↑ダイニングにはガスランプがあったが↑ガンゴトリのツーリスト・バンガローには電気がきていなかった。手配会社の人が「予約するためにここまで来ました」と言っていたほど、当時は田舎だったのである。
早めに夕飯を終えて部屋に入るとロウソクが置かれていた↑
↑セルフタイマーでフラッシュを使っての撮影なのでロウソクの光は弱く見えるが、実際はこれがなければ部屋は真っ暗↑カセットウォークマンとチャイ(ミルクティー)用のマイカップがとなりに見える↑
洗面台さえない。
夜中に目が覚める。
ごうごうと雨風が薄い壁を打つ音がする。
トイレは外につくられている。
廊下に出て↓フラッシュを使って撮影した写真↓
↑ロウソクが小さく写っている。
奥の扉の外、十メートルほど離れてトイレの建物がある。
雨風の中、目覚まし時計の灯りだけで用を足してもどった。
**
翌朝
記憶ではガンゴトリ氷河まで歩いた。
デリーまで同じ道を戻った。
↑カフェテリアのメニュー表↑チーズ・トマト・サンドイッチ6.00↑当時1インド・ルピーは10円ほど。補助通貨100パイサ=1ルピー。
※2022年の今は1ルピー=1.5円ほどと大幅に下落している
***
デリーに戻り、亡命チベット人のための「チベット・デイ・スクール」を訪問した。
★チベットは清国の朝貢国だったが、辛亥革命後も一貫して独立国として存在してきた(チベット側の主張)。現在の中華人民共和国による統治を不服とするチベット蜂起(1959)がきっかけとなり、ダライラマ14世はインドに亡命した。ヒマラヤの中のダラムサラに今も「チベット亡命政府」がある。
小松が同行した1988年の旅は、「チベット亡命政府」に多額の寄付をした団体が招待をうけてのことだった。
独立国・チベットが発行していた↑紙幣
インド側で主にチベット亡命政府を支援しているのは大統領だったので、我々一行も最終日に大統領と懇親会があった。その席で「そろそろ飛行機の時間があるので失礼しなくてはなりません」と言うと、大統領は「飛行機を待たせておくよう、電話しておくから」と、答えたのだった。
***
●クトゥブ・ミナールには驚いた↑目を見張る建造物がたくさんあるインドにおいても指折りのひとつに違いない。
※2005年の訪問をブログに詳しめに書いております
↑マハトマ・ガンディーのガート↑
ヒンズー教徒は墓をつくらない。ガートとは火葬をした場所である。
そこがガンディーの墓のように、人々が集まる場所になっている。
※2005年に訪問した時の話を載せています
街中の交通はいつもカオス
↑公園で「耳かき屋」に声をかけられて、押しにまけてやってもらったっけ↑
なーんでも商売になる、インド。
↑日本から同行していたインド人の通訳さんが「インド人の仕立屋は腕が良いよ。行くかい?」と言う。
カシミアの上下を仕立ててもらったのは、どこにいってしまったんだろう。
早めに夕飯を終えて部屋に入るとロウソクが置かれていた↑
↑セルフタイマーでフラッシュを使っての撮影なのでロウソクの光は弱く見えるが、実際はこれがなければ部屋は真っ暗↑カセットウォークマンとチャイ(ミルクティー)用のマイカップがとなりに見える↑
洗面台さえない。
夜中に目が覚める。
ごうごうと雨風が薄い壁を打つ音がする。
トイレは外につくられている。
廊下に出て↓フラッシュを使って撮影した写真↓
↑ロウソクが小さく写っている。
奥の扉の外、十メートルほど離れてトイレの建物がある。
雨風の中、目覚まし時計の灯りだけで用を足してもどった。
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翌朝
記憶ではガンゴトリ氷河まで歩いた。
デリーまで同じ道を戻った。
↑カフェテリアのメニュー表↑チーズ・トマト・サンドイッチ6.00↑当時1インド・ルピーは10円ほど。補助通貨100パイサ=1ルピー。
※2022年の今は1ルピー=1.5円ほどと大幅に下落している
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デリーに戻り、亡命チベット人のための「チベット・デイ・スクール」を訪問した。
★チベットは清国の朝貢国だったが、辛亥革命後も一貫して独立国として存在してきた(チベット側の主張)。現在の中華人民共和国による統治を不服とするチベット蜂起(1959)がきっかけとなり、ダライラマ14世はインドに亡命した。ヒマラヤの中のダラムサラに今も「チベット亡命政府」がある。
小松が同行した1988年の旅は、「チベット亡命政府」に多額の寄付をした団体が招待をうけてのことだった。
独立国・チベットが発行していた↑紙幣
インド側で主にチベット亡命政府を支援しているのは大統領だったので、我々一行も最終日に大統領と懇親会があった。その席で「そろそろ飛行機の時間があるので失礼しなくてはなりません」と言うと、大統領は「飛行機を待たせておくよう、電話しておくから」と、答えたのだった。
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●クトゥブ・ミナールには驚いた↑目を見張る建造物がたくさんあるインドにおいても指折りのひとつに違いない。
※2005年の訪問をブログに詳しめに書いております
↑マハトマ・ガンディーのガート↑
ヒンズー教徒は墓をつくらない。ガートとは火葬をした場所である。
そこがガンディーの墓のように、人々が集まる場所になっている。
※2005年に訪問した時の話を載せています
街中の交通はいつもカオス
↑公園で「耳かき屋」に声をかけられて、押しにまけてやってもらったっけ↑
なーんでも商売になる、インド。
↑日本から同行していたインド人の通訳さんが「インド人の仕立屋は腕が良いよ。行くかい?」と言う。
カシミアの上下を仕立ててもらったのは、どこにいってしまったんだろう。