旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ルフテン・ブリュッケ~ベルリン封鎖の記憶

2014-12-13 15:33:19 | ドイツ

12/13午後五時過ぎ、フランクフルト空港からハイデルベルグへ向かう。

空港敷地内にあるかわった形をしたモニュメントがハイウェイを走るバスから、ほんの十秒ほど見える。

「ルフテン・ブリュッケ=空の架け橋」は現代ドイツの歴史の一ページを刻んだもの。せっかくドイツを訪れたのなら、是非知っておいてほしいとおもって、このルートを通る時には出来るだけ解説している。

★ベルリン封鎖1948年6月~49年5月
第二次大戦の後、ドイツ全土だけでなく、ベルリンも戦勝四か国によって分割統治されていた。
ソ連は東ドイツのなかに孤島の様に残る西ベルリン地区(米英仏支配地域)をなんとか放棄させようと、1948年6月、道もライフラインも封鎖してしまった。兵糧攻めである。



これに対してアメリカとイギリスは、飛行が許された細い細い空路を最大活用して、西ベルリン市民に生活物資を届ける空輸作戦を実施した。当時の西ベルリンは人口200万人。これらの人々が必要とするすべてを空輸するなど不可能と思われた
※ベルリンのテーゲル空港はこの時に突貫工事でつくられた飛行場がもとになっている。

が、百機以上の輸送機をかきあつめた米英は、結果一日五千五百トンにのぼる輸送を行い、ソ連の兵糧攻めを耐え抜いた。

アメリカのパイロットのひとりは、甘いものに飢えた西ベルリンの子供たちのために、飛行機からハンカチをパラシュートにしたチョコレートを撒いた。
一人がはじめた行為はやがてアメリカが軍をあげておこなう作戦となり、非道なソ連のやりかたとび好対照の効果をうんだ。

ソ連のさまざまな妨害や事故にもかかわらず続けられた支援によって、西ベルリンの市民は占領国のアメリカ、イギリスに対して感謝するようになり、絆がうまれ、ソ連が意図したのとは全く逆の結果となってしまったのが、このベルリン封鎖だった。

ベルリンの地下鉄駅「ルフテン・ブリュッケ」駅を上がると、同名の広場にフランクフルトの方向を向いたまったく同じ形をしたモニュメントがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする