旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ベルリンフィルでベートーベン「オラトリオ」とシュトラウスの「オーボエ協奏曲」

2020-03-05 22:35:36 | ドイツ
最初の一音から聴衆を魅了するホール

二年前にいちばん後ろのこの席で聴いた時も↓※2018年1月


↓この席で聴いた今回も

同じように「届く」音楽を楽しめた。

●一曲目 シュトラウス「オーボエ協奏曲」
モーツァルト的に、のびやかで明るい曲調。
オーボエの旋律のうしろから聞こえてくるカウンターメロディがよくきこえる。
バイオリンはもちろんだが、その下で地味になりがちなヴィオラの音がくっきりむりなく聴こえる。
1945年に作曲されたものだけれど、18世紀の宮廷で演奏されても無理のないオーソドックスな美しさがある。
●二曲目 ベートーベンのオラトリオ「オリーブ山上のキリスト」
題名からもわかるように最後の晩餐の後に弟子たちをつれて近くの小高い丘・オリーブ山にのぼった時の「ゲッセマネの園」でのエピソードを詩にしている。
もちろんドイツ語。なので聴いていても理解できない。
字幕が同じくドイツ語で出ているが、読めない。
音楽の力は感じられるが、歌詞のあるものについては言葉を理解できるかで楽しめる度合いが大きくちがってくる。

コンサート・マスターの樫本氏のファーストヴァイオリンのぐいぐいひっぱっていく様も見ものだった。


会場で無料配布されているA4の簡単な英語解説がおもしろい(^.^)↓

有料のコンサートパンフレットよりも書き方が自由で、音楽家の人柄や歴史的背景から解説されるストーリー。
「若きベートーベンと老年のシュトラウス~それぞれのゲッセマネ」と副題がつけられている。
「ゲッセマネ」とは「困難な時期」の比喩である。

●八十歳をすぎたリヒャルト・シュトラウスは祖国ドイツ(ナチス・ドイツ)が壊滅した1945年の10月、スイスに居た。
ナチス政権下で音楽監督までやっていたので戦犯容疑がかけられていたシュトラウス。
従軍していた24歳のアメリカ人オーボエ奏者ジョン・デ・ラーシンが彼を訪ね「オーボエのための曲をかいてもらえませんか」と頼んだ。
戦勝国だが若造音楽家の頼みを、シュトラウスは言下に断ったが、モーツァルト風の楽器用曲を書くのが好きだったので、一月ほどで書き上げてしまう。
初演は1946年チューリッヒにて。オーボエはマルセル・タブトウ。きっかけをつくったアメリカ人に演奏の機会はまわってこなかった。
●三十三歳のベートーベンは「オラトリオ~オリーブ山上のキリスト」上演日当日の朝までトロンボーンパートに手を入れていた。
リハーサルは当日の朝八時から午後までかかった。
初演はウィーンのアン・デア・ウィーン劇場(※後にはミュージカルを上演する劇場となり「エリザベート」もここで初演された)。
三年前に書かれたばかりの協奏曲一番、そして協奏曲第二番、ピアノコンチェルト三番、までが同日に演奏された。
ベートーベンは指揮をしピアノも弾いたのだから、実に圧巻のコンサートだっただろう。
入場料は当時の普通のコンサートの三倍とったことが話題となった。
ベートーベンはしかし、この当時すでにかなりの難聴に陥っており、前年には有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いている。
「オラトリオ」はその後少なくとも二回はスコアを大幅に書き直された。
ベートーベンがこの曲に生涯課題を抱えていたのがわかる。

今日の演目は
八十歳を超えたシュトラウスがノスタルジックにさっと書き上げた曲と、
三十歳そこそこの若きベートーベンの壮大な挑戦曲、だったのか。

音楽といえどもただ音楽を楽しむだけでは不十分な時がある。
背景を自分なりに理解して聴くことは大切だ。
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ベルリンのノイ(新)博物館

2020-03-05 13:32:34 | ドイツ
「ベルリンの金の帽子」は、紀元前一千年から八百年ごろのものとされる。
博物館は1990年代にオークションで入手していて、南ドイツで発掘されたと推定されているが、正確な出自は不明。

