そもそも裸足で上るきまりになっている参道なのだが、
外からの方には親切にスリッパが用意されているのだ。
奥琵琶湖の隠れ里・菅浦、ついにやってきた。
*
4月1日午後、まず訪れたのは山門(やまかど)公民館
ここは平安時代からの馬頭観音像をお護りしている。
すぐに二階に通されると
三尊鎮座しておられた。
いちばん左、憤怒の形相をしておられるのが馬頭観音様。
平安時代後期11世紀ごろに製作されたとされる。
もともとどんな場所にあったのかは分かっていない。
山門集落のはずれのお堂に護られていた。
平成26年春に解体修理された↓
↑江戸時代に修復されて現在のお姿になったが、もともとは八臂=斜め上にも二本の手がのびていたとわかった。
馬頭観音は、人間の煩悩を馬のようにむしゃむしゃ食べてくれるのだそうな。
事前に図録で予習はしていたが、
実際に目の前にすると江戸時代の彩色で隠されてしまった平安時代オリジナルの姿が見えてくる。
**
桜の開花に少し早い時期だったが
「清水の桜(しょうずのさくら)」だけは待っていてくれた。
※リンクします
***
海津大崎もまだ開花していない。
開花の時期だったらこんなにスムーズに通れなかっただろう。
↑葛篭尾崎(つづらおざき)の入り口にさしかかると道が二つに分かれる↓
↑「暴走くり返すな」の看板…
峠道をバイクで暴走するヤツらが出るのだそうだ。
眺めは最高だしバイクで走りたくなる道ではあります。
我々、まずは下の菅浦集落へ。
「重要文化的景観」に指定されている※長浜米原観光情報サイトにリンクします
↑村の出入りチェックポイントだった「四足門」は室町時代にはその存在が文書で確認されている。
当時四か所あったうちの二か所に同じ形状の門がある。もちろん当時のものではないのだろうけれど。
湖沿いに細長くのびた村のいちばん奥まで車で行ってもらい、下車して村の中の道を歩きはじめる。
↑もうひとつ残っている「四足門」
菅浦への道は1970年代まで湖岸道路がなかった。
湖側から船で着くか、背後の急峻な山を歩いて下りてくるしか入る方法はなかった。
こんな場所だから、古来戦に負けて逃げ込む人はあった。
冒頭写真の裸足で上がる須賀神社参道の先には、
西暦764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で廃位された淳二天皇の御陵がある(とされている)。
※淡路に淳二天皇の正式な御陵はある
淳仁天皇は天武天皇の孫。
都での戦いに敗れ、脱出して湖西を北上。
が、琵琶湖での戦いを密かに逃れてこの菅浦にかくまわれたという伝承なのだ。
淳仁天皇が蹴鞠をしていたと伝わる場所↑
↓もうひとつの伝承…
西暦1573年(天正元年)の小谷城落城のあと、
浅井長政の次男が密かに菅浦に逃れ僧侶として生き延びた。
菅浦はなるほど奥琵琶湖の隠れ里である。
↓須賀神社の参道の話にもどる↓
本来はこの鳥居から先は素足にならなくてはならないのだが
ずーいぶん長いし、冬は雪も積もるし…ということなのか
途中に資料館もあるからということなのか
↑ここから先の石段の部分だけでよしということになっている
↑それでもそこそこ距離はあるしずいぶん歩きにくかった。
↑のぼりきってすぐ前に拝殿
↑菊の紋章入り
↑すぐ後ろに本殿があり↑そのすぐ後ろに石積みが見える↑
古墳のよう↑
淳仁天皇の生きた8世紀は、いわゆる「古墳時代」は終わっている。
しかし、天皇の廟なら古墳の形状をとっていてもおかしくない。
この上がどうなっているのか…
「ちょっとスリッパであがるのはたいへんですな」
登りかけたガイドさんが引き返してきた。
あとから調べてみると、
「舟形の御陵」は本殿を囲むようになっているようだった。
つまり、我々はすでに古墳の中に立っていたのか。
****
参道を降りて菅浦集落を歩くと
↑「第●●作業所」がそこここにあるのに気付く↓
半世紀前、ヤンマーが地元振興のために設立した「ヤンマー家庭工場」だ。
※2018年に「長浜くらしノート」さんが取材されたページにリンクします
菅浦の文化を守る・継承するといっても、
役所が補助金を出すだけでは成り立たない。
そこに生活できる仕事がなければ人はいなくなる。
ヤンマーの創業者山岡孫吉はそんな風にも考えていたのかしらん。
菅浦は四月最初の土日に神輿が三基出る祭りがある。
「もう担ぎ手がいないんですよ。今年は一基出せるかなぁ…」
↑種芋をつくっている方があった
*****
菅浦集落を出て分岐点へ戻り、
葛篭埼半島の尾根を走る「奥琵琶湖パークウェイ」に入る。
展望台のあるあたりにも大きな古墳があるようだ。
琵琶湖を行き来する船が見上げる山の上にたくさんの古墳が並んでいた様は壮観だっただろう。
対岸の湖畔に山本山が黒くのびている↑きのう訪れた「西野水道」はあの下を貫通させたのか※ブログにリンクします
↑左奥に削り取られた白い山肌を見せているのが伊吹山↑あの逆側が関ケ原になる。
