旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ポロンナルワ~スリランカ第二の古都

2015-01-19 17:24:50 | スリランカ
《手造の旅》スリランカ、三日目。ダンブッラ石窟寺院の次にポロンナルワ都市遺跡。

遺跡見学の前に、堤防から滔々と清らかな流れが目に留まった。

今から一千年も前に、パラクラマ・バーフ王が建造した人造湖だと聞いて驚いた。
現代になって修復されたとはいえ、現在でもこの水が現代のポロンナルワの町を繁栄させているのだ。

それこそ、古代ローマにも匹敵するような土木工事が行われていたという事。


紀元前からの首都とされたアヌラダプラから、紀元後10世紀ごろに80㎞ほど南に位置するここに首都が移された。
スリランカのシンハラ王朝は、常に南インドのタミル人との戦いと共存の歴史をもっている。
ポロンナルワに都を定めたヴィジャヤバーフ一世が王子キッティという名前だった時代には、もっと南の山岳地帯ルフラまで追われていたのだった。

●三十二本の大理石の柱に支えられた木造二階建ての寺院跡。
この建物は首都になる以前の七世紀から存在したとされる

通常のムーンストーンに入る牛は、ヒンズー教徒が多かったこの時代に配慮して、足で踏む場所には描かれていない。
横にはちゃんとおりました

ポロンナルワを取り戻し、仏教徒の聖遺物である「ブッダの犬歯」を収める堂を建設し、ヴィジャヤバーフ王は敵である筈のタミル人とも時々にうまく付き合っていた。
衛兵(Velakkaraと呼ばれる)はタミル人だったのである。
●タミル人が理解できる文字で記された「保証書」がこれ。時には反乱さえ起こしたタミル人の衛兵たちだったが、ブッダの聖遺物を守る役割をまかされていたのである。


王が祈るための場所は少し変わったかたちにねじれた石の柱で支えられていた
隣りにあった筈の堂はATADAGE(アタダーゲ)と呼ばれるが、ATAは数字の8である。これが何を意味するのか諸説ある。ひとつは八つの聖遺物を収めていたからというもの。
もうひとつは、この建物は八日間で完成したから、というもの。
実際この建物に使われている建材は前の首都アヌラダプラでも使われていたものと推察されているのだそうだ。

●仏教が衰退しかかっていたこの時代に、現在のタイやミャンマーから僧を呼び寄せた記録もあり、こんなタイの様式をつかった仏塔もある

●ニッサンカマッラ王の時代にシギリアからもってられた5トンの石でつくられた「石の本」
⇒これについてはこちらももう少し書きました。

●唯一屋根も残っている建造物、内部には損傷はしているが仏像が設置されていて、その目にはかつて宝石がはめ込まれていたとされる


**ここまでが「クワドラングル」と呼ばれる四角い形をした少し高台になったエリア**

北にはたくさんの寺や宮殿の跡がのこっているのだが、とても全部見て回る時間はない。大事な所を選んでバスでまわる。
●ポロンナルワ最大の仏塔であるランコット・ヴィハーラ

高さ55メートルということは、パリの凱旋門より高いのだ。
もともとは先端が金色に塗られていたとされる。

●17メートルを超える仏像が見下ろすランカティカラ
僧院であり、大学であったエリアの中心とされている。

かつてはフレスコ画で美しく飾られていたなごりがところどころに見つかる。

●キリ・ヴィハーラ「キリ」とはミルクを意味する。白いゆえのネーミング。12世紀の皇后のひとりが建設させたとされる。

●ガル・ヴィハーラ
最初に紹介した人造湖を建設したパラクラマ・バーフ王が施主となった建物の跡。
三体の巨大なブッダは、左から瞑想、悟り、涅槃の姿をあらわしているとされる。
巨大だが、それぞれが繊細な感情表現をもってつくられているのが感じられる。




