テディ・ベアで世界的に有名なシュタイフ社は、いまでもドイツの片田舎ギーンゲンにある。
敷地の入口には、マーガレット・シュタイフの記念プレートが置かれている。
一歳で小児麻痺にかかり両足と片手が不自由になった彼女がはじめたのが、このシュタイフという会社だ。
1903年に制作したクマのぬいぐるみ・型番PB55が、アメリカの大統領選挙のマスコットになってテディ(ルーズベルトの愛称)と名付けられ、世界的に有名になった。
だが、マーガレットの最初の成功した商品は、この象の針刺し。
近所で評判になって、最終的に五千個売れたとか。
五千個?
いくら評判になったとはいえ、百年前にこれだけの数を売るのには、ちょっとした商才が必要だっただろう。
それを持っていたののはマーガレットではなく、甥のリヒャルトだった。
彼は美術を学んでいて、動物園で後のクマのぬいぐるみのもとになるスケッチをした。
マーガレットと三十才年齢が違う、彼がやっていた事をなぞっていくと、なにかおもしろい人物だったように見える。こんな写真を残しているし(^^)
後のテディ・ベアもリヒャルトがライプツィヒの見本市に持ち込まなければ、ブレイクのチャンスはやってこなかっただろう。
販売は制作とは違う苦労がある。何かの才能というのは、それを持っている人物が存在するだけで成功するわけではない。
たとえば、ショーケースの片隅でひっそり座っていたこのサルを見るとそれが分かる
⇒こちらからお読みください。
見学コースで当時の制作室が再現されていた。その棚にいろいろな動物の骨格や顔や手の形を模索した石膏がたくさん積まれている。
「この動物はどうだろう?動きはこれでよいのか?どんな顔ならみんなが気に入るのだろう?」
これらを作りながらリヒャルトはいろいろ考えたはずだ。
そして、マーガレットおばさんのところへもっていく「こんなのつくれる?」。
器用なおばさんはクマやサルや、きっともっと他にも試作品をつくっただろう。その中のPB55というクマがアメリカでブレイクするとは夢にも思わずに。
シュタイフ・ミュージアムの案内約にはそのオリジナルのPB55くんが登場する
ミュージアムの見学は、この制作室から空にうかびあがっていくという設定になっている。
それをけん引する飛行機ロロプラン前回も見たはずなのだがちっとも気に留まっていなかった。これはしかしこの時代には画期的なアイデアだったのだ。
前出のサルと同じショーケースにおさまっていた1908年制作のタコ型飛行機ロロプラン
竹の骨に布張り。調べてみると、同年正式に商標を獲得したロロプランは1910年から1915年の間に三万四千個も売れたのだそうだ。
大きさは縦横1.8mもあった
1909年には3.6mの大型を制作し、フランクフルトの飛行機コンテストで賞を得た。オランダのコンテストでは高さ800mまで達した。
時代は、人が空を飛ぶという夢を実現する直前。リヒャルトもその夢を追った実業家のひとりだと言えるだろう。
ドイツ軍部は空中撮影に利用できると考え、第一次第二次大戦を通じてシュタイフ社に依頼していたようである。※このあたりの事情はあまり詳しく説明されていない。
現代ではまったく忘れ去られてしまったロロプランだが、リヒャルト・シュタイフという人物の面白さを象徴しているようである。
実業としてのテディ・ベア作りにも、彼のアイデアは生かされている。
現在でも残るこのガラス張り工場は当時としては革新的。明るく快適そう。
***
さて、現代のシュタイフ・ミュージアムはレアなベアももちろん手に入るが大人でも楽しめる場所だ
以前アウトレットはこの黄色い足跡を追っていったところにあったが現在は正面入り口すぐ横の分かりやすい場所に移動していたタグはなかったり、穴があけられて正規品と違えているが気にしなければ充分良い品ものが置かれている。ここまでつくって検品ではねられたからって、廃棄するより良いですね(^^)
敷地の入口には、マーガレット・シュタイフの記念プレートが置かれている。
一歳で小児麻痺にかかり両足と片手が不自由になった彼女がはじめたのが、このシュタイフという会社だ。
1903年に制作したクマのぬいぐるみ・型番PB55が、アメリカの大統領選挙のマスコットになってテディ(ルーズベルトの愛称)と名付けられ、世界的に有名になった。
だが、マーガレットの最初の成功した商品は、この象の針刺し。
近所で評判になって、最終的に五千個売れたとか。
五千個?
いくら評判になったとはいえ、百年前にこれだけの数を売るのには、ちょっとした商才が必要だっただろう。
それを持っていたののはマーガレットではなく、甥のリヒャルトだった。
彼は美術を学んでいて、動物園で後のクマのぬいぐるみのもとになるスケッチをした。
マーガレットと三十才年齢が違う、彼がやっていた事をなぞっていくと、なにかおもしろい人物だったように見える。こんな写真を残しているし(^^)
後のテディ・ベアもリヒャルトがライプツィヒの見本市に持ち込まなければ、ブレイクのチャンスはやってこなかっただろう。
販売は制作とは違う苦労がある。何かの才能というのは、それを持っている人物が存在するだけで成功するわけではない。
たとえば、ショーケースの片隅でひっそり座っていたこのサルを見るとそれが分かる
⇒こちらからお読みください。
見学コースで当時の制作室が再現されていた。その棚にいろいろな動物の骨格や顔や手の形を模索した石膏がたくさん積まれている。
「この動物はどうだろう?動きはこれでよいのか?どんな顔ならみんなが気に入るのだろう?」
これらを作りながらリヒャルトはいろいろ考えたはずだ。
そして、マーガレットおばさんのところへもっていく「こんなのつくれる?」。
器用なおばさんはクマやサルや、きっともっと他にも試作品をつくっただろう。その中のPB55というクマがアメリカでブレイクするとは夢にも思わずに。
シュタイフ・ミュージアムの案内約にはそのオリジナルのPB55くんが登場する
ミュージアムの見学は、この制作室から空にうかびあがっていくという設定になっている。
それをけん引する飛行機ロロプラン前回も見たはずなのだがちっとも気に留まっていなかった。これはしかしこの時代には画期的なアイデアだったのだ。
前出のサルと同じショーケースにおさまっていた1908年制作のタコ型飛行機ロロプラン
竹の骨に布張り。調べてみると、同年正式に商標を獲得したロロプランは1910年から1915年の間に三万四千個も売れたのだそうだ。
大きさは縦横1.8mもあった
1909年には3.6mの大型を制作し、フランクフルトの飛行機コンテストで賞を得た。オランダのコンテストでは高さ800mまで達した。
時代は、人が空を飛ぶという夢を実現する直前。リヒャルトもその夢を追った実業家のひとりだと言えるだろう。
ドイツ軍部は空中撮影に利用できると考え、第一次第二次大戦を通じてシュタイフ社に依頼していたようである。※このあたりの事情はあまり詳しく説明されていない。
現代ではまったく忘れ去られてしまったロロプランだが、リヒャルト・シュタイフという人物の面白さを象徴しているようである。
実業としてのテディ・ベア作りにも、彼のアイデアは生かされている。
現在でも残るこのガラス張り工場は当時としては革新的。明るく快適そう。
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さて、現代のシュタイフ・ミュージアムはレアなベアももちろん手に入るが大人でも楽しめる場所だ
以前アウトレットはこの黄色い足跡を追っていったところにあったが現在は正面入り口すぐ横の分かりやすい場所に移動していたタグはなかったり、穴があけられて正規品と違えているが気にしなければ充分良い品ものが置かれている。ここまでつくって検品ではねられたからって、廃棄するより良いですね(^^)