはビーツが植えられている

ここでつくったチーズ…いや石鹸だった


***
今日のお昼は村のスーパーで買ったサンドイッチにしておこう


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ルーネンバーグの海洋博物館

2019-10-21 12:00:00 | カナダ
カナダの10セント硬貨に描かれているヨット「ブルーノーズ」号は↓


↓1929年にノヴァ・スコシアのここルーネンバーグで進水した漁船兼レース船。
国際レースで宿敵アメリカを何度も破ってカナダ人の誇りであった↓
↓だから、ノヴァ・スコシア州のナンバープレートにもなっている↓

1946年にハイチで難破したが、1963年に「ブルーノーズⅡ」号が建設された↓
↓海洋博物館に係留されている

目のあたりにすると船体にくらべてマストがとても高いと感じる。
ここいっぱいに帆を張って疾走した姿が博物館にはいったところに再現されていた↓

この歴史的な船が、別の港から引く手あまただったにもかかわらずこのルーネンバーグにあるのは幸い。
再建造のパトロンが「この船はここルーネンバーグにあるべきだ」と、一ドルで州政府に販売したことによる。
**
海洋博物館が開いていてよかった↓
↓元は海産物を輸出できる形に加工するための建物だった↓

入るとするぐに水族館になっていて、ロブスターなどもおります↓

先住民と取引する欧米人たちの図↓

↓たばこの習慣はアメリカ先住民からヨーロッパ人に伝わったわけで、先住民の使った精巧なパイプが展示されていた↓

↓先住民ミックマック族の旗が飾られていた↓

係員さんに訊ねたが…「この旗は昨年から展示されているのよね~」ぐらいで詳しいいきさつはあまり知らなかった」

おもしろかったのは塩↓
↓冷蔵システムのなかった時代、海産物を輸出するために最重要なのはそれらを保存する方法。
塩漬けがそれに適していたわけだが、いったい大量の塩はどこから調達されたのか?

↓それを訊ねた係員はにっこりしてちゃんと説明してくれた↓
「フランス人たちが作っていた方法で、カリブ海の島でつくっていたのよ」

新大陸に輸出したあとに、大量の塩をこのルーネンバーグまで持ち帰っていたのである。
後年にはノヴァ・スコシアでも塩が採掘されるようになったそうだが。

**第二次大戦中の展示ではノルウェーの義勇兵の話が目をひいた↓

1753年にプロテスタントのヨーロッパ人を誘致移民させてはじまったこの町には北ドイツ人とノルウェー人がたくさんいた。
ヒトラーがノルウェーを電撃占領すると、祖国解放のためにここから出征したノルウェー人移民何世かがいたのだ。
朝の散歩で彼らの慰霊塔もあった↓

同じ町に住んだドイツ系とノルウェー系の住民たちの間では微妙な空気もながれていたにちがいない。

***再び外の展示
大きな鯨のアゴ部分

↓あれ?ロブスターの罠にしては大きい↓

↓人間の子供用でした(^.^)






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