旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

仏歯とそれを半世紀運んだ象

2015-01-21 22:56:56 | スリランカ
仏陀が亡くなった時、その灰の中から拾われた犬歯。ヒンズー教の王によって破壊されそうになった事もあったが⇒それがスリランカにもたらされたのは紀元後四世紀だったとされる。王朝の変転につれ、三十二か所も島内を移動した後、キャンディに安置されたのは1590年であった。

仏教と合一した政治が行われていたスリランカでは仏の歯を所有している事は正当な支配者の証であった。これが寺への入り口であり、かつての王宮エリアへの入り口でもある

裸足になり中へ入るとゾウが仏歯を載せる場所に出るペラヘラ祭りではこんな風にゾウが仏歯を載せて街を歩くのである。

本堂の一階部分。巨大なゾウの牙がある

仏歯を乗せることのできるゾウは「身体の七つの部分が地面についている事」が要件なのだそうだ。四足と鼻と尻尾と…もうひとつはあれです。何十年もその役目をはたしてきた「ラージャ」という名前のゾウは、数年前に亡くなったが、今でもこの建物中に安置されているその大きさにびっくり サンフランシスコ条約の席で日本擁護の演説を行ったジャヤヴァルダナ大統領と「ラージャ」のショット

**ここを訪れるなら、一日三回のプージャ=仏歯公開の時間に行きたい。
今日三回目は18:30.白い服を来た地元の人たち我々外国人観光客もひとめ見ようと列をつくっている。

実際にはこの列にならんでもそれほど間近に仏歯が見られるわけではない。我々はこの行列には並ばずに「御開帳」の時間を待った。
この時間、下の階ではずっと太鼓で音楽が鳴らされている。お神楽、といったところだろうか。


いよいよ時間となり、緞帳があがって、その向こうにある仏歯・・・の入った仏舎利塔型の容器が見えた。

この内部の歯が公開されることは、ごくごく希にしかないのだそうだ。

何百年にもわたり、仏歯を崇拝する人々が残してきた資料が集まった場所。最後の王によって19世紀初めにつくられた八角形の演題ここにはそういったものが収められている。
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キャンディ王朝の名残はどこに

2015-01-21 16:51:17 | スリランカ
1815年にイギリスよって終止符を打たれたスリランカ最後の王朝。その宮廷はいったいどんなだったのだろう。
歴史ある王朝の宮殿は、中国の故宮やオーストリアのシェーンブルンのように、今は博物館になっていたりする。

だから、キャンディの国立博物館が「かつての王妃の宮殿」ときいて、かつての王朝の名残を感じてみたいと思ったのだ。
だが…あいにく、つい最近になって修復に入っており見学出来ないという。残念。

これは、隣接して残っていた伝統的な建築の建物中を覗くと、管理人の人が招き入れてくれた。中に水が流れる快適そうなつくり細緻な木彫の柱、何本かはオリジナルを生かして復元されている少しでも雰囲気を感じられてよかったが・・・「それでは、王の宮殿はどこにあったのだろう?」と思った。

仏歯寺と王宮は一体となって建設されていたようだ。これがその全体図。

最後の王が建設させた人造湖にハーレムだったという島が見える。いちばん巨大な黄色の屋根で示されているのが最も大事な「仏歯寺」。そこから手前に張り出した八角形の演台も最後の王が建設されたもの。これが、それ

見学出来なかった「国立博物館」=旧王妃の宮殿は仏歯寺のうしろにある赤い屋根の四角い15番の建物。ちょっと中を覗く事が出来た建物は、その左にあって見えない。

でも、いったい王の宮殿はどこにあったのか?

