琵琶湖沿いの山を220m掘り抜いた西野水道。
江戸時代の水抜き穴だから雨の後は水路のようになる。
そこを歩く。
※今回の動画をごらんください
↑余呉川の水が溜まって水害に苦しんむ西野集落を救おうと発案された水路だが↑1836年には西野だけ大豊作だった↑
「水路はやめよう」という意見も出たそうだ。目の前のことしか見えなくなるのを責められない。
堀りはじめる前の意思統一のほうが苦労が多かったのではないだろうか。
水路プロジェクトの発案者=充満寺住職恵荘(えしょう)にいかに人徳があろうと、
成功するかわからない作業に財産を投じるには覚悟が要る。
彦根藩の公共工事ではない。
百戸ほどの西野の人々が食を減らし、山や土地を売って費用を捻出するのだ。
プロジェクトが失敗してもかかった費用は支払わなくてはならない。
江戸時代に工事費用を捻出するために隣村に売った土地を、21世紀になった今でも買いもどし続けているときいた。
**
《手造の旅》で訪れる四度目の長浜の旅。
朝10時に米原駅東口に集合し、出発。
琵琶湖を左に北上すると↑長浜城博物館が見えてくる
さらに北上し↑竹生島が大きくなってくると西野集落は近い。
現代の余呉川水路を渡る時「西野水道」の看板が見える。
先に、集落で護られてきた薬師堂を訪れた。
※千手千足観音像を「東京長浜観音堂」で拝観した時の写真を載せました
隣り合わせている西野薬師堂の十一面観音立像、薬師如来立像も拝観
※長浜・米原の観光サイトにリンクします
そして、冒頭の「西野水道」へ向かった。
↑見えているのは三本目の水抜き穴↑昭和55年に建設された。
今も四本目の水路計画が動いている。
※滋賀県のページをお読みください
西野水道が過去の遺跡でないことは、今回余呉湖を訪れた時に知ることになる※余呉湖のブログにあらためて書きます
長靴に履きかえ、ヘルメットを着用。
先週雨ばかりだったので入り口付近から水が多い↑
↑洞内の高さは(場所によって違うが)およそ二メートル。湖側は低くなっているので腰をかがめて歩く区間もある。
非常に硬い岩だが工事途中になんども崩れたので部分部分が石の支柱で支えてある。
伊勢の石工たちが手掛けた場所は四角い穴でより広くて大きい。
江戸時代のまま↑電灯もつけられていないし、足元も歩きにくい。
観光資源として人を呼ぶのに整備する必要があるという声もあったそうだが、そういう改変をされないでいることが西野水道の大きな価値だ。
測量技術の発達していない時代、傾斜をつけるために掘りなおした地点や地質により方向を変えた地点がある↑
歩いてみるとそれがよくわかる。
掘りなおした地点から足元の水の流れがスムーズになっている。
並走する↓昭和25年に完成した二本目の水路を建設する際に↓この水道から試掘した穴↓はじめて歩いた時は通り抜けるのに夢中で気付かなかった。
↑小さな石で埋め戻してあるのが確認できる↑
昭和の水道は江戸時代の水道より少し長い。
建設する際に江戸時代の穴を拡張する方法もあっただろう。
それをせずに遺したのは、江戸時代の偉業への敬意だったのかしらん。
最初に呼び寄せた能登の石工は1840年7月29日に↑琵琶湖側(西側)から掘りはじめたが↑翌年9月に39mの地点で断念↑それがここ↑
逆側から掘りなおしたが翌年4月に20m掘ったところでこちらも断念。掘りかけの穴を残して帰ってしまった。
私財を投じた村民たちの落胆はいかばかりだっただろう。
プロジェクトリーダーの恵荘にとっていちばん苦しい時期だったにちがいない。
ストップした工事をどうするか…彦根藩の奉行の見分もおこなわれた。
工事続行のため7月に新たな石工を伊勢から招へいし、工事再開。
能登の石工が断念した箇所を、伊勢の石工はどうして掘り抜くことができたのか?
