旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

スパイスガーデンからキャンディへ

2015-01-20 23:45:44 | スリランカ
午前中シギリア・ロックを登って、お昼はマータレー近くの「スパイス・ガーデン」にて。このお皿の上に乗っている丸いもの、マンゴーのカレーなんです。おいしい(^_^.)スリランカの名産のひとつは香辛料。ここではいろいろな種類の実物が庭に植えてある。
●ウコン。漢字では「鬱金」、中国語で「薑黃」と表記するのは、つまりこの色からきているのがよく理解できる

英語ではターメリック。
近頃日本では「ウコンの力」とか話題になっているが、古代からアーユルヴェーダに用いられたし、よくよく料理に使われる材料のひとつだった。

●カカオ豆がこんな風に木になるなんて知らなかったココ椰子とカカオはもちろん違うもの。チョコレートの材料はこれですこれは甘くありません(笑)

●胡椒大航海時代の最初の主役がこれ。白コショウが皮をむいてつくられたもの、黒コショウは皮ごとなんだそうです。

●クローブは漢字で「丁子」と表すこれは、実が釘のカタチに似ているからだという。なるほど。フランスで釘はClouと言う。語源はフランス語だったんだ。

他にも、アロエやら生姜やらバニラやらを見せてくれて、さて商品説明会人によるでしょうけれど、なかなか使える品もあるようです。即効性は無駄毛取りクリームでした。
販売所では小分けをいろいろ売っているのでお土産によいです
レジの後ろにかざってあったアウカナの巨大なブッダ像、そのうち見てみたいです。

**
KANDYへ向かう途中、今回は寄らなかったがアルヴィハーラの石窟寺院は面白そう。
前だけ通った時に、入り口奥に岩山が見えた。

ここは紀元前一世紀から寺院のあったところで、スリランカ屈指の経文が収められていた。西欧支配の時代に何度も襲撃されて宝物を持ちさられたそうである。
なかでも1848年に、Saradilサラディールという義賊(ガイドさんはスリランカの「ネズミ小僧」と形容してまいた)がこの寺にかくまわれ、それを知った英国軍が破壊した時はひどかったのだそうだ。
現代でも椰子の葉に鉄筆で刻んだ経文や、岩に画かれた地獄絵が見られるそうな。次回是非。
街には新しくできたヒンズー寺院も

***
KANDYの市街に入ってくる1815年にイギリスに廃絶されるまでシンハラ王朝最後の都だった町。
イギリスが支配の拠点とした建物が街のど真ん中にある。今回の我々の泊まるクイーンズ・ホテルがそれ。もちろん古い室内
窓からは人造のKANDY湖が見える。19世紀初めに、最後のキャンディ王が12年かけて建造したとされる。

※場所はこれ以上ないほど良いけれど、車の往来がはげしくてちとうるさい。翌日は内側の部屋に変えてもらいました。

****
夕方になり、カンディアンダンスへ向かう。いろいろな外国語の説明書きが用意されている

四十五分ほどのショーの後、屋外では火渡りを見せてくれた。

これもまた神様に捧げる儀式だったのであります。

クイーンズホテルのクラシックなダイニング






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シギリア・ロックに登る

2015-01-20 23:08:52 | スリランカ
《手造の旅》スリランカ、四日目。
ついに、あのシギリア・ロックのふもとまでやってきた。

スリランカを代表する観光地で、いろいろ資料があるにもかかわらず、実際に来てみないとわからない事ばかり。
バスを降りてから岩山の登り口に行くまでに、こんなに距離があったんだ。
※⇒バスの駐車場近くにある日本が作った博物館について、こちらに書きました。

シギリアはその周辺も合わせてけっこう広い都市遺跡だった。岩を中心城塞として建設された城の、これは城壁に相当する壁の一部この部分だけ屋根がかけてあるのは、オリジナルの部分だから。
※堀に囲まれた部分は一辺が800~900メートルの長方形になっていると解説されていた(現地購入の資料本)

城塞の中には幾何学的な水庭がシンメトリーに配置されている。

それはアンコールワットやタージ・マハルを思い出させる。現在でも水が流れている部分もある

まっすぐ岩山に向かって続いていく参道を突き当たると、岩の下には小さな礼拝堂がたくさんあったのがわかるかつてはそれぞれがフレスコ画で飾られていた名残も見られる。
この二つの岩の間を通って城塞への登り階段がはじまる

こんな小さな子までがんばっているんだからがんばらなくちゃ!


