花吹雪の室生寺。本堂前の池越し、左奥に五重の塔。
五重の塔前の階段も貸し切り状態(^^)
高さは16mちょっと。
こぶりだが、この場所にちょうどよいサイズである。
**
高野山が女性の入山を認めていなかったのに対し、室生寺は古来女性の参拝をみとめてきた。
徳川綱吉の母桂昌院はもっとも大きな寄進者で、その墓のひとつもここにある
↑仁王門は昭和四十年のもの↑
くぐって、モリアオガエルのいる池を過ぎると
左手に「鎧坂(よろいざか)」がそびえている↑
武士の鎧の下の方に垂れた部分に似ていることからつけられた。
↑階段の手すりは昭和天皇行幸の際にとりつけられたそうだ。
のぼりきると、正面に●金堂↑中には平安から鎌倉期の見事な像※お寺のサイトから見ることができます
↑この堂自体が国宝↑ひさしの部分を江戸時代に増築したことがよくわかる。
それが必要なほどの人がやってくるようになっていた、ということ。
金堂に向かって左に↑●弥勒堂
奈良時代に興福寺からやってきた修円がこの堂も移築させたと伝わる。
※室生寺最古の奈良時代の木像にリンクします
修円は八世紀末に皇太子(後の桓武天皇)が病気になり、室生で平癒祈願をした五人の僧のひとり。
室生は雨乞いに効果のある龍神が住む洞穴があった。
↑金堂に向かって右奥にある赤い祠はその龍の穴の方向を拝むためにある。
龍はもともと猿沢の池に住んでいたけれど、采女(うねめ)が身投げしたのでここへ逃れてきたというお話
※猿沢池の采女の話はこちらにあります
金堂左手の階段をのぼると●本堂(灌頂堂)があり、中にはインドの神様のような如意輪観音菩薩が安置されている。
冒頭写真の小さな池は本堂前に位置している。
階段をのぼりきって五重の塔を見上げる。
右をみると小さな赤い廟がある↓
奈良興福寺からやってきた前出の修円のもの。
彼が実質的に室生寺を興した人物なのだろう。
承和二年(835)に室生寺で没し、一千年も(修復され・入れ替わってきた)塔を見上げているのだ。
参道でヨモギ入りもちもちどら焼きを食べて、安産寺へむかう。
****
道の駅「室生」から道を渡って電車の線路をくぐり右手にすすむと
★安産寺が見えてくる。バスではとても近づけない。
※光が変わると命がふきこまれるよう、こちらのブログに書きました
ここは住職がいるお寺ではなく、地域の人が伝えてきた一体のお地蔵様を祀る村の集会場。
毎月九日だけ開けて村人が集まるが、それ以外は連絡して開けていただく。
明治三十七年に建てられたお堂=集会場で↑待っていてくださった。
※お地蔵様ははじめ↑この写真左手・廊下の入口になっている場所に置かれていた↑
↑正面の仏像はこの集会場がつくられたときに、廃寺となった正福寺から移されてきた。
テレビで取り上げられた時の番組ビデオを二十分ほど見せていただくとおおよその歴史がわかる。
伝承が伝えるように上流の室生寺から増水した川に流されてきたとは思えないが、
もともと室生寺の金堂にあったお地蔵様だったことははっきりしている。
昭和十五年に、金堂に残された光背と高さがぴったり合うことが発見された↓
※こちらのページに光背と像が合体展示されたお姿の写真が載せられています
「国宝級の像を村の無住のお堂にはおいておけない」
文化庁が奈良の博物館に持って行ってしまい、村人たちはおおいに悲しんだ。
返還の陳情をすると
「盗難や火災に遭わない安全な収蔵庫があれば戻します」と言われた。
村人たちは私費を出し合って現在の収蔵庫を用意した。
↑もと置かれていた場所の奥が開かれ↑コンクリート製の保管練に続いている。
ゆっくり拝ませていただいて
ふたたび坂をおりて線路をくぐり車にむかう。
夕暮れ前に宿に到着。
五重の塔前の階段も貸し切り状態(^^)
高さは16mちょっと。
