旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ハバナ旧市街~四つの広場、支倉常長の記念碑

2015-12-09 17:32:16 | キューバ

ハバナ旧市街には四つの広場がある。

 

●アルマス広場には1519年11月16日にその下でハバナの建市を宣言したセイバの木がある。今あるものは三代目だそうな⇒※となりの記念碑や後ろのギリシャ神殿風の建物は、当時まったくなかった。他の街でもそうだが、スペイン人たちが「木の下」で町の建設を宣言する伝統はよくきくこと

この木にむかって左に目を移すと、すぐ横にフエルサ要塞がある。これは16世紀後半に建築開始⇒写真で塔の上に女性の像が乗っているのがみえるだろうか。拡大写真が下↴これがハバナのシンボル「ヒラルディージャ」である。

 

 

モデルは、スペイン本国セビリア大聖堂のヒラルダの塔の上にある風見の像。 セビリアでは町の守護聖女だが、ここハバナでは特定の実在女性がモデルだとされている。その人物とは・・・

 

★インカ帝国を征服したピサロに同行していたエルナンド・デ・ソトは、ピサロが失脚したのちもスペイン王室の後ろ盾を得て、キューバ総督に就任した。さらに現在の北米への探検を続けるにあたって、その妻を総督代理に任命していった。彼女は来る日来る日も海を見て、夫の帰りを待ちわびていた。夫エルナンドは1542年に熱病で客死していたのだったが、彼女にそれを知る術はなかった。

 

この像は有名なハバナのラム酒メーカーのシンボルマークにもなっている⇒

 

アルマス広場に面した宮殿は総督宮殿になっている。ここは要塞がつくられたよりずっと後1791年からの建物中庭にはコロンブスの像 宮殿前の地面は、珍しく木が敷かれている↴これはいったいなぜ?

 

 

総督夫人が「馬車の音がうるさい」と苦情を言ったのにともない、この部分だけが木造に変更されたのであった。

 

広場の中央には第一次独立戦争の英雄カルロス・マヌエル・デ・セスペデスの像彼は19世紀半ばキューバ第一次独立戦争の中心人物。砂糖農園主だったが1868年「自由の国キューバは、奴隷制のキューバ国と両立しうるものではない。それ故に、ここに奴隷制の廃止も宣言する」として、自らの所有した奴隷を解放し、独立戦争をはじめた⇒こちらのページ参照

十年間におよぶ戦いの中で、スペイン側に次男オスカルを捕えられ、「反対行動を止めれば息子の命は助ける」と通告されたが、「彼はもはや私の息子というだけではなく、仲間を裏切ることはできない」と返答し、息子は銃殺された。※後年、第二の結婚でさずかった五男に同じオスカルという名前をつけている。

 

旧市街の道、車止めに使われているのは古い大砲だ⇒

 

●フランチェスコ広場そびえたつ教会・修道院がフランチェスコ派によるものなのでそう名付けられた

 

 

 

ここはかつて海のすぐそばで、荷揚げされた商品が扱われていたのだが、修道院から「うるさくてかなわない」という苦情が国王に届き、時の国王カルロス三世の命により、取引所はとなりのヴィエハ広場へと移されることになったのだった。 今日はなんだか、かわった子がいます⇒さっき、看板でみかけたメキシコをテーマにした犬「シコ」ちゃんの一匹でした

 

ちかくには古い建物を利用した修道院をテーマにしたホテルがあるここのスタッフはみんな修道服を身に着けております。

 

途中の道に、16世紀の水道管の跡が保存されている⇒

 

●ヴィエハ広場 ヴィエハとは「古い」という意味

 

 

青い建物は近年日本の無償援助でつくられたプラネタリウム。開館には宇宙飛行士の毛利さんもこられたそうな。

 

そして、ハバナ大聖堂のある●カテドラル広場

 

もとラ・シェナガ(沼地)広場という名前だったところを、16世紀からの治水工事によって健全化、イエズス会が買い取って1748年から建設されたクリストバル教会。12/9に訪れたのは夜だったので 翌日10日の午後、短い時間だったが昼間にもう一度訪れた近づいてみるとまごうことなきバロック様式。ローマにあるボロミーニ設計の教会を思い出した。

 

左右二つの塔は一見同じように見えるが、よく見ると左側の方が細い。最初は同じ太さで建造されたのが、道が狭くなりすぎるのでとりこわして作り直したのだそうな。

 

ここはかつて、コロンブスの二度目の墓が置かれていた場所。また次回(いつになるかわかりませんが)、ゆっくり見学できるチャンスをがありますように。

 

旧市街の道は、観光ルートをひとつはずれると、廃墟のような建物が多い人々は普通に住んでいるのですがなかなか余裕がないのだろう。

 