↓「帽子」と名付けられているが頭にかぶるものか?どのように使われたのかはわかっていない。
刻まれた(内側から型押しされた)図形が天文観測のデータと一致すると研究がある。

この時代の人々はストーンヘンジのように天空の暦と共に生きていたからそういう祭事だったのだろう。
類似の発掘例が四つあるのだそうだ。
南米の黄金像を手前に置いているのは類似性を言いたいのだろうが、ちょっとそぐわない。
**
これを収蔵するベルリンの「ノイ(新)博物館」は、たくさんの博物館があつめられた博物館島の一角にある。
↓下の写真左ががジェームズ・サイモンズ館と名付けられているその入口。

この博物館最大の目玉「ネフェルタリの胸像」は彼サイモンズ氏の寄贈したもの。
ユダヤ系ドイツ人で綿花商の御曹司としてベルリンに生まれた彼が、綿花の一大産地だったエジプトの考古学に惹かれていったのは必然だったのだろう。時のドイツ皇帝ウィルヘルム二世とも知り合いで、博物館建設の大きなパトロンだった。
19世紀後半、統一成ったドイツ第二帝国は勢いがあって、イギリスの大英博物館やフランスのルーブルにまけじと世界中から文物のコレクションをしていた時期にあたる。

博物館はいくつものビルに分かれていて、一月通ってもみきれないだろう。
総合博物館というのは辞書のようなもので辞書を片端から読んでいく必要もない。

↓チケット売り場

↓博物館全体のモデルをみると、なるほどここが「博物館島」であることがわかる↓

19世紀から計画的に建造されてきたエリアである。
↑模型の中にもベルリン大聖堂が見られるが、実物がこれ↓

サイモンズの入口↓みつけてください

とにかく広い

古代セクションだけでも地域や歴史ごとのセクションに分かれていて、入り口に代表的なもののイントロがある。
ガイドさんがいっしょでないと迷うばかりで二時間ぐらいすぐに過ぎてしまうだろう。

↑紀元前五世紀ごろエトルリアの神殿屋根瓦。中部イタリアのもの。
↓エジプトのコレクションはとても豊富
↓これは何をしている図?

↑出来上がった等身大の座像を運んでいる場面だそうな。なるほど(^.^)
↓ネフェルタリの胸像だけが写真撮影禁止

隣の部屋からなら撮影OK

小松が前回これを見たのは東ベルリンエリアのエジプト博物館にあったころ。二十年ぐらいは前になる。
すぐに思い出したのはカイロの考古学博物館にある胸像を量産するための元型とされるもの↓

※2004年ごろに撮影
見比べると、ベルリンの完成品はカイロのような花崗岩の元型の上に大理石の粉を練ったストゥッコを塗りつけて細部をリアルにし、冠の部分はあとから接合しているのだとわかる。
あまりスポットをあてられないのだが、この元型はネフェルタリ本人を見て製作されたものかもしれない。
完成品よりもリアルなデッサンといったところかしらん。

第二次大戦中に破壊されたが残ったものをできるだけ使って再建されている


シュリーマンが発掘したトロイ遺跡の装飾品「プリアモスの宝」は、1945年にベルリンを陥落させたソ連軍が持ち去ってしまった。
ソ連は長くその存在さえ認めなかったが、ロシアはその存在を認めて一時は「ドイツへ返還する」と言っていたが、後に気が変わっていまもモスクワにある。↓これはそのレプリカになる↓


★ペルガモン博物館は現トルコ領のペルガモン遺跡から神殿ひとつまるごと移設してきたもの。

※その神殿は2020年現在修復中で公開しておりません
が、現在のイラク北部アッシリア文明に属するバビロンのイシュタール門の復元が圧巻↓


紀元前六世紀ごろネブカドネザル王の時代、宮殿の入り口
参道にはライオンのタイルがずらり


↓百年ほど前にこんなかたちで発掘されていたものをもってきてしまったのだ


イスラム美術のコレクションも↓



フランスのルーブル以上には英語解説があるし、じっくり見学したい博物館です(^.^)


