↑「弁慶の担い堂」前↑
*
比叡山横川(よかわ)地区から西塔へ移動する道から琵琶湖と大津市が見晴らせた。
↑「居士林」は現代まで続く修行道場↑一般の人も参加可能※リンクします
暖房もなく、たくわんで器をぬぐって食べるような体験だそうだ
駐車場から参道への入口に「伝教太師廟 浄土院」と書かれている。最澄は世情を救うべく今もここに居るとされ、毎日膳を上げ下げしている。高野山の空海のようには知られていないが、最澄も同じように扱われている。浄土院ものちほどぜひ訪れたい。
「弁慶の担い堂」が見えてきた。
左の「常行堂」、右の「法華堂」共に1595年の建造。
剛力の弁慶なら二つの建物をつなぐ廊下↑を肩に乗せて「担える」というイメージ。
比叡山が世界遺産に認定される時に、この「弁慶の担い堂」の真ん中を抜けて本堂への坂道↓が高評価だったときいた。
間を抜けて坂をくだっていったところに見えてくる「転法輪堂」は↓比叡山で最も古い建物↓
信長の焼き討ちを逃れたのではなく、もとは大津にある三井寺の金堂だったのを秀吉が三井寺を廃絶した後に移築された。三井寺廃絶の理由は、秀吉の姉の子・秀次の謀反計画と通じていたからとされる。
※建物自体は南北朝時代の1343年の建造
坂をおりてゆく途中に↑真盛上人の生前墓=「寿塔」があった↓
↑ここには書かれていないが真盛上人は「天台真盛宗」を興した人。夢で最澄に出会い、源信の「往生要集」を手渡された。
1486年にエリート僧の暮らしを捨て、源信ゆかりだが荒れ果てていた西教寺に入った。
2019年桜の季節に訪れた時に知った「法難」のエピソードを思い出した。
※西教寺の桜の日のブログにリンクします
結果的に新派をはじめることになった真盛上人は、比叡山から歓迎はされていなかったのだろう。
志を貫こうとするとき、かならず反対する勢力がある。
少し歩いて、
最澄の廟がある「浄土院」に至る↑
↑内部には入れない。
なぜなら、今も生きている最澄さんをお世話する「侍真職(じしんしょく)」がいる場所だから。
さらに、千日回峰よりも厳しいとされる「十二年籠山業」をする場である。
※2021年に達成された方のインタビュー「和楽」のページにリンクします
戦後七人しか達成できていないのもわかる。
「浄土院」へ↑東塔からのこの道が正式なルートだった。
車で楽に移動する時代には本質が見えてこない。
最後に東塔も、少しだけ見学。
↑入口の土饅頭はなんと、信長の焼き討ち犠牲者のためのもの↑※つくられたのは二十世紀末です
本堂の前にある三つの石の印は?
ここで行われる問答の時、対峙する二者と審判が立つ場所を示している↑
今回、大手ツアーが必ず訪れる「根本中堂」は行かない↓
見学コースはあるが↑2026年ごろまでの大改修工事でまるごと覆われている↑
横川地区、西塔地区でじゅうぶんに見応えありました(^^)
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比叡山横川(よかわ)地区から西塔へ移動する道から琵琶湖と大津市が見晴らせた。
↑「居士林」は現代まで続く修行道場↑一般の人も参加可能※リンクします
暖房もなく、たくわんで器をぬぐって食べるような体験だそうだ
駐車場から参道への入口に「伝教太師廟 浄土院」と書かれている。最澄は世情を救うべく今もここに居るとされ、毎日膳を上げ下げしている。高野山の空海のようには知られていないが、最澄も同じように扱われている。浄土院ものちほどぜひ訪れたい。
「弁慶の担い堂」が見えてきた。
左の「常行堂」、右の「法華堂」共に1595年の建造。
剛力の弁慶なら二つの建物をつなぐ廊下↑を肩に乗せて「担える」というイメージ。
比叡山が世界遺産に認定される時に、この「弁慶の担い堂」の真ん中を抜けて本堂への坂道↓が高評価だったときいた。
間を抜けて坂をくだっていったところに見えてくる「転法輪堂」は↓比叡山で最も古い建物↓
信長の焼き討ちを逃れたのではなく、もとは大津にある三井寺の金堂だったのを秀吉が三井寺を廃絶した後に移築された。三井寺廃絶の理由は、秀吉の姉の子・秀次の謀反計画と通じていたからとされる。
※建物自体は南北朝時代の1343年の建造
坂をおりてゆく途中に↑真盛上人の生前墓=「寿塔」があった↓
↑ここには書かれていないが真盛上人は「天台真盛宗」を興した人。夢で最澄に出会い、源信の「往生要集」を手渡された。
1486年にエリート僧の暮らしを捨て、源信ゆかりだが荒れ果てていた西教寺に入った。
2019年桜の季節に訪れた時に知った「法難」のエピソードを思い出した。
※西教寺の桜の日のブログにリンクします
結果的に新派をはじめることになった真盛上人は、比叡山から歓迎はされていなかったのだろう。
志を貫こうとするとき、かならず反対する勢力がある。
少し歩いて、
最澄の廟がある「浄土院」に至る↑
↑内部には入れない。
なぜなら、今も生きている最澄さんをお世話する「侍真職(じしんしょく)」がいる場所だから。
さらに、千日回峰よりも厳しいとされる「十二年籠山業」をする場である。
※2021年に達成された方のインタビュー「和楽」のページにリンクします
戦後七人しか達成できていないのもわかる。
「浄土院」へ↑東塔からのこの道が正式なルートだった。
車で楽に移動する時代には本質が見えてこない。
最後に東塔も、少しだけ見学。
↑入口の土饅頭はなんと、信長の焼き討ち犠牲者のためのもの↑※つくられたのは二十世紀末です
本堂の前にある三つの石の印は?
ここで行われる問答の時、対峙する二者と審判が立つ場所を示している↑
今回、大手ツアーが必ず訪れる「根本中堂」は行かない↓
見学コースはあるが↑2026年ごろまでの大改修工事でまるごと覆われている↑
横川地区、西塔地区でじゅうぶんに見応えありました(^^)