「王様のものが残ってますよ」とガイドさんが連れて行ってくれたのは、仏歯寺の敷地にある堀から上がってすぐの細長い建物だった入ってみると、ほとんど物置状態かつての建材の破片が陳列してある
奥の部屋にはポルトガル時代の砲弾銀製の経典

かつて壁を覆っていただろうオリジナルのタイル次の写真は現在張りなおされているもの

・・・どれを見ても、残骸という印象である。
とても「王の宮殿」などではない。この建物の位置と雰囲気は、人造湖から堀を進んできたボートから降りた王が休憩する部屋でしかない。下の写真は、堀から上がって建物を入ったところ↓


それでは、「王の宮殿」本体は、いったいどこにあったのだろう?
前出の絵地図をもう一度みていただくと、王妃の宮殿の左に巨大な西欧建築があるのが見えるだろう。
現在は「世界仏教博物館」になっていて、各国の仏教にまつわる展示がされているが、正直もともとそんな目的で建てられた建物でないことは明白だ。下の写真がその入り口↓

被支配国の一番大事な地区に、支配の象徴の建物を建設するというのは、イギリスも日本もやってきた事。
そうか、この建物のあった場所に、以前の王宮は存在していたにちがいない。

それを理解させてくれる解説を目にすることは、まったくなかったが。
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キャンディ王朝最後の日々を記憶する記念碑

2015-01-21 08:42:26 | スリランカ
《手造の旅》スリランカ キャンディ滞在の一日で、仏歯寺と旧王宮を見学。

仏歯寺の前にはたくさん銅像や記念碑があるが、ガイドさんはあまりそういうものを説明しない。日本に来た外国人に吉田松陰の話をしても理解されにくいのと同じかもしれない。無理もない。

でも、帰国後にしらべていくと、キャンディ王朝の最期の日々の事がだんだん見えてきた。

石塔の上に乗った金色の女の子は誰?

下の説明版に英語で「ライオン・ハートのチャイルド・ヒーロー、ムッダマ・バンダラ、九歳」とあった。
「1814年に5月17日処刑者の刃を前にして、怯える兄に向い『兄さん怖れないで、僕がどんな風に死に向かうのか見せてあげる』と言ったと書かれていた。
ここで、「HIS」とあったので、これが男の子だとわかったが、銅像を見ているだけではわからないだろう。

このいかり肩の服はキャンディ王族の民族衣装であることは、後日ゴールの町で結婚式の晴れ着を着ている人々に出会ってやっとわかった。


この幼い子供まで処刑した逸話が、スリランカ史でいったい何を意味しているのか?
帰国後にいろいろ調べてはじめて概要がみえてきた。

ガイドブックでは「1815年にスリランカ最後のキャンディ王朝はイギリスによって廃絶」とだけ書かれていても、そこには日本の幕末のようなドラマがあったのだ。

キャンディ王朝最後の王はスリ・ヴィクラマ・ラジャシンハという人物。この肖像画を旧王宮の建物の一角で見かけた。なんだか少女漫画チックなお顔立ち・・・しかし、調べてみると、この王が前述の一家の処刑を命じていた張本人だった。

自分の臣民を何故虐殺するに至ったのか?

王は、スリランカの多数派民族であるシンハラ族ではなかった。南インドの王朝の一族だったので、一般民衆とは違い南インドのタミル語を話していただろう。

英国がコロンボ周辺を支配し、キャンディ王国だけがセイロン島で唯一残された独立王国となっていた19世紀のはじめ、王座をめぐって疑心暗鬼・玄術数が渦巻いていた。

王の下では、いろいろな族長が大臣を務めていた。その中でも有力な人物にアハリポラEhelapola Wijesundara と言う人物がいた。彼が反乱を企てているのではないかと疑った王は、家族を捕え、出頭を求めた。

コロンボ近くに潜伏していたアハリポラは現れず、王は家族を見せしめに処刑したというわけだ。
スリランカの英字新聞にこんな絵が掲載されていたこともある実際には首切りではなく、米粉をつくる臼ですりつぶし殺されたと説明していたものもあった。いずれにしても男子兄弟は流血の方法で殺され、母と小さな娘二人は重りをつけてキャンディ湖に沈められた。
※この事件の裏にはアハリポラの妻に横恋慕して拒絶された王の逆恨みもあると言われている。