奥琵琶湖を一目で感じさせてくれる鳥瞰図だった。
外からの方には親切にスリッパが用意されているのだ。
奥琵琶湖の隠れ里・菅浦、ついにやってきた。
*
4月1日午後、まず訪れたのは山門(やまかど)公民館
ここは平安時代からの馬頭観音像をお護りしている。
すぐに二階に通されると
三尊鎮座しておられた。
いちばん左、憤怒の形相をしておられるのが馬頭観音様。
平安時代後期11世紀ごろに製作されたとされる。
もともとどんな場所にあったのかは分かっていない。
山門集落のはずれのお堂に護られていた。
平成26年春に解体修理された↓
↑江戸時代に修復されて現在のお姿になったが、もともとは八臂=斜め上にも二本の手がのびていたとわかった。
馬頭観音は、人間の煩悩を馬のようにむしゃむしゃ食べてくれるのだそうな。
事前に図録で予習はしていたが、
実際に目の前にすると江戸時代の彩色で隠されてしまった平安時代オリジナルの姿が見えてくる。
**
桜の開花に少し早い時期だったが
「清水の桜(しょうずのさくら)」だけは待っていてくれた。
※リンクします
***
海津大崎もまだ開花していない。
開花の時期だったらこんなにスムーズに通れなかっただろう。
↑葛篭尾崎(つづらおざき)の入り口にさしかかると道が二つに分かれる↓
↑「暴走くり返すな」の看板…
峠道をバイクで暴走するヤツらが出るのだそうだ。
眺めは最高だしバイクで走りたくなる道ではあります。
我々、まずは下の菅浦集落へ。
「重要文化的景観」に指定されている※長浜米原観光情報サイトにリンクします
↑村の出入りチェックポイントだった「四足門」は室町時代にはその存在が文書で確認されている。
当時四か所あったうちの二か所に同じ形状の門がある。もちろん当時のものではないのだろうけれど。
湖沿いに細長くのびた村のいちばん奥まで車で行ってもらい、下車して村の中の道を歩きはじめる。
↑もうひとつ残っている「四足門」
菅浦への道は1970年代まで湖岸道路がなかった。
湖側から船で着くか、背後の急峻な山を歩いて下りてくるしか入る方法はなかった。
こんな場所だから、古来戦に負けて逃げ込む人はあった。
冒頭写真の裸足で上がる須賀神社参道の先には、
西暦764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で廃位された淳二天皇の御陵がある(とされている)。
※淡路に淳二天皇の正式な御陵はある
淳仁天皇は天武天皇の孫。
都での戦いに敗れ、脱出して湖西を北上。
が、琵琶湖での戦いを密かに逃れてこの菅浦にかくまわれたという伝承なのだ。
淳仁天皇が蹴鞠をしていたと伝わる場所↑
↓もうひとつの伝承…
西暦1573年(天正元年)の小谷城落城のあと、
浅井長政の次男が密かに菅浦に逃れ僧侶として生き延びた。
菅浦はなるほど奥琵琶湖の隠れ里である。
↓須賀神社の参道の話にもどる↓
本来はこの鳥居から先は素足にならなくてはならないのだが
ずーいぶん長いし、冬は雪も積もるし…ということなのか
途中に資料館もあるからということなのか
↑ここから先の石段の部分だけでよしということになっている
↑それでもそこそこ距離はあるしずいぶん歩きにくかった。
↑のぼりきってすぐ前に拝殿
↑菊の紋章入り
↑すぐ後ろに本殿があり↑そのすぐ後ろに石積みが見える↑
古墳のよう↑
淳仁天皇の生きた8世紀は、いわゆる「古墳時代」は終わっている。
しかし、天皇の廟なら古墳の形状をとっていてもおかしくない。
この上がどうなっているのか…
「ちょっとスリッパであがるのはたいへんですな」
登りかけたガイドさんが引き返してきた。
あとから調べてみると、
「舟形の御陵」は本殿を囲むようになっているようだった。
つまり、我々はすでに古墳の中に立っていたのか。
****
参道を降りて菅浦集落を歩くと
↑「第●●作業所」がそこここにあるのに気付く↓
半世紀前、ヤンマーが地元振興のために設立した「ヤンマー家庭工場」だ。
※2018年に「長浜くらしノート」さんが取材されたページにリンクします
菅浦の文化を守る・継承するといっても、
役所が補助金を出すだけでは成り立たない。
そこに生活できる仕事がなければ人はいなくなる。
ヤンマーの創業者山岡孫吉はそんな風にも考えていたのかしらん。
菅浦は四月最初の土日に神輿が三基出る祭りがある。
「もう担ぎ手がいないんですよ。今年は一基出せるかなぁ…」
↑種芋をつくっている方があった
*****
菅浦集落を出て分岐点へ戻り、
葛篭埼半島の尾根を走る「奥琵琶湖パークウェイ」に入る。
展望台のあるあたりにも大きな古墳があるようだ。
琵琶湖を行き来する船が見上げる山の上にたくさんの古墳が並んでいた様は壮観だっただろう。
対岸の湖畔に山本山が黒くのびている↑きのう訪れた「西野水道」はあの下を貫通させたのか※ブログにリンクします
↑左奥に削り取られた白い山肌を見せているのが伊吹山↑あの逆側が関ケ原になる。
奥琵琶湖を一目で感じさせてくれる鳥瞰図だった。