 ●支倉常長の像

 

1613年に仙台の伊達正宗の意向を受けてスペインを目指した支倉常長は太平洋を渡り、さらに大西洋を渡る途上でハバナに立ち寄っている。彼が来航した時のハバナはスペインが町を造り始めて百年ほど後。湾を守る要塞二つも完成していた。

 

この像は2001年に仙台育英学園より寄贈され、レセプションが開催されている⇒その時の様子が⇒こちらに掲載されています。 
支倉はここまで11,850㎞の旅をしてきた↴

さらにローマまで8,700㎞の道をゆくことになる⇒
彼の像はローマ近郊チヴィタヴェッキアの港にも建てられている。

すぐちかくには「トルコの父」ケマル・アタチュルクの像があり、トルコ人観光客があつまっていた

*****
●民芸品市場
個人商店が観光客に商品を売る「民芸品市場」は資本主義的な場所。目の前に機関車が
すごい数の店がはいっているが小松には全くアピールしないものばかりだったので、旧市街を少し歩いた。
すぐちかくにある古い教会へ
●サンフランシスコ・デ・パオラ教会

1602年にハバナが疫病に襲われた際、エルミータ・デ・カルバリオ教会があったこの場所に聖フランシス・デ・パオラが現れ、町がすくわれたそうな。
ニコラス・エステベ・ボルゲスという司教が全財産を寄付して同じ場所にフランシスコ・デ・パオラ教会・修道院・病院が建設されたのが1667年。
その教会は1730年に町を襲ったハリケーンで壊れてしまい、1745年に現在見られる教会の建物が完成した。
1907年に教会はクローズし、港の倉庫になっていたのが1946年に修復されている⇒

ハバナ旧市街は、観光で案内される場所を少しはずれると、古びた街並みが放置されいるくずれ落ちたたてものもそのままになっていたりする⇒ 「ちゃんときれいにすればいいのに」と思うけれど、自分の所有物になり続けないモノに対して、人はあまり真剣に手入れをしないものなのかも・・・。

★キューバの不動産事情は、我々資本主義の国で暮らす人びとの想像を超えている。2011年11月10日の政令によりやっと売買が可能になった。個人が二軒目の家を持つことも認められ、売買に伴って4%の税を国に治める。それ以前は「交換」しか認められておらず、価値の差額をお金で補てんすることも法律上禁止にされていた。 アメリカへ移住するキューバ人は政府に家を没収されていたが、やっと家を売ることができるようになったのである。そもそも「不動産業」というものが存在しないも同然なのである。

さぁ、そろそろクラシックカーに乗る時間(^^)/

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ハバナ~鉄道博物館とヘミングウェイ博物館

2015-12-09 14:31:02 | キューバ

ラム酒博物館見学の後、ハバナの旧市街見学へ。

ハバナは人口約二百万。カリブの島々で最大の街。見どころがたくさんあるので数日かけても足りません。

キューバ独立の父ホセ・マルティの家は修復中1853年(日本では黒船来航の年)にこの家で生まれた。文学者なのだが、キューバの独立運動の黎明期に闘争に身を投じて戦死した。国民に影響を与えることになる詩を多く残している。 観光客の我々にも、キューバを代表する歌謡「グァンタナメラ」の歌詞を書いた人物といえば分かりやすいかも。⇒こちらのページにて解説と曲とがあります

ホセ・マルティの家は、旧市街の城壁のすぐ近くにある。これがかつて旧市街をとりまいていた城壁のなごり⇒ そのすぐ外に、これまた2015年現在修復中の立派な建物。これは、ハバナ中央駅だった⇒ 近くには蒸気機関車がたくさん展示というより放置してある⇒ 四ケタもしくは五ケタの最初の番号が「1」は、蒸気機関車。「5」はディーゼルをあらわすのだそうだ。次の桁は馬力。このばあい「3」なので三百馬力となる。最後の二桁が登録番号⇒ この時代の蒸気機関車はほぼすべてアメリカからの輸入品⇒ 2014年現在でもキューバ全土で254台が文化遺産として登録されているが、現役で活躍しているものもけっこうあるそうな。

さきほどの立派な駅舎の後ろ手になるが、最初のハバナ駅の小さな建物が「鉄道博物館」としてオープン・・・していたが、こちらも改修にはいっていた⇒でも、ガイドさんが交渉「人数が少ないし、今は修復作業していないようだから、ちょっと見せてください」と、ガイドさんが交渉して、無料でしばし見学⇒ そして、あ!行く前にテレビの番組で紹介していた、アメリカから輸入された第一号機関車JUNTA(フンタ)号が大事に置かれていた 