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ベルリンの壁は今

2020-03-05 10:07:23 | ドイツ
残されたベルリンの壁際を、白煙をあげて走るトラバント↓

現在のトラバントについてこちらに書きました
「若い人はもうどこに『ベルリンの壁』があったかのかを知りません」と旧東ドイツ人のガイドさんが言う。
意図的に残されたものしか、現在では見ることが出来ないのだ。
↓こちらはそのひとつ↓

冒頭写真の左側に映っていた壁の裏側になる。
↓ここが何も建てられずに残っているのは↓

東ドイツ時代の秘密警察「シュタージ」があったから。
市民を監視し時に捕えて拷問していたとされる場所だから。
壁があった時代というのは、ベルリン市民にとって消し去りたい一種の「恥」なのだろう。

「ベルリンの壁」は1961年に建設された。※このあたりの経緯は下記のリンクに書いております
東西ベルリンの間には三つの検問所A,B,Cがあり、「C」はチャーリーと呼ばれていた。
※2018年に訪れた時のことをこちらに書いております

壁際にあった建物は皆撤去され、そこは「死のゾーン」と呼ばれる細長い監視区域となった。
ただひとつ残されていた「和解の教会」(※皮肉な名前です)が1985年になって爆破された時の写真が掲示されていた↓

壁が必要なくなった1989年以降になって、教区の人々は同じ場所に礼拝所を設けた。
今、そこは、ベルリンの壁で殺された人々を追悼するミサが行われているそうだ。
ベルリンの壁がどのようなものだったのか。
イラン難民の子としてウィーンで生まれたヤドガー・アシシのTHE WALLという360度パノラマのインスタレーション作品を公開している↓※こちら、彼のホームページにその簡単なビデオがあります

他の博物館とは違うアプローチをしているのだろう。
観てみたいけれど、いつも時間がなくて残念…
チェック・ポイントチャーリーにはいつも警備兵が立っていた。
二年前はその扮装をして写真を撮らせる商売をしている輩がいたが「不謹慎だ」とクレームがあってもう今はいなくなった。


**
ベルリンの壁に近づく者は撃たれたのだから、こんな絵など描かれていなかった。

この「イーストサイドギャラリー」がはじまったのは2009年から
※2018年に訪れた時の写真をこちらに載せております

一角がこんな風に切り取られて↓その部分が移動させられているのが気になっていたのだが、今回ペトラさんに説明してもらってやっとわかった↓

この壁が除けられた部分から見えている「メルセデス・ベンツ・アレーナ」↓

2008年に建設された当時に命名権を持っていた携帯電話会社の「O2(オーツ―)」が、
「シュプレー川の船着き場からアレーナが見えない」と文句を言って、壁を40メートル分取り除かせたというのである。
スポンサー様の意向にはベルリン市も逆らえなかったのか…。

2015年からはベンツに名前が変わった。
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ドレスデン二年後の再訪

2020-03-04 16:27:26 | ドイツ

マイセン磁器製の102mの壁絵「君主の行列」
↓これは連合軍の爆撃にも無傷だった

最初は1876年にスグラフィートで画かれたものだったが、1906年にマイセン磁器タイルでつくりなおされたもの
↓行列の最後に磁器製作者が参加しておりますとさ(^.^)↓

※アウグスト二世の乗った馬がバラの花を踏んでいることについては2018年のブログに書いております。ラファエロの画いたほうづえをつく天使のあるので有名なドレスデン絵画館についても書きました。

**
2018年に訪れたのは一月末だったからか、三月に入っている今回はずいぶん暖かく感じる。
聖母教会も青空の下ずいぶん明るく映る

二年前に神秘的に見えた堂内も、今日は光にあふれている↓

連合軍の空爆で瓦礫と化した以前の教会のドームにあった十字架も↓

↑今回新たに知った事
二階にあたる部分にガラスのはまった部屋がぐるりと囲んでいるが、これらはドレスデンのお金持ちファミリーが使っていた部屋。
※2018年1月に訪れた時の写真をこちらからごらんください