「伊勢の石工は火を使ったそうです」
なるほど、新しい技術が突破口になったのだ。
琵琶湖側に抜ける。
昭和55年の水路が大きな口をあけ↑釣り人が並んでいた↑
西野水道は来る度に発見があり、さらに知りたいことが増える。
恵荘上人の記録が充満寺に保管されているとのこと、いつか見せてもらえる機会をつくりたい。
***
↑米原近くでしか売っていない井筒屋の「湖北のお話」弁当を開く↑
※このお弁当にした理由をこちらに書きました
↑目の前のこの実りも先人の苦労の賜物なのだ
午後いちばんには古橋地区を訪れる
江戸時代の水抜き穴だから雨の後は水路のようになる。
そこを歩く。
※今回の動画をごらんください
↑余呉川の水が溜まって水害に苦しんむ西野集落を救おうと発案された水路だが↑1836年には西野だけ大豊作だった↑
「水路はやめよう」という意見も出たそうだ。目の前のことしか見えなくなるのを責められない。
堀りはじめる前の意思統一のほうが苦労が多かったのではないだろうか。
水路プロジェクトの発案者=充満寺住職恵荘(えしょう)にいかに人徳があろうと、
成功するかわからない作業に財産を投じるには覚悟が要る。
彦根藩の公共工事ではない。
百戸ほどの西野の人々が食を減らし、山や土地を売って費用を捻出するのだ。
プロジェクトが失敗してもかかった費用は支払わなくてはならない。
江戸時代に工事費用を捻出するために隣村に売った土地を、21世紀になった今でも買いもどし続けているときいた。
**
《手造の旅》で訪れる四度目の長浜の旅。
朝10時に米原駅東口に集合し、出発。
琵琶湖を左に北上すると↑長浜城博物館が見えてくる
さらに北上し↑竹生島が大きくなってくると西野集落は近い。
現代の余呉川水路を渡る時「西野水道」の看板が見える。
先に、集落で護られてきた薬師堂を訪れた。
※千手千足観音像を「東京長浜観音堂」で拝観した時の写真を載せました
隣り合わせている西野薬師堂の十一面観音立像、薬師如来立像も拝観
※長浜・米原の観光サイトにリンクします
そして、冒頭の「西野水道」へ向かった。
↑見えているのは三本目の水抜き穴↑昭和55年に建設された。
今も四本目の水路計画が動いている。
※滋賀県のページをお読みください
西野水道が過去の遺跡でないことは、今回余呉湖を訪れた時に知ることになる※余呉湖のブログにあらためて書きます
長靴に履きかえ、ヘルメットを着用。
先週雨ばかりだったので入り口付近から水が多い↑
↑洞内の高さは(場所によって違うが)およそ二メートル。湖側は低くなっているので腰をかがめて歩く区間もある。
非常に硬い岩だが工事途中になんども崩れたので部分部分が石の支柱で支えてある。
伊勢の石工たちが手掛けた場所は四角い穴でより広くて大きい。
江戸時代のまま↑電灯もつけられていないし、足元も歩きにくい。
観光資源として人を呼ぶのに整備する必要があるという声もあったそうだが、そういう改変をされないでいることが西野水道の大きな価値だ。
測量技術の発達していない時代、傾斜をつけるために掘りなおした地点や地質により方向を変えた地点がある↑
歩いてみるとそれがよくわかる。
掘りなおした地点から足元の水の流れがスムーズになっている。
並走する↓昭和25年に完成した二本目の水路を建設する際に↓この水道から試掘した穴↓はじめて歩いた時は通り抜けるのに夢中で気付かなかった。
↑小さな石で埋め戻してあるのが確認できる↑
昭和の水道は江戸時代の水道より少し長い。
建設する際に江戸時代の穴を拡張する方法もあっただろう。
それをせずに遺したのは、江戸時代の偉業への敬意だったのかしらん。
最初に呼び寄せた能登の石工は1840年7月29日に↑琵琶湖側(西側)から掘りはじめたが↑翌年9月に39mの地点で断念↑それがここ↑
逆側から掘りなおしたが翌年4月に20m掘ったところでこちらも断念。掘りかけの穴を残して帰ってしまった。
私財を投じた村民たちの落胆はいかばかりだっただろう。
プロジェクトリーダーの恵荘にとっていちばん苦しい時期だったにちがいない。
ストップした工事をどうするか…彦根藩の奉行の見分もおこなわれた。
工事続行のため7月に新たな石工を伊勢から招へいし、工事再開。
能登の石工が断念した箇所を、伊勢の石工はどうして掘り抜くことができたのか?
「伊勢の石工は火を使ったそうです」
なるほど、新しい技術が突破口になったのだ。
琵琶湖側に抜ける。
昭和55年の水路が大きな口をあけ↑釣り人が並んでいた↑
西野水道は来る度に発見があり、さらに知りたいことが増える。
恵荘上人の記録が充満寺に保管されているとのこと、いつか見せてもらえる機会をつくりたい。
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↑米原近くでしか売っていない井筒屋の「湖北のお話」弁当を開く↑
※このお弁当にした理由をこちらに書きました
↑目の前のこの実りも先人の苦労の賜物なのだ
午後いちばんには古橋地区を訪れる