***煤煙を吐き出す蒸気機関車は現代ではなかなか受け入れられないかというと、キューバではそうではない。というのは、街中にはほかにも黒い煙を吐き出す火力発電所や⇒ 石油精製施設が⇒ けっこう見られるから。※これについては別に書きます。

****

バスでハバナ旧市街の中心地・アルマス広場へ移動。ここからはじまるのが旧市街のメインストリートであるオビスポ通り↴

ピンク色のがヘミングウェイの定宿だったアンボス・ムンドス。入って一階のバーはこんな雰囲気⇒ 奥のクラシックなエレベーターで最上階のレストランへ上がると開放的なテラスが

今日のお昼はここで バーカウンターには、ラム酒のカクテル・モヒートがずらりとスタンバイ⇒やっぱりこれを注文する人は多いのですね。

このホテルの角部屋511号室がヘミングウェイが毎年滞在していた部屋。今は博物館になっている乗じ開いているわけではない。閉まっていたらホテルのスタッフにお願いする。入場料1兌換ペソを払って入ると、簡単に説明してくれる。 受賞したノーベル文学賞のメダルは東キューバにあるコブレの教会に奉納したとか、第一次対戦で救急車の運転をしていて事故に逢い足を負傷、それ以来座っているのがつらいので、立ってタイプライターをうっていたのだそうだ。このタイプライターを置いたテーブルも、高さを自在に調節できるようになっていた⇒

ヘミングウェイについては、後日、彼が19年間暮らした家に行く事になる。

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ハバナ~ミラマーレ地区からラム酒博物館へ

2015-12-09 13:49:49 | キューバ

ホテルのあるミラマーレ地区から、アルメダーレス川の下をくぐるトンネルを抜けるこのトンネルは1952年完成。革命前にアメリカ(の傀儡政権)時代にはすでにあった。

トンネルを抜けるとハバナのセントラル地区。ここは旧市街と新市街の間ということで「セントラル」と名付けられた。湾曲した海岸のドライブコース。革命前の建物から、ソ連影響下のいかにも社会主義的なビルまで、いろいろ混じっている。ビルの間の瓦屋根の建物は革命以前の豪邸で、十年ほど前まで日本大使館として使われていた⇒ ハバナのランドマーク的なホテルであるナショナル⇒ここはアメリカ大使館のお借上げも入って、昨今なかなか予約がとれない。

ハバナで一番大きな病院の前に、19世紀独立戦争の英雄のひとりアントニオ・マセオの騎馬像

他にもスペインやアメリカの支配に対してたちあがって倒れていった多くの人々の像が目につく。キューバに来て理解したのは、1959年の革命というのは、19世紀以来の愛国者たちの熱望の成果だったということ。 カストロやゲバラはけっして彼らだけでアメリカからの独立を成し遂げたわけではなかったのだ。

ハバナ湾を守る要塞のひとつがみえてきた

かつて海のすぐ近だった場所にラム酒博物館があった

●ラム酒博物館 キューバは一時期砂糖生産だけが経済だったような国だから、サトウキビからつくられるこのラム酒もまた重要な自国生産できる稼ぎ頭だった。

しかし、サトウキビという作物がもともとこの島にあったわけではなく、コロンブスが二回目の航海でカナリア諸島から持ってきたのだと言われている。そのカナリア諸島もまた原産地ではなく、原産地のパプアニューギニアあたりからポルトガルがはるばる持ってきたもの。その地図が博物館にも掲げられている⇒ 外国から持ち込まれた作物が、現代ではその国の代表的な農産物になっている例はけっこう多い。※ニュージーランドのキウィだってもともとは中国から持ち込まれたもので、最初は「チャイニーズ・グースベリー」と呼ばれていた

国家政策として建設されていった砂糖工場は、キューバ全土に150以上もあった⇒

大規模なプランテーションが巨大模型で再現されており、サトウキビを運ぶ蒸気機関車がいそがしく動いている↴

ここキューバは中南米ではじめて蒸気機関車が走った国。なんと1837年のことであった。

ここで労働させられていたのは現地民ではなく、アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちが多い⇒現在のキューバ人に多様な人種のが見られる理由。中南米の先住民たちはヨーロッパ人の持ち込んだ天然痘をはじめとする伝染病によって人口が激減してしまったため。 