***
ちょっと遅めの昼食は、つい先日当選した新しい大統領シリセーナさんの弟が経営しているのだそうだこの地方を地盤とする一族の出身なのだそうだ。

****
ガイドのマーティンさんのお父さんは砲兵隊の中佐で、この基地にも滞在していたのだそうだ子供のころに父親の職場を訪問した話をしてくれた。

*****
ミネリアの自然保護地区でサファリ体験!
ジープが待つ場所で突然蒸気機関車に遭遇
⇒この話、もう少しこちらに書きました。

「象さ~ん、出てお出でぇ」

いたいた、八頭のファミリー。静かに静かに。

といっても、どんどんジープが集まってくるのですが。

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ダンブッラの石窟寺院

2015-01-19 10:54:50 | スリランカ
カンダラマ、ヘリタンスホテルの朝

敷地内を走っていると野生の孔雀が

十五分ほどでダンブッラの町にある石窟寺院入口へ到着本来はこで車から降りて、岩山の中腹少し上にある石窟寺院まで階段を登ってゆくのだが、今日は小さ目の車なのでもうすこし上の駐車場までいくことができた。しかし、そこからでも十分ほどは坂を上らなくてはならないそして、入口に到着周囲を睥睨する岩山である。

**
ダンブッラの五つの石窟はこんな風。入口手前から古い順に並んでいる。


入ってすぐのところに石窟寺院の縁起を記した大きな石板が置かれている。
●紀元前一世紀、南インドの王朝との戦いに敗れ、都アヌラダプラを追われたワタガンバ王(日本語のガイドブックではワッタガーミニと表記されている。別の日本語資料ではワラガム・バーフとなっている。だが、実際に小松の耳にきこえてきたのは「ワタガンバ」だった。)が、この岩山に逃れ、十四年間の雌伏の末に勝利し、都をとりもどした。
都をとりもどした王は、この石窟にすでにあった第一窟の涅槃像に金箔をほどこし、第二窟をつくって仏陀の像を寄進した。
ここはそれ以降石窟寺院として発展していった。この石板を寄進して縁起と、自らの仏教にたいする貢献を記したのは十二世紀の王ニッサンカマッラである。

★第一窟と第二窟はニッサンカマッラ王の時代までにつくられた。
第一窟を入ると、部屋いっぱいに十四メートルの涅槃像が岩から削りだされている。

足の裏が少しずらされていることで、死去した後の姿をあらわしているそうな。


周囲にはサルがたくさん

★第二窟は横長に五十二メートルと最も大きいく壁や天井いっぱいにフレスコ画が描かれている。


現在の入口は後の時代に開けられたもので、もともとは下の写真の仏像の右手が入口だった。仏像の右後ろに肘だけ見えているのが建立者のニッサンカマッラ王。だが、近くまで行く事はできない。


天井には仏陀の物語が描かれている。これはコブラが仏陀を襲っているのではなく瞑想する仏陀を暴風雨から守ったという逸話であります南アジア圏ネパールで、同じようにコブラが王を守るように登場する像を見かける。これは、仏陀はヒンズー教の神であるヴィシュヌ神の生まれ変わりの一つであり、ヴィシュヌ神は王の守護をすると信じられているから。この洞窟にも黒い体をしたヴィシュヌが祭られている。


悟りを開いた巨大な仏陀のまわりに、たくさんの悪鬼が驚いて大騒ぎする姿がユーモラスにえがかれている一番下にはブッダにむかって膝をつくゾウ。そこから転がり落ちるゾウ使いもまた悪鬼のような顔をしている。


第二窟にはどんな渇水の時にも止まることなく流れ続けてきたという聖水が天井から滴り落ちている。

「歩き方」によると、ダンブッラという名前は「水の湧き出る岩」という意味なのだそうだ。

★第三窟
キャンディ王朝時代、キルティ・スリ・ラージャハーにより建設され、二窟の例にならって、ここでも王本人が冠をかぶった姿で祈りをささげた像がある

★第四窟
同じくキャンディ王朝時代の建造。
二十年ほど前に、欧米人が奥に見える坐像の膝に乗って記念写真を撮り、それが新聞に掲載されて大問題となった。

それで塗りなおしたので、これだけが鮮やかな黄色をしている。
また、その前にある仏塔はそこに隠されていたという宝石を狙って盗掘され、今でも向こう側に穴が開いているんだそうな。

★第五窟
王朝の最末期につくられたせいか造りが荒く感じられる。また、修復も熱心にされていないようで、天井ははがれた箇所もあった


さて、下りは急な階段を下りて正門前に待つバスまでいかなくては。
しばらくいくと青空に巨大な仏陀の後ろ姿。

下まで降りて振り返ると、巨大な口を開けた獅子のような入口。
これはもちろん近年になってつくられたもので、博物館になっているのだそうな。


コメント
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