旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》近江長浜と比叡山~西塔 「担い堂」、最澄の廟

2022-04-08 16:15:47 | 国内
↑「弁慶の担い堂」前↑

比叡山横川(よかわ)地区から西塔へ移動する道から琵琶湖と大津市が見晴らせた。




↑「居士林」は現代まで続く修行道場↑一般の人も参加可能※リンクします
暖房もなく、たくわんで器をぬぐって食べるような体験だそうだ

駐車場から参道への入口に「伝教太師廟 浄土院」と書かれている。最澄は世情を救うべく今もここに居るとされ、毎日膳を上げ下げしている。高野山の空海のようには知られていないが、最澄も同じように扱われている。浄土院ものちほどぜひ訪れたい。

「弁慶の担い堂」が見えてきた。

左の「常行堂」、右の「法華堂」共に1595年の建造。
剛力の弁慶なら二つの建物をつなぐ廊下↑を肩に乗せて「担える」というイメージ。
比叡山が世界遺産に認定される時に、この「弁慶の担い堂」の真ん中を抜けて本堂への坂道↓が高評価だったときいた。

間を抜けて坂をくだっていったところに見えてくる「転法輪堂」は↓比叡山で最も古い建物↓

信長の焼き討ちを逃れたのではなく、もとは大津にある三井寺の金堂だったのを秀吉が三井寺を廃絶した後に移築された。三井寺廃絶の理由は、秀吉の姉の子・秀次の謀反計画と通じていたからとされる。
※建物自体は南北朝時代の1343年の建造


坂をおりてゆく途中に↑真盛上人の生前墓=「寿塔」があった↓

↑ここには書かれていないが真盛上人は「天台真盛宗」を興した人。夢で最澄に出会い、源信の「往生要集」を手渡された。
1486年にエリート僧の暮らしを捨て、源信ゆかりだが荒れ果てていた西教寺に入った。
2019年桜の季節に訪れた時に知った「法難」のエピソードを思い出した。
※西教寺の桜の日のブログにリンクします

結果的に新派をはじめることになった真盛上人は、比叡山から歓迎はされていなかったのだろう。
志を貫こうとするとき、かならず反対する勢力がある。

少し歩いて、

最澄の廟がある「浄土院」に至る↑

↑内部には入れない。
なぜなら、今も生きている最澄さんをお世話する「侍真職(じしんしょく)」がいる場所だから。

さらに、千日回峰よりも厳しいとされる「十二年籠山業」をする場である。
※2021年に達成された方のインタビュー「和楽」のページにリンクします
戦後七人しか達成できていないのもわかる。

「浄土院」へ↑東塔からのこの道が正式なルートだった。
車で楽に移動する時代には本質が見えてこない。

最後に東塔も、少しだけ見学。

↑入口の土饅頭はなんと、信長の焼き討ち犠牲者のためのもの↑※つくられたのは二十世紀末です

本堂の前にある三つの石の印は?
ここで行われる問答の時、対峙する二者と審判が立つ場所を示している↑

今回、大手ツアーが必ず訪れる「根本中堂」は行かない↓

見学コースはあるが↑2026年ごろまでの大改修工事でまるごと覆われている↑

横川地区、西塔地区でじゅうぶんに見応えありました(^^)
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《手造の旅》近江長浜と比叡山~横川(よかわ)

2022-04-08 10:10:49 | 国内
「おみくじ」の考案者、魔除け祈祷で自分も鬼のような姿に見えたという元三太師良源の墓↑
本人が生前に指示した通りの質素さで現代まで受け継がれているのは幸い。

↑少し下がったところには彼を慕うあまり死後も傍に葬られることを望んだ弟子の墓がある↑
※こちらに少し書きました


通常ツアーの比叡山観光ではあまり訪れない横川(よかわ)地区↑
↑横川の中でもいちばん北東方向(鬼門=上の図でいちばん上)を選んで自らの墓を置いた良源は、都の鬼門を護る比叡山を護る横川を護る・つもりだったのだ。

今回の旅の初日で彼の生誕地にできたお寺も訪れた※その日のブログにリンクします
比叡山が現代まで続く多くの日本仏教の祖が学ぶ場所になったのは、良源が復興させたおかげである。

↑駐車場から横川中堂への道にはここで学んだ僧たちの物語がパネルになっている。
道元、法然、親鸞、日蓮…ここは日本の大学のような場所だったのだ。

↑「元三太師堂」は晩年の良源が住んだ場所とされている。
最澄の時代に横川はなかったが、最澄の愛弟子で三十歳若い慈覚大師円仁が東塔から五キロ離れたこの地に移り住んだ。
良源はその約百年後に住んだ。

入口にはここが「四季講堂」と呼ばれるようになった由来が書かれている↑↓

↑村上天皇が後継を授かる祈祷をするよう良源に依頼し、成功。
喜んだ天皇の勅命で、春夏秋冬季節ごとに法華経を講義をするようになったことによる。

↑入口の「大津絵」の鬼がかわいい(^^)↓

このお堂の正面には良源の姿を映した絵が軸になって飾られている。
★伝説
ロウソクでできた良源の影は↓本人が移動しても消えなかった。

↓弟子がそれを縁取って残したものを軸にして「御影」としたのだそうな。
もちろん撮影は禁止。目を凝らしてみたが真っ黒でよくわからなかったけれど(^^)

ご住職が出てて来てくださりおみくじの由来と「八方壇」で行われる問答の話をしてくださった。
これも撮影禁止だが、本堂の中央に黒塗りのお立ち台みたいなところがあって、ここで仏教の問答をする。
※同様の問答が東塔でも行われるとあとからきいた

お話終わって、お下がりの饅頭をいただきました(^^)


良源の墓に行く途中↑「行院」の前を通る。
ここは今でも僧侶になるための修行が行われる場所で、瀬戸内寂聴さんもここで学んだのだそうだ。

↑良源廟への階段↑右側に冒頭に言及した弟子の墓がある
***
遠回りして「恵心堂」へ

途中に資材置き場にしかみえない広場があったが、よくみると海軍慰霊碑がある。
↑右奥にちらっとみえる白い建物はもとは宝物館だったというが、今は閉館して久しいそうな。あぁもったいない。

↑良源の弟子中の出世頭といってよい源信恵心が代表著書「往生要集」を執筆していた場所↑
現在のお堂はふもとの坂本から移築されたのだそうだ。

↑傍らの解説版によると、円仁が無事に留学から戻った際、祈願していた新羅明神を祀ったもの↑

円仁は最澄の弟子中の出世頭。
師が天台山の近くしか訪問せずに帰国したのを残念に思っていたのを知って、約四十年後に大陸へ。
唐から巡礼の許可がなかなか得られず、二度諦めて帰国しかけたが暴風雨で出来ず、結果的に五台山や長安まで至る足掛け九年の大旅行をした。
克明な旅行記「入唐求法巡礼記」を残している。

↑さいごに「横川中堂」を少し見学

↑昭和十五年に焼失した後コンクリートでそっくりに再建されている↑

午後、西塔エリアへ移動する
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