サトウキビというのは、収穫したら四,五時間のうちに処理しないと品質が悪くなるのだそうで、畑のすぐそばにそれぞれプランテーションが設けられていた。

蒸留釜はとても大きく三階建てぐらいの高さがある アメリカでバーボンをつくるのに使った白樫の樽を買ってきて、表面を燃やして焦がす。それをもう一度組み立ててつくった樽で熟成させる。こちらがその樽の木⇒出来上がったものをブレンドするのが、ハバナクラブでは五人しかいないマエストロ・ブレンダーいちばん若い一年半モノは透明⇒次が三年モノで少しだけ茶色になる。ラム酒を使ったカクテル=ダイキリは、たいていこの若い酒をつかうので透明だが、七年物を使ってつくると濃い茶色になり、名前もモヒート・ムラータ(黒いモヒート)と呼ばれる⇒ 

最高級品とされるのは、バカラの特別ボトルのこのMAXIMO⇒ ブレンダーの名前がはいって年間千本ほどしか出荷されないのだそうな。

後日行く予定のトリニダーのインヘニオ(サトウキビプランテーションのことをそう呼ぶ)の様子⇒この絵に描かれている塔は現在でもそのまま残っている。訪れるのが楽しみです。

 

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キューバ到着、ミラマーレ地区のホテル

2015-12-08 07:57:09 | キューバ

ハバナへ向かって降下をはじめ、真っ暗な窓の外を見下ろすと船がたくさん浮かんでいるのが見えた。船?なんだか形が不揃いだから島? エアカナダ機の位置表示を見ると、なんと外は海ではなかった それでは見えている灯は何なのだ? 近づいてきた地上に目をこらすと、それは個人の家の灯だった。まわりの道に街灯はまったくない。それで、海上の船のように見えていたのだ。「キューバの夜は暗い」というのが、小松の最初の印象となった。

空港ターミナルに入ると、そこらじゅうが赤いやっぱり社会主義の色は赤だから? スーツケースは無事にぜんぶ到着。ロビーでアントニオさんが迎えてくれた 

両替所は外にあるキューバの通貨はペソだが、CUP(人民ペソ)と外国人用のCUC(兌換ペソ)がある。発展途上国に時々見られる通貨政策だが、キューバの場合両者の差は二十倍以上。兌換ペソはUSドルと等価という位置づけだが、USドルからの両替には10%以上の手数料をとる。つまり、日本円やユーロやスイスフランからの両替が有効。

※兌換ペソは、ソ連崩壊後1993年の経済危機から認められたUSドルの国内利用が拡大し続けるのを止めるために、2004年に導入された。

バスは中国製キューバと経済関係の強い国のベスト3は①ベネズエラ ②中国 ③スペイン といったところ。続いてブラジルやカナダ、敵対してきたアメリカもその次ぐらいにははいってきている。 四十分ほどでミラマーレ地区のホテルに到着。もう23時ちかい。古い巨大なアメリカ車はきいたとおりどこでも見られる フロントスタッフはひとりしかおらず、チェックインには時間がかかった。深夜0時になると、突然ロビーの電気が消された。まだまだお客さんおりますのに。部屋は広くひととおりの設備があるただ、ほとんどの部屋でバスタブの栓がない。シャワーとの切り替えノブがとれていて使いにくいなど、予想された不自由は、ある。とにかくも、おやすみなさ~い。

翌朝、12月の穏やかな晴れた南国ホテル 海まで二ブロックほどだというから、このミラマーレ地区を少し歩いてみよう。部屋から見えた教会は、後からきくとハバナで最大のものだそうだ。別に観光名所ではないけれど、覗いてみたい・・・閉まっておりました。社会主義体制下の宗教というのはどこでも苦しい立場にある。キューバでも1959年の革命時にカトリック教会指導部は富裕層の味方をして国外追放、教会財産は国に没収された。それ以来の確執は1996年のフィデル・カストロのバチカン訪問、1998年のヨハネ・パウロ二世法王のキューバ訪問でずいぶんなくなったけれど。

ミラマーレ地区は★ニューヨークのマンハッタンをモデルにして碁盤の目状に区画整理・都市計画してつくられている角々には何番通りの東西南北どちら側化を示した四角錐のプレートが置かれている。海に沿って一番通りが走り、奇数番号で続く。つまり、ホテルのある五番通りは三番目の道。海に対して垂直にひかれた道は偶数番号。ホテルは70番通り。これさえ覚えておけば迷うことはない

ハバナ旧市街の外側につくられた19世紀の町は飛行機から見るとほんとうに区画整理されていた。※ハバナから飛び立つ飛行機からその様子がよく見えたので、別に載せます。

**海まで五分ほどで到着思ったような砂浜ではない 高級地区らしく、高層ビルがいくつもあるきのうはけっこう雨がふったときいたが、水はけはあまりよくないのかも。

ひときわ目をひくロボットのようなかたちのビルは・・・あとからロシア大使館だと知った。

9時からの観光が楽しみ楽しみ(^.^)

 

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