シギリアロックは海抜360メートル、地上から200メートルの高さに切り立っている。
現代ではこんな階段が整備されてはいるが、岩場にへばりつくように取り付けられているヶ所もあるから決心してのぼっていかなくちゃなりません。おサルは平気そうだけれど

下の写真で、らせん階段が導く岩のくぼみに、有名な「シギリア・レディ」のフレスコ画がある。

赤い壁も古代のもので「ミラーウォール」と呼ばれるほど、磨き上げられている。
そこには、5世紀から14世紀初頭にかけて訪れた人々が残した詩や感想が書き込まれている。「らくがき」とガイドブックが説明しているのにはちょっとそぐわない類の訪問記帳か。我々観光客がいきかうところにはそれほどはっきりした文字は見えなかったが、研究者によると合計850の「らくがき」が解読されているのだそうだ。
ここシギリアが都としては崩壊した後にも僧院として使い続けられ、中世時代にあっても有名ないわば「観光地」であったことを示している。

千年前に訪れた人々にも、現代の我々にも、強烈な印象を与えるのは「シギリア・レディ」

千五百年も前に画かれたとは思えない色彩とすばらしい描写力。

このアプサラ(日本流に言うと「天女」)をモデルにした焼き物が出土していて、それはどうやらここを訪れた人が「お土産」に手に入れていたものと推察されている。
現地の説明本に載せられていたこの十センチほどのフィギュアは、たしかにあの「アプサラ」をモデルにつくられたように見える。


訪れた神殿の有名なものを持ち帰って見せたいと思う気持ちは洋の東西を問わない。
古代ギリシャやローマの神殿にも似たようなものが作成されていて、それぞれの博物館にたくさん展示されていたのを見た。
現代のお土産というのは、そういうものの延長線上にあるのだ。

*「シギリア・レディ」を見たら、再びミラー・ウォールまで降りて、今度は岩の上にある宮殿への入り口をめざす。
これがもともと宮殿の入り口であったとされるライオンの入り口。階段はライオンの口になっていたと想像されている。

●シギリアとはSIMHA-GIRI=LION MOUNTAINという言葉がもとになっている。

さらに上る階段は岩にへばりついている

登り口のライオン岩を見下ろす

岩の上にはいっぱいに5世紀の宮殿跡がひろがっている

この岩山の上に、下から風車をつかって水を汲み上げていたという説もあるのだそうだ。


★★シギリア・ロックの逸話★★~ガイドブックによく載せられているものと、現地で小松が収集した話を組み合わせてご紹介します。
紀元後五世紀、アヌラダプラを首都にしていた頃。
ダートセーナ王は、南インドからの侵略者たちを追い払い、たくさんの人造湖をつくって人心を掌握していた。
ある時、ひとつの池を造成するのに同意しない僧があったが、王はかまわずに工事をして僧を沈めてしまった。

因果応報、やがて王の身にこの行いの報いがやってくる。

ダートセーナ王には長男のカーシャパがいたがその母は平民の出。次男のモッガラーナの母は王族だったので、カーシャパは先手を打って父王を監禁し、王国の宝と王権を譲ることを迫った。父王は長男を自分の造成した人造湖に連れて行き「これが私の宝だ」と言った。
当時こういった大工事をする際に、宝物を納めて仏像を建設したり埋めたりすることが行われていたので、それを指すと思ったカーシャパはその場所を教えるように求めたが父王はそれには答えなったため、カーシャパは父を殺してしまった。

兄の所業をしった弟モッガラーナは南インドへ亡命。父殺しの大罪を犯した自分にいつか報いがやってくるのを恐れた兄カーシャパは、僧院のあった要塞シギリアに新しい街を建設して遷都する事を決めたのである。西暦477年の事と言われている。

シギリアは岩の上の宮殿を整備した

玉座は下の写真の下のほうに写っている石のテーブルのような場所。
天蓋をたてたと思しき穴が残っている。


十七年後、弟のモッガラーナが兵を率いてシギリアを襲う。
堅固な要塞に見えたこの場所も、人心を失っては守りきれない。
カーシァパは宝剣を身に突き立てて果てた。

****
カーシャパ王がここを首都とした十七年間が、このシギリアがいちばん繁栄した時代になった。「シギリア」という名前もこの時代に与えられた。
彼がやってくる前からここは僧院だったが、カーシャパの死後にもまた僧院にもどった。
アプサラのフレスコは岩山の中腹に400メートルの長さにわたり、上下の幅40メートルにもなっていたそうだ。何百という天女が描かれていたのである。
現在では我々観光客が見られる「フレスコ・ポケットAとB」の他にC,D,Eの三か所が残されているだけなのだそうだ。

*****

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする