びわ湖にむけておもいきり↑素焼きの「かわらけ」を投げる!
手前で地面に落ちて残念、と思ったら転がって鳥居を超えた(^^)
↑「かわらけ」を投げたのは↑写真右下の社殿から。
↑ここはかつて船から上陸してくぐる鳥居だった
↑この道こそが、かつての参拝ルートだった↑
地元ガイドのMさんに解説されて納得した。
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「道の駅・水鳥ステーション」でつくっていただいたお弁当
赤こんにゃく、エビ豆、小鮎の南蛮漬け、黒豆のコロッケ、コウシン大根、小松菜…
小さいけれど近江がたくさん詰まっている。
竹生島へ渡るフェリーを待つ長浜港でひろげた
さよなら伊吹山↑
さよなら長浜城博物館
竹生島が近づいてくる。周囲二キロの切り立った崖の島。修験者の時代から神の島とされてきた。
冒頭写真の鳥居があるのは都久夫須(つくぶすま)神社。
上には行基によって開かれたとされる宝厳寺(ほうごんじ)がある。
↑フェリーを降りて宝厳寺への急な階段をのぼりはじめる。
「大弁財天」と呼ばれるのはここだけだと、ガイドのMさん↑
階段一段一段に奉納者の名前が刻まれている↑
↑登りきったところにあるのが弁財天を祀った本堂↑
ご本尊を拝むことはできないが、入って左右の木像もかなり歴史を感じさせる↓
この建物自体はしかし、昭和十七年に滋賀出身の瀧富太郎の寄進によって再建されたもの。
その由来を記した↑昭和十七年の顕彰碑↑
↑さらに少し上がった小さな広場に↑三重の塔。これも焼失の後近年再建された。
桜が盛りの階段を降り
国宝の「唐門」が↑これ
秀吉の大阪城から移築されたとガイドブックにあるが↑秀吉の死後三年間だけ京都の豊国廟にあった↑
この由来が判明したのは↓
オーストリアのエッゲンベルク城に保管されていた大阪城の絵に描かれていたのがみつかってから↑
あれ?移築されたのは建物の入り口部分だけだったのだ。
近年長い修理が終わって、元あった極彩色がよみがえった↑
移築された門がとりつけられている建物は観音堂で、
冒頭の「かわらけ投げ」ができる神社まで渡り廊下でつながっている↓
↑この廊下はなんと、秀吉の朝鮮出兵で建造された船の木材を利用して船をひっくり返した天井のカタチに建造されている。
↑途中に書かれた文字もその当時のものだろう
↑神社の建物も豊国廟からの移築をもとあった建物と合体させてあった↑
↑実に念入りな彫刻がほどこされている↑
弁財天はもとはこの社殿に祀られていたが、廃仏毀釈の折に現在の新しいお堂の場所に移され、代わりに神社の社殿とされたのだそうだ。社殿を背にして振り返ると↓
「海」を背景に、冒頭の「かわらけ投げ」ができる拝殿が見えた↑
拝殿まで行って本殿を振り返る↓
ほのかに赤い桜を脇にした姿↑
↑よく見ると龍がデザインされている↑
「ここは蛇がたくさんおるそうですよ。特に水辺の方には」
それで↑こんな伝説がうまれたのだろうか↑
向かって左には前出の渡り廊下が見える。
↑渡り廊下の下を港に向かって降りてゆく
今津への最終フェリーは14:50と早い。
「竹生島は夜はだれもいなくなるんです。神主さんも住職さんも専用のボートもってはるんです」
花盛りの「神住む島」を離れ
三十分で西岸の今津に到着
南下していく途中「白髭神社」の鳥居
一時間ほどで堅田↓
浮御堂もお見せすることができた。
17時には坂本の湖畔のホテルにチェックイン。