旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》近江長浜と比叡山の旅~竹生島

2022-04-07 13:01:27 | 国内

びわ湖にむけておもいきり↑素焼きの「かわらけ」を投げる!
手前で地面に落ちて残念、と思ったら転がって鳥居を超えた(^^)

↑「かわらけ」を投げたのは↑写真右下の社殿から。
↑ここはかつて船から上陸してくぐる鳥居だった
↑この道こそが、かつての参拝ルートだった↑
地元ガイドのMさんに解説されて納得した。

「道の駅・水鳥ステーション」でつくっていただいたお弁当


赤こんにゃく、エビ豆、小鮎の南蛮漬け、黒豆のコロッケ、コウシン大根、小松菜…
小さいけれど近江がたくさん詰まっている。
竹生島へ渡るフェリーを待つ長浜港でひろげた

さよなら伊吹山↑

さよなら長浜城博物館

竹生島が近づいてくる。周囲二キロの切り立った崖の島。修験者の時代から神の島とされてきた。

冒頭写真の鳥居があるのは都久夫須(つくぶすま)神社。
上には行基によって開かれたとされる宝厳寺(ほうごんじ)がある。

↑フェリーを降りて宝厳寺への急な階段をのぼりはじめる。

「大弁財天」と呼ばれるのはここだけだと、ガイドのMさん↑

階段一段一段に奉納者の名前が刻まれている↑

↑登りきったところにあるのが弁財天を祀った本堂↑

ご本尊を拝むことはできないが、入って左右の木像もかなり歴史を感じさせる↓

この建物自体はしかし、昭和十七年に滋賀出身の瀧富太郎の寄進によって再建されたもの。

その由来を記した↑昭和十七年の顕彰碑↑

↑さらに少し上がった小さな広場に↑三重の塔。これも焼失の後近年再建された。

桜が盛りの階段を降り

国宝の「唐門」が↑これ

秀吉の大阪城から移築されたとガイドブックにあるが↑秀吉の死後三年間だけ京都の豊国廟にあった↑
この由来が判明したのは↓

オーストリアのエッゲンベルク城に保管されていた大阪城の絵に描かれていたのがみつかってから↑
あれ?移築されたのは建物の入り口部分だけだったのだ。

近年長い修理が終わって、元あった極彩色がよみがえった↑
移築された門がとりつけられている建物は観音堂で、
冒頭の「かわらけ投げ」ができる神社まで渡り廊下でつながっている↓

↑この廊下はなんと、秀吉の朝鮮出兵で建造された船の木材を利用して船をひっくり返した天井のカタチに建造されている。

↑途中に書かれた文字もその当時のものだろう

↑神社の建物も豊国廟からの移築をもとあった建物と合体させてあった↑

↑実に念入りな彫刻がほどこされている↑
弁財天はもとはこの社殿に祀られていたが、廃仏毀釈の折に現在の新しいお堂の場所に移され、代わりに神社の社殿とされたのだそうだ。社殿を背にして振り返ると↓

「海」を背景に、冒頭の「かわらけ投げ」ができる拝殿が見えた↑
拝殿まで行って本殿を振り返る↓

ほのかに赤い桜を脇にした姿↑

↑よく見ると龍がデザインされている↑

「ここは蛇がたくさんおるそうですよ。特に水辺の方には」

それで↑こんな伝説がうまれたのだろうか↑

向かって左には前出の渡り廊下が見える。

↑渡り廊下の下を港に向かって降りてゆく

今津への最終フェリーは14:50と早い。
「竹生島は夜はだれもいなくなるんです。神主さんも住職さんも専用のボートもってはるんです」

花盛りの「神住む島」を離れ

三十分で西岸の今津に到着

南下していく途中「白髭神社」の鳥居
一時間ほどで堅田↓

浮御堂もお見せすることができた。

17時には坂本の湖畔のホテルにチェックイン。
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《手造の旅》近江長浜と比叡山の旅~奥琵琶湖の桜、丸子船の館

2022-04-07 10:26:52 | 国内
「『見返りの桜』が見えてきますよ」
予期せぬ花盛りの大木が見えたので、即決で寄り道した。

水上勉の「桜守」でも賞賛されているというから「隠れた銘木」とは言えないかもしれないが、バスはとても入っていけない農道にある。
「清水の桜(しょうずのさくら)」という名前で滋賀県の案内にも載せられている。

「願わくば花の下にて春死なむ…」
西行のような気持になった人は↑いつの世にもたくさんいたのだろう(^^)
ねじれた太い幹に古い石塔が集まっていた。
加賀の前田候が京への旅の途上で振り返って見たという。
樹齢は三百年ほどと推定されている。


すぐ後に訪れた桜の名所「海津大崎」も、もちろん素晴らしかった。



朝いちばんでやってきたので車が少ないのが幸い。


海津大崎のお土産屋さん↑

少し登るとよりきれいに見える。


**その日の朝

起きて竹生島を眺める↑「紅鮎」の部屋からは↑オオタカの巣がある湖畔の木が見える

半露天風呂にアヒルの温度計を浮かべて

琵琶湖と一体になるのは気持ち良かった


***

海津大崎からトンネルを抜け、大浦の「丸子船の館」に到着。

琵琶湖独特の丸子船はかつて1400艘も行き交っていた。
京都と日本海を結ぶ大物流路だったことをぜひ知っていただきたかった。
下見の時にも丸子船のことを書いたけれど、今回ずっと詳しいお話がきけた。

「丸子船」という名称は側面に丸太を半分に割ったバンパーのような木材が使われていることに由来する↑
伝統的なスタイルだが実際にどのような役割かはっきりしないそうな。

↑黒い部分は銅板↑菜種油と墨を混ぜ合わせた練り物を防水用に塗りこめてあった↑

丸子舟建造所は十カ所あった。
それぞれ特徴的な「ツラ」をしていた。

「ツラ」とは丸子船の舳先のことで↑これは近江舞子のもの↑

展示されている船は昭和六年に建造された最後の丸子舟のひとつ。

↑台形の木材は帆柱を抜いた時に置いておくための台だった。
強風の時にはそうやって転覆を防いだのである。
この船ではすでに帆は使われず↑スクリューで航行していたが、台だけは変わらずにあった。


↑全長17mの百石船は二百五十俵もの米を積んでいた↑バンパー状の木材の部分まで沈んでいる写真があった↑

↑補修の跡が↑大切に使われていたことを感じさせてくれる。

琵琶湖と日本海を結ぶ運河計画について↑平重盛だけでなく↑こんなに多くの人が実現を目指して動き出していたのか↑この運河が実現していれば↑琵琶湖の水運は現代でも使われて続けていたことだろう。奥琵琶湖ももっともっと賑わっていたはずだ。


↑博物館は古い建物と二階でつながっている↑この建物、昭和三十年に塩津村と永原村が合併して西浅井村になった時の庁舎だった。
隣接する二つの村は仲が悪く、この建物ができるまでかつてのそれぞれの庁舎を二年交代で使い続けていたそうな。現在でも西浅井町の庁舎が旧塩津に建設されると、代わりに保健所や会館が旧永原村に建設されたとのこと。びっくりです(^^;
****

身長六メートルの巨大なお地蔵様↑北國街道の木之本地蔵へ寄る
※片目の蛙の話とともにこちらに書きました

「つるやパン」の名物

↑たくわんが挟まった「サラダパン」もちょっと味見していただいた

↑食べてみると「意外においしい」のです。
※こちらに詳しく書いております


午後は竹生島へ渡ろう
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