こぶりだが、この場所にちょうどよいサイズである。
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高野山が女性の入山を認めていなかったのに対し、室生寺は古来女性の参拝をみとめてきた。
徳川綱吉の母桂昌院はもっとも大きな寄進者で、その墓のひとつもここにある
↑仁王門は昭和四十年のもの↑
くぐって、モリアオガエルのいる池を過ぎると
左手に「鎧坂(よろいざか)」がそびえている↑
武士の鎧の下の方に垂れた部分に似ていることからつけられた。
↑階段の手すりは昭和天皇行幸の際にとりつけられたそうだ。
のぼりきると、正面に●金堂↑中には平安から鎌倉期の見事な像※お寺のサイトから見ることができます
↑この堂自体が国宝↑ひさしの部分を江戸時代に増築したことがよくわかる。
それが必要なほどの人がやってくるようになっていた、ということ。
金堂に向かって左に↑●弥勒堂
奈良時代に興福寺からやってきた修円がこの堂も移築させたと伝わる。
※室生寺最古の奈良時代の木像にリンクします
修円は八世紀末に皇太子(後の桓武天皇)が病気になり、室生で平癒祈願をした五人の僧のひとり。
室生は雨乞いに効果のある龍神が住む洞穴があった。
↑金堂に向かって右奥にある赤い祠はその龍の穴の方向を拝むためにある。
龍はもともと猿沢の池に住んでいたけれど、采女(うねめ)が身投げしたのでここへ逃れてきたというお話
※猿沢池の采女の話はこちらにあります
金堂左手の階段をのぼると●本堂(灌頂堂)があり、中にはインドの神様のような如意輪観音菩薩が安置されている。
冒頭写真の小さな池は本堂前に位置している。
階段をのぼりきって五重の塔を見上げる。
右をみると小さな赤い廟がある↓
奈良興福寺からやってきた前出の修円のもの。
彼が実質的に室生寺を興した人物なのだろう。
承和二年(835)に室生寺で没し、一千年も(修復され・入れ替わってきた)塔を見上げているのだ。
参道でヨモギ入りもちもちどら焼きを食べて、安産寺へむかう。
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道の駅「室生」から道を渡って電車の線路をくぐり右手にすすむと
★安産寺が見えてくる。バスではとても近づけない。
※光が変わると命がふきこまれるよう、こちらのブログに書きました
ここは住職がいるお寺ではなく、地域の人が伝えてきた一体のお地蔵様を祀る村の集会場。
毎月九日だけ開けて村人が集まるが、それ以外は連絡して開けていただく。
明治三十七年に建てられたお堂=集会場で↑待っていてくださった。
※お地蔵様ははじめ↑この写真左手・廊下の入口になっている場所に置かれていた↑
↑正面の仏像はこの集会場がつくられたときに、廃寺となった正福寺から移されてきた。
テレビで取り上げられた時の番組ビデオを二十分ほど見せていただくとおおよその歴史がわかる。
伝承が伝えるように上流の室生寺から増水した川に流されてきたとは思えないが、
もともと室生寺の金堂にあったお地蔵様だったことははっきりしている。
昭和十五年に、金堂に残された光背と高さがぴったり合うことが発見された↓
※こちらのページに光背と像が合体展示されたお姿の写真が載せられています
「国宝級の像を村の無住のお堂にはおいておけない」
文化庁が奈良の博物館に持って行ってしまい、村人たちはおおいに悲しんだ。
返還の陳情をすると
「盗難や火災に遭わない安全な収蔵庫があれば戻します」と言われた。
村人たちは私費を出し合って現在の収蔵庫を用意した。
↑もと置かれていた場所の奥が開かれ↑コンクリート製の保管練に続いている。
ゆっくり拝ませていただいて
ふたたび坂をおりて線路をくぐり車にむかう。
夕暮れ前に宿に到着。