★ツヴィンガー宮殿の中庭にはじめて見る白いドームがあった↓

↓きけば、1719年にアウグスト二世(強王)が、息子のアウグスト三世の結婚式に催した祭典の様子をヴァーチャル再現した期間限定展示だという↓

三十分ほどの自由時間に観ることにした。料金3ユーロ、実質上映時間12分↓

おぉ、言葉が分からなくてもかなりリアルに楽しめる(^.^)
今も見られる「ポーランドの王冠」⇒2018年に撮影
ツヴィンガー宮殿にはマイセン磁器にまつわるおもしろい展示もたくさんある。
良いガイドさんともお知り合いになれたことだし、ドレスデンに宿泊して博物館もゼンパーオペラでの催しも楽しめる旅、つくってみたいです。
***
ツヴィンガー宮殿は「催物会場・展示場」であったが、実際に住んだのはこちら↓レジデンツ

中庭に覆いがかけられて通り抜けもできる展示空間になっている

となりの長方形の中庭は、中世に騎馬試合が行われていた場所↓としてはヨーロッパ最古だそうな↓

↑二本建てられたポールはそこを基準にして長槍を抱えた騎馬武者の試合が行われていた証拠。
向かい合って突進してきて、出会いがしらに相手を突き落とそうとする試合であります。
↑面しているルネサンス風スグラフィート装飾のある建物は厩(うまや)。常時百三十頭もの馬が用意されていたそうである。

午後四時、ベルリンへ向かって出発
カナレット1720-1780(ヴェネチアの風景画で有名なカナレット1697-1768の甥)が画いたのと同じように、ドレスデンの旧市街がエルベ川に映っていた

↓こちらが1750年ごろにカナレットが画いたドレスデン。昨年ドレスデンの絵画館で見ました。

****
絵画館付属の「アルテ・マイスター・カフェ」でのランチ。
たいへん質が良く、量的にもそれほど多すぎずほどよい。
今回は我々だけのためにお昼にあけてくれていた。

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ゼンパーの美しきオペラ座

2020-03-04 15:51:52 | ドイツ
ドレスデンのオーパー(オペラ座)は噂どうりの美しさだった。

19世紀前半の馬蹄形型劇場のなかでもっとも美しいものとされている

火災や戦災で何度か建てなおされているが、ワーグナーが指揮者を務めていた1840年代の雰囲気が感じられる。

↓驚くのはこの座席の配置↓

真ん中にあるべき通路がない!
遅れてきた人が中席にはいるのはなかなかたいへん
だが、この座席自体は新しい。背中の穴が空調になっているのです↓

この座席をとりはらって舞踏会も行われるのだと、ガイドさんが写真をみせてくれた↓

設備は現代のものに換えたのに、全体のスタイルと装飾はゼンパー時代のものを踏襲しているのか。
新しい劇場にした方が舞台は確実に見やすいのに、それでも昔と同じように復元したいと思わせる魅力がこの劇場にはある。
↓こちらロイヤルボックス入口

この席に座るのならそれなりの服装が必要になるでしょうねぇ

ロイヤルボックスを一般客席から見上げると↓こんなに目立つ場所になるのだから

この座席にはザクセン王国(1806年~1918年)の国王も座った筈。
王国の紋章が舞台の上に大きく掲げてあるのが見える↓

**
「柱の林」と呼ばれる階段近くのエリア↓

これらの柱はホンモノの大理石ではなく

↓疑似大理石↓塗り上げていったものを磨いてこの文様をだす

戦前のものは少し色が薄く
戦後の再建の際のものは緑色が濃い↓

どうしても同じには出来なかったとうことだが

疑似大理石であっても高価で美しい装飾であるのは間違いない。
↓手摺の下のこの部分はホンモノの大理石なのだが↓

比べてみて、どちらが美しいかは歴然。
↓戦後の再建には木を使わずに、木のように見えるためにひとつひとつに木目を画いていった↓

ぱっと見、まったくわかりません

現在の概観は戦後に建てなおされた際のもの↓

戦争中に爆弾がど真ん中に落とされたのだが、外側・外観は幸い残されたので内部だけをすっかり新しくしていたのだ。
もしも爆弾が壁をも破壊していたら…ライプツィヒのように全く新しい演奏劇場として建てなおされていたかもしれない。
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