さらに、反逆を疑われた廷臣のうち出頭した族長は翌日に殺され、この出来事がキャンディ民衆の気持ちを王から離れさせる決定的な契機になったと言われている。

家族を殺されたアハリポラはコロンボ周辺を支配していたイギリスに保護を求め、翌1815年イギリスはキャンディを王の暴政から解放するとして進軍。

3月10日にはキャンディ条約によって二千三百年以上続いたスリランカの王政は終わりをむかえたのであった。

アハリポラはイギリス支配下で重用されたが、二年後に起きた大反乱の首謀者として囚われ、1829年にやはりイギリス統治領のモーリシャスで没した。

**
キャンディ湖に沈められたアハリポラの妻は、今でもいちばん小さかった娘の名前を呼びながら白い服で通りを歩くと伝えられている。
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ティー・ファクトリーとペラデニア植物園

2015-01-21 08:30:42 | スリランカ
スリランカはもともとセイロン。今でもセイロン・ティーが栽培されている。特に栽培の盛んなのが海抜500メートルほどのキャンディKANDYの町周辺から海抜1800メートルのヌワラエリアにかけての一帯。

今日はキャンディの町から少し山へ行ったところにあるティー・ミュージアムを訪れる。街を出るとすぐに舗装もしっかりしていない山道になる道にくらべて立派な看板ここからひとつコーナーをまわると、昔のティー・ファクトリーがすっくと立っていた。

ここは1925年から1986年まで稼働していた工場である。

セイロン茶の歴史は思うより古くはない。大英帝国はもともとコーヒーを栽培していたのだが、思うようにいかなくて、北インドのアッサムで発見した種類のお茶を持ち込んで成功したのだ。

ミュージアムに入ったところに胸像のあったジェームス・テーラーという人物がその主導者。セイロン茶の父といえる存在だ
彼は1867年にはじめて茶を植え、四年後にはじめての商品23ポンドだけをロンドンの市場へ送り出した。幸いそれは好評で、翌年には10エーカーの茶畑を完成させていた。

係員の女性が一緒にまわってくれる。
お茶の葉を揉む工程の機械がこれむかし、ジェームス・テーラーがはじめたころは手で、こんなフライパンみたいなので行っていた作業である。


テーラーが成功すると、そこに目を付けた若者がやってきた。
若干四十歳のトーマス・リプトンはジェームス・テーラーが五十七歳という若さで(赤痢で)亡くなる二年前にセイロンにやってきた。二人はきっと会っているだろう。

すでにイギリスにチェーンストアを持つ資本家だったリプトンは、当時上流階級の飲み物だった紅茶を庶民の手の届く金額で提供しようと考えた。直営の工場をつくり、「茶畑から直接ティーポットへ」というスローガンをぶちあげた。
輸送も自前

結果、当時1ポンド(およそ450グラム)が3シリングという値段で売られていた紅茶は、1.7ペンスで販売できるようになった(1シリングは12ペンス)。※当時労働者は一週間二ポンド程度で生活していた(20シリングが1ポンド)。大価格破壊である。

この工場が稼働していた時代には、この箱に各種茶葉が満杯だったのだろう
最後に最上階でティーをいただきます

**
街へもどる。
いろとりどりの布が干してあるのは洗濯屋さん大通りの突き当りには巨大な仏陀
キャンディの町のど真ん中にある刑務所の壁

そして、キャンディ王朝時代から王室の庭園だったというペラデニア植物園へ


●今上天皇が皇太子のころに美知子様と共に植えられた「イエロー・トランペット」

●ベネズエラのバラは直径二十センチぐらいある巨大な花が咲いていた

●セイロン・アイロン・ウッドというこの木は、1891年にロシア皇太子ニコライが植えたもの。そうか、この年の5月に来日し、大津で警官に斬りつけられる「大津事件」が起こる旅で、セイロンにも立ち寄っていたのか。ロシア革命で悲劇の皇帝となることなぞ知る由もなし
このプレートは2011年にロシア大使が設置したと書かれている歴史の長い植物園です。

広大な植物園、日陰はとても快適、ひとやすみ


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